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龍神

作者: 柳明広

〈一〉

 バックミラーにかけてある、張子の虎のお守りが揺れている。今年の初詣で買ったものだ。

 頬杖をつきながら、純は車の窓から外を流れる風景を眺めていた。高い山が連なり、ふもとには民家が点在している。ときおり、虫とり網を持った子供たちが、荒れた田野のあいだを走り抜けていくのが見えた。子供の声は遠く、純には車のエンジン音とラジオの音しか聞こえなかった。

 なにもないところだ。胸をさすりながら、純は思った。都会の真っ只中にある彼の家や高校とは正反対の場所だった。

 サイドミラーに映る自分の顔を見た。ひどく陰気な表情をしている。もともとやせ気味だったのが、さらに細くなった気がする──無理もないが。

「おぼえているか、この道」

 運転席の父が言った。純はちらりと父を見て、軽くかぶりを振った。最後に来たのは、純が小学校にあがって間もないころだ。それまでに頻繁に来ていたわけでもないのに、おぼえているはずがない。

 「柳ヶ峰」は父の故郷だ。父の実家は大層裕福で、あたりの山の一つ二つは父の家が所有していたらしい。

 らしい、というのはそれが過去のことで、今では人づてに当時のことを聞くだけにとどまっているからだ。純の記憶にも、無駄に広い古民家に祖父母が暮らしている姿しかない。

 豪奢な家具や家宝と呼べるものがあるわけでもなく、それは「裕福」と呼ぶにはほど遠い姿だった。

 そうだ。あの家には高齢の祖父母しかいない。だというのに、およそ十年間、自分も父も柳ヶ峰を一度も訪れていない。

 それが突然、「いっしょに来なさい」と父に言われたのは、夏休みがはじまる直前のことだった。いつもひかえめな父が強い口調で命令したことにも驚いたが、行き先が柳ヶ峰だと知ってさらに驚いた。

「じいちゃんとばあちゃんになにかあったの?」純は気になっていたことを口にした。

 父の表情はかたい。口にすべきかどうか迷っているのがありありと見てとれた。

「そういうわけじゃない。……純に、用があるそうだ」父はそれだけ言った。


 無駄に広いと思っていた家だが、それでも記憶の中の家は、ひどく矮小化されていたらしい。

 どっしりと構えた門の向こうには、屋敷と呼んでもさしつかえない、立派な純和風家屋が待ちうけていた。

 こんなところに祖父母が二人だけで住んでいるのか。さぞ不便だろうと思っていると、玄関から若い女性が出てきた。祖父母のことを考えていたので、デイサービスかなにかの職員かと思った。が、こんな辺鄙な村にはたしてそんなサービスが行き届いているのだろうか。

 長く黒い髪とあわせたような、黒い双眸。歳は純より少し上、二十代前半ぐらいだろうか。不意に目があい、女が微笑んだ。柔和な笑みに、純はドキリとした。

「水樹様ですね?」女が言った。水樹は純の姓だ。「お待ちしておりました」

 どうぞ、と女が中へと招いた。

 屋敷を囲む広い庭を眺めながら、純と父、女は廊下を進んでいった。ものめずらしそうにあたりを見やる純とは対照的に、父は緊張した面持ちで前を見つめていた。

 離れの戸口の前まで来た。木の強い香りがする。

 女が戸を開け、純は息を呑んだ。

 広い建屋の中から、視線が一斉に三人に注がれた。その数、十数名。その目が父でも女でもなく、自分に注がれていることに気づき、身をすくませた。

 座布団に座って待っていたのは、高齢の男や女たちだった。一番若い者でも父と同じぐらいの歳であろう。上座には白い髭をたくわえた老人と、老女が座っていた。

「あれが水樹の長男か」誰かがぼそりとつぶやいた。「ずいぶんひ弱そうではないか」

「本当に因子を受け継いでいるのかしら」別の老女が言った。

 さざ波のように広がる声を、白い髭の老人が咳払いで黙らせた。

「純君、ひさしぶりだね。敬一も元気そうでなによりだ」

 敬一というのは純の父の名だ。口ぶりからして、この白髭の老人は敬一の父・敬伍郎なのだろう。隣にいる老女は祖母に間違いない。丸十年も会わなければ、記憶などこれほどあやふやになってしまうものなのだろう。

 敬伍郎は八十をいくつか過ぎているはずだが、その姿は壮健そのものだった。都会での生活に疲れた敬一のほうがよほど年寄りめいて見える。

「それで」敬伍郎は目を細めた。「彼にはっきりとした証が現れたというのは本当か?」

「証自体は、純が幼いときからありました」敬一が言った。「ただ、非常にうすく、判然としなかっただけです」

「純君、上着を脱いでみてくれないか」

 敬一が目を閉じた。ひそかに息を深く吸い、吐く。純を見て、かたい表情でうなずいた。

 純が上着を脱いで素肌をさらすと、老人たちのあいだからため息にも似たどよめきが起こった。

 純の胸、ちょうど心臓のあたりに、拳大のあざがあった。指の腹でこすったような痕がいくつも重なり、「鱗」のようにも見える。

「龍の証だ」

 老人たちのあいだから声があがった。

「もはや絶えてしまったと思っていたが」

「まさかこの目で見ることができようとは」

 ざわめく老人たちの姿が気味悪くなり、純はさっさと上着を着た。合掌する老人まで現れ、彼は思わず身を引いた。

 なんなんだよ、こいつら。

 わけのわからぬ状況にいらだちが募る。気がつくと、胸のあざを手でなでていた。純の癖で、落ちつかないときやいらいらしているときにこうすると、なぜか落ちつくのだ。

 敬伍郎の隣で、祖母がちらりと敬伍郎の横顔を盗み見ていた。口を真一文字に結び、感情を押し隠しているようにも見えた。

 ふと後ろを見ると、案内の女性がじっと前を──敬伍郎のほうを見ていた。純と目があうと、かすかに微笑んだ。

 敬伍郎が立ちあがった。しっかりとした足どりで純に近づく。

「君の力が必要だ」敬伍郎が言った。「この国のために、我々に協力してほしい」


〈二〉

 意味がわからない。

 あてがわれた屋敷の一室で、純は文字どおり頭をかかえていた。

 部屋は八畳ほどの広さで、机やタンスなどの最低限の調度が備えつけてある。好きなように手を加えてもいいし、必要なものがあればなんでも言ってほしいと敬伍郎は言った。

 なにしろ、この夏はずっとこの屋敷で過ごすのだから。

 不意に部屋の引き戸が軽く叩かれ、「純様」と呼びかけられた。どうぞと告げると、案内の女性が入ってきた。

「なにかご入用なものはございますか?」

 純はかぶりを振った。では、と部屋を出ようとする女を、純は呼びとめた。肝心なことを聞き忘れていた。

「そういえば、名前を聞いてな……ませんでした」

 緊張のせいか、敬語がつっかえた。笑われると思ったが、女は

「奈緒と申します」と生真面目な声で返した。

「奈緒さんはこの村の人ですよね?」

「はい、純様」

「いや、その〝様〟っていうのはやめてくれ……ませんか、奈緒さん」

「私のことも〝奈緒〟でいいですよ」

 笑顔で返され、純の顔がさっと赤くなった。年上の魅力、とでもいうのだろうか。落ちついた物腰に、同年代の少女にはない色香を感じた。

 純は咳払いし、話を変えることにした。

「さっき、俺……僕の祖父がした話だけれど、アレ、信じてる?」

「もちろんです」即答され、純は黙りこんだ。「子供のころからずっと聞かされていたことですし、それに純様の身体には〝龍の証〟があるではありませんか」

 龍の証、か。胸をさすりながら、純は祖父の話を思い返した。


 この鱗のようなあざは、純が「龍族」の血をひいていることの証らしい。水樹家ははるか昔に龍と交わったことがあり、その血を守っていくことが当主の使命とされていた。柳ヶ峰で水樹家が大きな権力を持っていたのも、その血のためであった。「龍族」は「龍神」につながり、村を守る神聖な存在として崇められていた。

 だが、血はだんだんうすくなり、二百年以上にわたって「龍の証」を持つ者は現れなかった。今では証を見たことのある者もなくなり、伝承・伝説の一部として葬りさられてしまった。その伝説も半ば風化し、村にある「柳ヶ峰神社」が水樹家の龍神を祭っていたことなど、一部の老人以外誰もおぼえていないという始末だ。

 その龍の証が、純の身体に現れた。それで祖父をはじめとする村の老人たちは色めきたったというわけだ。

 しかし……

「なんで日本を救うなんて話になるんだ?」純はひとりごちた。

 祖父の話を総括するなら、水樹家の龍神は地方の一神にすぎない。それが日本全体をどうこうする、というのは無理がある。

 それ以前に、自分にそんな力があるとは、純も思っていなかった。まさに雲の上の話だ。龍だけに。

「二百年も現れなかった証が、今になって現れたからではないでしょうか。今の日本はさまざまな問題に直面していますし、そのことと無関係ではないかと」

「でもなあ」

 さらに不信感を口にしようとしたが、奈緒の視線が鋭くなっていることに気づき、純は口をつぐんだ。

「純様は敬伍郎様のお話を信じていないのですか?」詰問するような口調だった。

「信じろってほうが無理じゃないですか」純は言った。「龍だの証だの日本を救えだの、どう考えたって信じられる話じゃない」

「……では、純様はどうしてここに残られたのですか?」

 龍の力を顕現させるために、さまざまな儀式を行う。そのために柳ヶ峰に残ってほしいと祖父は言った。純は反対しなかった。

「父さんの田舎に興味があったからだよ」

 窓の外を見ながら、ぶっきらぼうに言った。嘘を見透かすような奈緒の視線が痛かった。

「奈緒さんだって、本当は信じてないんでしょ?」努めて明るく言った。「荒唐無稽すぎるもんな。マンガとかじゃあるまいし。いくら子供のころから聞かされてたからって、こんな……」

 奈緒の双眸がさらに険しくなり、純の言葉は尻すぼみになっていった。

「失礼します」

 頭を下げ、奈緒は出ていった。


 儀式と聞いて、純は陰陽師や魔術師が行うものを想像していた。供物を用意した祭壇で火を焚いたり、巨大な魔法陣の上に生き物の血をたらしたりする、マンガチックなものだ。

 しかし、実際に儀式を受けて少々拍子抜けした。

 まず、老医師が問診をはじめた。口の中や目を調べ、龍の証の上を聴診器でていねいになぞっていく。黒い丸薬の入った袋をわたされ、毎食後に飲むようにと言われた。医者は会うたびに同じ丸薬を置いていった。

 次に変わっていたのは食事だった。味とにおいがずいぶん濃いものばかり出てくる。にんにく、にら、うなぎ、すっぽん。はては未成年だというのにハブ酒を出された。料理は祖母と奈緒が作ってくれたが、食事をいっしょにとることはなかった。

 定期的に医者に会い、毎日味の濃いものを食べる。それ以外に特に変わったことはなく、純は自由だった。

 敬伍郎は親切だった。十年も会っていなかったのに、なにかと話しかけてきては純の警戒心や緊張を解こうとしてくれた。

 祖母は遠巻きにして話しかけてはこなかった。一度だけ、純の名前を呼んで手招きをしたことがあったが、すぐにかぶりを振って部屋に引っこんでしまった。後で奈緒から聞いたことだが、祖母は祖父にずいぶん叱られたらしい。理由はわからないが。

 村での生活は、静かで快適だった。都会のようにコンビニや娯楽施設はなかったが、それを不便に感じることはなかった。車もほとんど通らず、音といえば自分の足音と蝉の鳴き声ぐらいだ。人ともほとんどすれちがわない。

 ──それにしても、人が少なすぎないか?

 陽炎のたつ道路のまんなかに立ち、前後を見わたす。まっすぐ伸びたアスファルトの道が山裾に消えていく。人影はどこにもない──自分のそばにぴったりくっついている一人を除いて。

 奈緒は白いシャツにデニムという軽装で、日傘をさしていた。黙って純の後をついてくる。純の世話をするよう敬伍郎から言われているらしく、外出時もこうやって張りついていた。

「あのさ、気を悪くしないでほしいんだけど」先日の一件以来、純は少し気をつかっていた。「ここ、〝過疎〟って呼ばれてるところ?」

「そうですね。一般に限界集落とも呼ばれている地域です」

「でも、前に子供がいたけど」

「帰省した家族のお子さんですよ。でも、すぐに帰ってしまわれました」なんにもないところですから、と奈緒は言った。「あと、水樹様にはそのこと言わないでくださいね」

「じいちゃんとばあちゃんに? どうして?」

「柳ヶ峰が限界集落であることをとても気にしていらっしゃるものですから。お気持ちはわかりますわ。私もここの出身ですもの。自分の故郷が消えてしまうかもしれないなんて、考えたくもありませんわ」

「あ……そうか、そうだよね。ごめん」

 顎を伝う汗をぬぐう純に、奈緒が日傘をそっとさしだした。

「どうしてこんな暑い日に出歩くのですか? お屋敷でゆっくりなさっていたほうがよろしいのではないでしょうか」

「いや、家にいるのも飽きたしさ」

 そう答えて、純はそっぽを向いた。

 柳ヶ峰に学校はないらしい。あるのは廃校舎が一つだけだ。中学生以下の子供はなく、高校生は街に出て寮生活を送っている。そのまま進学・就職し、ほとんどの人間が柳ヶ峰に帰ってこない。

 自分と同年代の者はいない。そのことが純を安心させた。

 ここには、自分が傷つけてしまうような人間はいない。ならば、散歩でもして気晴らしをするのもいいだろう。

「別についてこなくていいよ。迷子になったりしないし」

「そうはまいりません。私は純様のお世話を任せられている身ですから。なにかあってからでは遅いんです」奈緒はきっぱりと言いきった。

 その口ぶりに苦笑しつつも、純は少し安堵した。

 このあいだの小さないさかいが原因で、奈緒との仲がぎくしゃくしてしまわないか心配していた。さいわい、翌日からなにごともなかったように接してくれたが、それでも純は不安だった。

 奈緒とは仲よくしたい。きれいで、優しい奈緒と親しくなれたなら、ここでの生活はもっと楽しくなるに違いない。

 ──こんな人なら、恋人ぐらいいそうだけどな。

 楽しい気分がしぼむのを感じ、純は嘆息した。そして、そんな感情をかかえている自分に驚いた。

 どちらかというと、純は異性というものに対して淡白だった。草食系と言われれば、まさにそれだ。誰と誰がつきあっている、誰かが誰かのことを好きらしい──そんな話題にまったく興味のない人間だった。

 そのはずなのに、今は奈緒のことが気になって仕方がない。純は思わず、胸に手を置いた。

 突然、奈緒がぱちんと手を叩いたので、純は口ならぬ胸から心臓が飛びだすかと思うぐらい驚いた。

「もし退屈なのでしたら、柳ヶ峰神社を御覧になりませんか?」

 ご案内しますよ、と言って奈緒は笑った。その笑顔があまりにまぶしかったので、純は条件反射的にうなずいた。


〈三〉

 龍神を祭っている柳ヶ峰神社は、せまい敷地に無理やり押しこめられているように見えた。もとはもっと大きな神社だったものが、まわりに圧迫されて小さくなってしまった──そんな印象を受ける。かといって、まわりになにがあるわけではない。神社の後ろは山で、左右は森である。

 村人からも由来を忘れさられ、自然からも排斥されつつある龍神の社。あまりにひどいあつかいに、純は憐れみをおぼえた。

「村を守ってくださっている、龍神様が祭られているのですよ」純とは対照的に、奈緒の瞳は輝いていた。

 大人が五人も入ればいっぱいになりそうな境内に入り、純は社の中をのぞきこんだ。

 裸身の男の像が立っていた。うす汚れ、くもの巣が縦横にかかっている。

「龍を祭ってるんじゃなかったの?」

「あれは龍神様が人の姿をとったものです。水樹の一族と混ざりあい、その血・肉を通して偉大な力を行使されるそうです」

 像は筋骨隆々で仁王を思わせる風貌であったが、一つ違うのは、股間が異様に強調されていることだった。男性器を祭る社があると聞いたことはあるが、ここもそういうものの一つなのだろうか。

 そんなものを奈緒に見られているというだけで、少し恥ずかしくなる。奈緒は像に向かって手を合わせ、目を閉じた。その顔は真剣そのものだった。

 純もならって手を合わせた。自分と龍神は似ても似つかないが、本当にその力を受け継いでいるのだろうか。

 ──一瞬でも突拍子もない話を受け入れてしまい、純は苦笑した。


「安産祈願か?」

 奈緒より先に境内を出たところで、いきなり声をかけられた。

 階段下の鳥居の正面に車がとまっている。運転席には若い男が座っていた。奈緒と同じぐらいの歳で、開いたウィンドウからたらした右手に煙草をはさんでいる。短く切った茶髪に赤いTシャツ、ピアスという格好だ。

 男はにやにや笑いながら、純の背後にいる奈緒に目を向けていた。

 知り合い? と問いかけそうになって、純は口をつぐんだ。奈緒は今にも泣きだしそうな顔をしていた。

「行きましょう」

 背後の声に押されて、純は階段をおりはじめた。階段をおり、男に背を向けたところでまた声が飛んできた。

「まだ水樹のじじいんとこにいんのか? あんな奴のとこにいると、お前までおかしくなっちまうぞ」

 純は足をとめた。振り返ろうとするその肩を奈緒が押さえた。

「気にしてはいけません。くだらないたわごとです」

 わかっている。純は胸に──「龍の証」に、喰いこむほど爪を立てた。深呼吸し、気分を落ちつかせる。

 奈緒さんの言うとおりだ。俺が怒るほどのことじゃない。大丈夫、こっちに来てからずっと落ちついているじゃないか。

「お前が村でなんて言われてるか、知ってるか?」

 今日はじめて会った、どこの誰とも知れない男に心を騒がされることなんてない。

「頭のおかしい石女だとさ」

 男の首に純の五指が食いこんだ。引きはがそうと、男の指も純の手に食いこむ。純の手は微動だにせず、男の煙草がアスファルトに落ちた。苦悶の表情を浮かべていた男はよだれを垂らし、泡を吹きだした。

「純様!」

 悲痛な叫び声に、純は我に返った。指から力が抜ける。男は道路に四肢をつき、嘔吐した。

 こめかみで血管がドクドクと脈打っている。息が苦しい。どれだけ吸っても肺になにも入ってこない。ふっと意識が遠くなりかけ──その背中を奈緒がささえた。

 行きましょう、と呼びかける声は遠かった。


 目の前にラムネの瓶がさしだされ、純は顔をあげた。奈緒が笑みを浮かべて立っていた。左手には自分のぶんのラムネを持っている。

 柳ヶ峰神社から少しはなれた、駄菓子屋の前。二人で店先の床几に腰をおろし、ラムネを開けた。しゅわしゅわと泡が吹きこぼれそうになり、純はあわてて口をつけた。

 無言でラムネを飲む。日陰になっているとはいえ、足もとからじりじりと熱気がのぼってくる。

「落ちつかれました?」奈緒が言った。

 純は目を伏せ、「……驚きました?」ぽつりとたずねた。

「うん……少しびっくりした」

「軽蔑、しますか?」

 軽蔑、と言って奈緒は首をかしげた。

「俺、いつもあんなんなんです」

 最初に友達を傷つけたのは、今年──高校二年生になってすぐだった。

 原因はたいしたことではない。身体測定で見た胸のあざが奇妙だとからかわれただけだ。

 たったそれだけのことで、友達は拳で顎を砕かれ、二階の窓から叩き落された。木がクッションになって最悪の事態はまぬかれたが、その日から純を見る同級生の目が変わった。

 純はおとなしい子供だった。喧嘩もほとんどしたことがなく、口数も少ない。どちらかというといじめられそうなタイプだった。

 そんな純が、春から夏休み直前にかけて、怪我をさせた相手は数十名にのぼる。純に怪我をさせられたことを恨み、暴走族まがいの仲間を連れてくる者もいた。だがそれも、いたずらに怪我人を増やすだけであった。

 自分の中にこんなおそろしい力が眠っているなど、考えもしなかった。自分がこれほど激しやすく、凶暴であったことにも恐怖していた。自分はなにかちがうものに変わってしまったのではないかと思うほどに。

 柳ヶ峰へやってきた今なら、その状態に一つの比喩をあてはめることができる。

 まるで龍が暴れているようだ、と。

 母は人が変わってしまった息子を、腫れ物に触るようにあつかった。それが恐怖の裏返しであることはすぐにわかった。

 同じころ、父は頻繁に電話をかけるようになった。今ならわかるが、あれは敬伍郎へかけていたのだ。純の状態に、父にはなにかしら思いあたることがあったのだろう。それが龍神の血と関係しているというのは、あまりに馬鹿げているが。

「私は」奈緒は言葉を選ぶように言った。「嬉しかった」

 思わぬ言葉に、純は顔をあげた。

「だってそれは、龍の力の顕現じゃないですか。純様が龍神の力を継ぐ正当な後継者であることの証にほかなりません」

 さらに思わぬ言葉を重ねられ、純は返す言葉を完全になくしてしまった。

「さっきの人は、山代壮也さん。私の婚約者……だった人」

 え、と純はかたまった。あの粗野で軽薄を絵に描いたような男と奈緒がつりあうとは到底思えなかった。

「でも、結婚はしなかったんですよね」

「理由はわかりますよね?」

 石女と壮也は言った。それはけっして言ってはいけない言葉だ。

「子宮ガンを患って、それで」ちょっとそこまで、と告げるような軽い口調だった。

 それが原因で、婚約を破棄されたのか。憤然としながらも、純は壮也が言ったことが気になっていた。

「奈緒さんはどうしてじいちゃんのところに行くようになったんですか」

「水樹様が私を助けてくださるとおっしゃったからです」

 わけがわからない。純はラムネをあおった。祖父のところに行くことが、どうして奈緒のためになるのか。

 純様、と奈緒は言った。

「水樹家の龍神が司るのは、子孫繁栄なんです。壮也さんが言っていたように、柳ヶ峰神社は安産を司る社として有名でした。その神力のおかげで、柳ヶ峰は死産や流産、幼い子供の死亡が極端に少なかったんです」

「……それ、まじ?」

 奈緒はうなずいた。純は、そんな昔話を本気で信じているのか、という意味でたずねたつもりだった。

 やっぱりおかしい。この人も、じいちゃんも。あの壮也という人のほうがまともなんじゃないだろうか。

 龍神の力を受け継いでいるということは、そんな効力を純に期待しているのだろう。

「帰ろう」そう言って立ちあがった。

 無性に帰りたくなった。祖父の家ではなく、自分の家へ。


〈四〉

 家のなかが騒がしくなってきたのは、夕食後、部屋で夏休みの宿題をしているときだった。机の前でうとうとしていた純は目をさました。

 部屋を出て目をこすりながら居間に向かうと、父の声が聞こえてぎょっとした。父は純をここに置いてすぐに帰ってしまったからだ。それは敬伍郎の指示だと聞いている。

「お父さんがなんと言おうと純は連れて帰ります」父の声が聞こえた。「ここに連れてきたのは間違いだった」

「あの子は龍の力を受け継いだ救い主だ」敬伍郎の声がした。普段の祖父からは考えられない厳しい口調だ。「みなが心の底から待ち望んでいた存在なのだぞ!」

「望んでいたのはお父さんだけでしょう? お父さんの望みのために、孫を犠牲にするのですか!?」

 純は廊下から耳をそばだてた。

「どこでそんなことを吹きこまれた!?」

「とにかく、純は連れて帰ります。こんな狂った村にすがろうとした私が馬鹿だった」

 不意に背後からだきすくめられ、純は危うく声をあげそうになった。おそるおそる首をめぐらせると、奈緒が唇に人さし指をあてていた。

「こちらへ」

 純の手に奈緒の手がそっと重ねられた。

 純の部屋に戻ると、居間の言い争いは遠いものになった。

「父さんとじいちゃんはいったいなにを」

「今日はお薬を飲まれましたか?」

「え? うん、飲んだけど。それよりも犠牲って」

「では横になってください」

 奈緒は畳の上に正座すると、軽く膝を叩いて「どうぞ」と言った。

「今日はいつもと違う薬を処方していただいたんです。日中、少々興奮気味でしたので、落ちつくような薬をお願いしました」

 さっきから無性に眠いのはそのせいか。純は膝をつき、奈緒の太股に顔をうずめた。途端、強い眠気が襲ってきた。

「おやすみなさい」

「でも、父さんが」

「大丈夫ですよ。明日になればすべて解決していますから、なにも心配いりませんよ」

 唇を動かしたが、言葉は出なかった。自分がなにを言おうとしたのかも判然としない。意識に濃い霧がかかり、そのまま呑みこんでしまった。


 目を開くと、朝になっていた。強い日差しがカーテンの隙間からさしこみ、顔を照らしていた。

 布団を畳もうとして、ふと、昨夜のことを思いだそうとする。はっきりとしない。倒れるように眠りこんでしまったのか、布団を敷いた記憶すらない。こんなことははじめてだ。

 居間では奈緒が朝食の支度をしていた。純を認めると、「おはようございます」と言って微笑んだ。

「あれ……父さん、来てなかったっけ?」

「いいえ。お父様の夢を御覧になったのですか?」

 純は首をかしげた。そのあいだにも、奈緒は朝食の支度を進めていく。とりあえず卓につくことにした。

 朝食を食べ終え、ふと、気づいたことを口にした。

「じいちゃんは?」

「おばあさまとお出かけになりました。それほど遅くはならないとおっしゃっていました」

 そっか、と純は納得した。

 食器を片づけ、丸薬を飲んだら暇になった。ぼーっとしているわけにもいかず、自室から宿題の束を持ってきた。部屋でやってもよかったのだが、今日はやけに家中が静かで落ちつかなかった。テレビの音で気をまぎらわせたほうがはかどりそうだ。

 奈緒は台所の仕事を終えると、次の仕事に移っていった。

 てきぱきと動く奈緒を見て、まるで主婦みたいだと思わず笑いそうになったが、結婚するはずだったんだと思いなおした。流行の働く女性よりも、家で専業主婦をしているほうが、奈緒にはしっくりくるような気がした。それぐらい、奈緒の働きぶりは堂に入っていた。

 純様、と奈緒の声が聞こえた。

「水樹様が、今日は家にいるようにとおっしゃっていましたので、外出はおひかえください」

「じいちゃんが? どうして?」

「さあ、私にはなんとも」

 そう言ってはにかんだような笑みを見せた。

 その表情にドキッとした。思わず胸を押さえたが、心は静まらなかった。

 あらためて思う。奈緒は美人だ。壮也のような男が一度でも奈緒の心を射とめたのは、なにかの間違いではなかったのかと思う。どう見ても不釣合い、壮也には絶対に似合わない。

 座卓で宿題をしながらも、横目で奈緒の姿を追っている。心臓が痛いほど脈打ち、そして──恥ずかしいと思いながらも──下腹部が熱くなってくるのを感じていた。

 純も年ごろの健全な男子である。欲望の処理のしかたぐらい心得ている。しかし奈緒と同じ屋根の下でそんな下劣な行為はしたくなかった。

 それに、今日はそれだけでおさまってくれるようには思えなかった。

 奈緒の細くてしなやかな指、引き締まった身体、うすいシャツに浮かびあがるほっそりとした曲線、汗で頬に張りついた艶のある髪、細身ながらもそれなりに豊かな胸──

「なにをしていらっしゃるんですか?」

 奈緒が純の顔をのぞきこんだ。顔にはからかうような笑みがうっすらと浮かんでいる。奈緒の姿や動きに見とれていて、気づかれていることに思い至らなかった。

 純の頭の中を言いわけがぐるぐると駆けまわった。言葉は形にならず散り散りになり、のぼせあがった頭は顔を真っ赤に染めていく。

「奈緒さんを……見てました」

 正直に言うしかなかった。へたなごまかしは彼女の気持ちを逆なでしかねない。

 奈緒はくすりと笑った。

「純様は私のこと、好き?」

「は!?」

「私ね、純『君』ってすごくいいなあって思ってたの。壮也さんとは全然違う。とても繊細っていうか……」

 敬語ではない、友達か恋人に語りかけるような話し方が、奈緒の存在をぐっと近くに感じさせた。

 奈緒は膝をつき、猫のような挙動で純に身体を寄せてきた。純は身体を引こうとしたが、座卓にぶつかった。

 指が純の頬を伝い、唇に触れる。

「水樹様はしばらく帰ってこないから」

「こ、こないから?」声がうわずった。

「ゆっくりできる、ってこと」


 じゃり、じゃり、という金属がなにかをこするような異音で、純は目をさました。同時に音は消えた。

 頭を軽く叩きながら身体を起こす。こめかみがドクドクと脈打っている。胸に手をあてると、心臓が痛いほど激しく動いていた。妙な音はおそらく耳鳴りだろう。

 居間には西日がさしこんでいた。真っ赤な夕焼けに目をすがめ、日陰へと退散した。そのときはじめて、自分が下着一枚であることに気がついた。

 途端、今日の出来事を鮮明に思いだし、純は悶絶しそうになった。

 朝から昼すぎにかけて、純は奈緒と何度も何度も交わった。奈緒がなにか言っていたような気がしたが、それすら思いだせないほど、本能のおもむくままに彼女を欲した。

 だというのに、身体はまったく静まっていなかった。むしろより熱くなっている気がした。

 洗面所で頭から水をかぶり、冷たい水をがぶ飲みしたが、まったく変化はない。

 ──身体がおかしい。

 風邪などではない身体の変調に、純は戦慄した。今の自分は朝の自分と根本的になにかが違う。中身が別物に入れかわってしまったかのようだ。

 荒波のような不安が襲ってきた。純は夢中で奈緒を探した。広い家には純一人しかいなかった。

 つっかけをはき、庭に出た。家をぐるりとまわったが誰もいない。やかましく鳴く蝉を怒鳴りつけてやりたくなった。

 庭には大きなガレージが一つあった。倉庫も兼ねているようで、鍬やシャベル、はしごなどの工具がしまってあるらしい。祖父の話では、車は処分して原付を使っているそうだ。

 ガレージをのぞくと、軽自動車が一台とまっていた。銀色のボディはそれなりに年季がはいっていて、壁にでもこすったのか、前部に塗装した跡があった。

 その車に見おぼえがあった。が、ここにあるはずがない。父はここに来ていないと奈緒が言っていたではないか。だが、バックミラーにかかっている張子の虎のお守りを見て、これがまぎれもなく父の車だと思い知った。

 では、父はどこに?

 思いをめぐらせる前に、門扉を激しく叩く音が響きわたった。


〈五〉

「じじい、出てきやがれ!」

 声の主は門を破る勢いで叩いていた。声には聞きおぼえがあった。昨日会った山代壮也という男だ。顔をあわせたらどんな目にあうかわかったものではないが、こんな大声でわめかれてはほうっておくわけにもいかない。

 純は裏口に向かい、外壁をまわって門の外側に出た。

 壮也は純を認めると、「お前か」とうめき、汚物を見るような視線をぶつけてきた。

「水樹のじじいはどこだ」

「出かけてる。ここには俺しかいない。だから帰ってくれませんか」

「おとなしく帰れるか!」

 あまりの大声に純が目を細めると──にらんだわけではないのだが──、壮也はひるんだ。首には指の跡があざになっていた。

「あのじじいのせいで、奈緒が本当におかしくなっちまったんだ。このまますごすごと引き返せるか! 一発ぶん殴ってやらねえと気がすまねえ!」拳を握りしめ、歯をむいて威嚇する。

「奈緒さんがおかしくなったって……」

「今日、あいつが俺んとこに来て、『あなたの子供が産めるようになった』とか言いだしやがった。んなことできるわけねえのに。きっと、あのクソじじいに馬鹿なこと吹きこまれたんだ。そうに決まってる!」

 壮也がなにを言っているのか、一瞬理解できなかった。

 奈緒はたしかに少し変わったところがあった。龍神という空想以外のなにものでもないものを本気で信じていることからも、その片鱗がうかがえる。

 しかし、おかしいと呼ばれるほどではなかった。自分に降りかかった「病」という災いを冷静に見つめ──少なくとも純にはそう見えた──、純に語ってくれた。それぐらいの理性は当然あった。

 壮也の話が本当なら、奈緒は完全に狂っている。では、いつから?

 今朝の自分と今の自分が明らかに違うと感じたのはついさっきだ。ならば、奈緒にもなんらかの変化があったと考えてもおかしくないのではないか。

 壮也が純の両肩をつかんだ。背を丸め、懇願するように純を見つめている。

「頼む。もう奈緒を返してくれ」声は弱弱しかった。「お前らのワケのわからねえ企みに巻きこまないでくれ。あいつは、ただのかわいそうな女なんだ」

 こちらが一方的に悪いような言いかたに、純はむっとした。祖父のことを悪し様に罵られたことも癇に障った。

「あんただって奈緒さんを捨てたじゃないか」

「俺はそんなことしてねえ。奈緒のほうから一方的に婚約を破棄してきたんだ」

「石女だの頭がおかしいだの、ひどいことを言ってたじゃないか」

「あ、あれは……」ぼそぼそと壮也は言った。「俺の気も知らねえで、別れようとか、ありえねえだろ。子供なんか産めなくてもいい。俺はあいつが、す、す、好きなのによう」

 壮也という男は年齢よりもはるかに子供っぽいところがあるようだ。少々あきれながらも、純は話を戻した。

「今は俺以外誰もいない。いつ帰ってくるかもわからないんだ」

 そう言って、壮也を追い返した。

 夕日が山の稜線に消えていくのが見えた。蒸し暑いはずなのに、家にはひどく寒々しい雰囲気が忍び寄っていた。

 奈緒のことも気になったが、今は父のことが心配だった。なぜ奈緒は嘘をついたのか。父がまだいると知られてはまずかったのか。

 廊下に黒電話が置いてあった。家にかけてみようかと思ったが、母に無用の心配をかけることを考え、やめておいた。

 純は居間の畳に横になった。あいかわらず動悸は激しく、頭に大量の血液を送りこんでいる。目を閉じると瞼の裏が赤く明滅し、耳鳴りが……

 じゃり、じゃり。

 目を見開く。耳鳴りではない。

 畳に耳をつけ、息をひそめた。床の下から、たしかに音が聞こえる。

 地下室があるのかと思い、家中を調べまわったが、階段の類は見つけられなかった。

 縁側から床下に入りこもうかと思ったが、断念した。暗いうえに懐中電灯もない。携帯電話のライトではあまりに心もとない。

 携帯──純は弾かれるように携帯電話を取りだした。床下になにかが、いや、「誰か」が確実にいる。その誰かは、おそらく純のよく知っている人物だ。

 畳に耳をあて、父の携帯電話を呼びだす。数秒後、父の着メロ「必殺! 仕事人のテーマ」がかすかに聞こえてきた。

 ──床下からの音じゃない。

 純は総毛だった。自分はなにかとてつもない失態をおかしたのではないか。

 「仕事人のテーマ」が近づいてくるに至って、純は確信を得た。

「飛びだしちゃったのはまずかったなあ」

 苦笑いしながら廊下から現れたのは、奈緒だった。

 右手には父の携帯を握っていた。


 奈緒が嘘をついていたことは明白だった。だが、どうして。

「純様のお父様が邪魔だったの」心を見透かしたかのように、奈緒は告げた。「純様を連れて帰るとおっしゃるんですもの。そんなことをされたら、私の目的が果たせないところでした」

 でももう大丈夫、と奈緒は今までに見せたことのないような笑顔を見せた。膝をつき、純の頬にそっと触れた。

「あなたのおかげで、私は本来の自分を取り戻せました」

「ど、どういうこと?」

 奈緒は純の手を握ると、自分の腹部を触らせた。じわりと手の平に熱が広がる。

「感じますか? 純様の〝精〟を受けたことで、私は子供を産める身体を取り戻せたんですよ」うっとりと恍惚の表情を浮かべて奈緒は語った。「私の望みが果たせた以上、水樹様には御恩を返さないといけません。純様、力を貸してくださいね」

「なにを……」

 させる気だといいかけ、純は胸を押さえた。あざが異常なほど熱を帯びている。動悸がひどくなり、視界が真っ赤に染まる。

「スイッチが入ったようですね。女と交わったことで、龍神様の血が活発に動きだしたのですよ。水樹様のおっしゃったとおりですわ」

 奈緒はうずくまる純を抱き起こし、肩を貸した。

「苦しいでしょう? 水樹様のところへ行きましょう。きっと楽にしてくださいます」


 ガレージの奥に置かれていた農機具をどけると、地下に続く階段が現れた。

 動けない純は、奈緒に半ば担がれていた。女性のどこにこれだけの力があるのかと思うほど、奈緒の足どりはしっかりとしていた。

 階段をおりるごとに濃くなるよどんだ空気にむせそうになる。木と土でできた階段は歩きにくく、何度もつまづきそうになった。

 五分ほどで平坦な床にたどりついた。

 じゃり、じゃり……。床下から聞こえていた異音がはっきりと聞こえた。左手の壁にはロウソクがかけてあり、小さな椅子が置いてあった。右手には木製の格子でできた牢が並んでいる。その一つを見て、純は悲鳴をあげそうになった。

 父が四つん這いになって、牢に閉じこめられていた。足首は奥の壁と鎖でつながれ、父が動くたびに土とこすれてじゃりじゃりと音を立てた。口には猿轡をかまされ、むきだしの腕や足には痛々しいあざができていた。

 だが、悲鳴をあげそうになったのはそのせいではない。

 父の隣に祖母が倒れていた。仰向けに寝転がり、目をかっと見開いている。頭は縦に裂け、血とナニカを地面にぶちまけていた。それがなんなのか、知りたくもなかった。

「なんてこと……」奈緒は口を押さえた。

「あんたも、関係してるんだろ……」胸を押さえながら、純はあえいだ。

 奈緒はぐっと唾を飲みこみ、激しくかぶりを振った。

「敬一様が純様を連れて帰るとおっしゃるものですから、水樹様の命令でここに。乱暴なことはしない、儀式が終わるまでだとおっしゃっていたのに」

 問いつめてやりたかったが、動悸がいよいよ痛みに変じ、言葉を発することすらできなくなっていた。

「純様を覚醒させたら、解放するはずだったんです。それなのに、どうしておばあさままで」

 通路の奥、ロウソクの光が届かぬ暗がりから、敬伍郎が姿を現した。今日までずっと見てきた温和な表情が、今は得体の知れない怪物のそれに見えた。

「御苦労だったな。彼をそこへ」

 奈緒は半ば放心状態のまま、純を椅子に座らせた。支えを失った身体は体重が倍になったかのように重かった。体型は変わらないのに、密度が大幅に増えた気分だ。あまりのだるさに、手をあげることすらかなわない。

「気分はどうだい?」うなだれる純の顔を敬伍郎がのぞきこんだ。

「父さんに、なにをした」吐き捨てるように言った。口の端からよだれがこぼれ、足もとに染みを作った。

「龍神さまの血が脈動しているようだな」敬伍郎は奈緒を見た。「君と交わってから、ずっとこの状態かね?」

「は、はい、たぶん……」

「たぶん? 君は純君の様子をずっと見ていたのだろう?」

「も、申しわけありません」奈緒の声は震えていた。「純様の〝精〟を賜り、つい夢中になって……」

「あの男のもとへ行ったのか!」怒鳴り声が地下室に響いた。「馬鹿者が! 私欲のために大義を忘れおって。なにごともなかったからよかったようなものを、もし、血の暴走が起きていたらどうするつもりだ!」

 あまりの剣幕に謝ることすらできず、奈緒は縮こまってしまった。敬伍郎はふんと鼻を鳴らし、純に向きなおった。

「時は来た。純君、この国を救うために力を貸してもらおう」

「だから、なにを……」

 うめく純の肩に手を置き、敬伍郎はそっと囁いた。

「種づけをしてほしいんだよ。全日本人にね」

「種づけ?」

「そうだ。近い将来、この国の国力は間違いなく減退する。それは人口の減少によって引き起こされるだろう。その未来を阻止するため、今、手を打たねばならないのだ。

 だから純君、君の身体に宿る龍神の力を使い。全国民に種づけを行うのだよ」

 反論しようとしたが、声が出ない。

「できるわけがない、と思っているようだね。水樹の一族と交わった龍は、子孫繁栄を司る。君がその力を日本中にばらまけば、大勢の女性が子を宿すことができる」敬伍郎はにんまりと笑った。「身体の中に、なにかを感じないかね?」

 たしかに「なにか」を感じる。一人分の殻に二人の人間がつめこまれているようだ。それが重さとなって、純を圧迫している。

「それをしかるべき場所で破裂させれば、龍神の因子が日本中に飛び散る。そうすれば日本の未来は安泰だ」

 複数の足音が近づいてきた。ここにやってきた日、純を待ち受けていた老人たちだ。その中でも壮健な男二人が純の両脇をかかえた。

 牢の中で鎖が地面を叩いた。敬一が暴れている。純を取り戻そうと、地面を掻いて身体を伸ばす。

「馬鹿な息子に、馬鹿な女だ」もの言わぬ自分の妻に向かって、敬伍郎は吐き捨てた。「大義を理解できぬとはとんだ俗物よ。水樹家の面汚しめ」

「み、水樹様!」奈緒が叫んだ。「どうしておばあさまが……水樹様が手をくだされたのですか!?」

「息子につまらぬ入れ知恵をしおった。私と同じ理想をいだいているものと思っておったのだが……飼い犬に手をかまれるとはこのことだな」

 心の底が冷えるような言葉。妻であった女性に向けるそれではありえなかった。


〈六〉

 地上に出ると外は真っ暗だった。

 純は地面に仰向けに寝かされた。人工の明かりが少ないぶん、夜空がのしかかってくるような圧迫感をおぼえる。

「お前はもう帰れ」敬伍郎は奈緒に言った。「お前の望みは果たされた。あとは邪魔なだけだ」

「もう一つ、教えてください」奈緒がおそるおそるたずねた。「さきほど、〝破裂させる〟とおっしゃいましたが、どういうことですか」

「そのままの意味だ。純君の身体はじきに龍神の力に耐えきれなくなって破裂する。そのときにこんな場所にいたのでは、すべてが無駄になってしまう。因子をばらまくには、もっと広い場所へ行ったほうがよい」

「それじゃあ、純様は」

 敬伍郎が奈緒の肩を叩いた。

「これは尊い犠牲なのだ。日本の未来のための、な」

「そんな……」

「駄目だ」

 うめくような純の声に、敬伍郎と奈緒は振り返った。

「こんなものを飛び散らせるなんて……とんでもない」

「な、なにを言ってるんだ純君!」敬伍郎は純の顔をのぞきこんだ。「神聖なる龍神の力だ。悪いもののはずがないだろう」

 老人たちのあいだから白衣の男が現れた。いつも純の診察をしている医者だ。

「君がいつもなにを飲んでいるか知っているかね?」敬伍郎が言った。「精力増強剤だよ。刺激の少ないこんな村で、若者にはつらい薬だったかもしれないがね。出産を司る龍神の力を活性化させるには、これが一番効果的だったんだよ」

 医者の手には注射器があった。

「苦しいだろう? でももう少しの辛抱だ。この注射は起爆剤だ。君の身体は破裂するが、この国の未来のためだ。名誉なことだよ」

 敬伍郎がさがり、医者が前に出た。

 純の意識はすでに判然としていなかったが、今置かれている状況が絶体絶命であることはわかっていた。

 自分が死ぬからではない。自分の中に眠る龍神が解き放たれることを、純はおそれていた。

 今、純はたしかに龍神の力を感じていた。

 だが、その力がいったいなにをしてきた? いたずらに人を傷つけてきただけではないか。こんなものが人にいい影響を与えるはずがない。

 生き物が生き物を生みだすには、途方もないエネルギーを要する。そのエネルギーが、都合よく女性にだけ働きかけ子をなすだろうか。

 そんな保障はどこにもない。もし、荒れ狂うエネルギーが生き物を生みだす以外のことに使われたら……? それは脅威でしかない。

 逃げなければ。

 もがこうとしたが、手足が思うように動かない。

 ──龍だと言うなら、飛んで逃げることができれば……

「ちょっと待ってください!」奈緒の悲鳴に近い叫び声が純の思考を断ち切った。「こんな子供を殺すんですか!? 水樹様のお孫さんを。そんなことが水樹様の目的だったのですか!?」

「目的ではない、手段だ。この子にしかできないことだ。彼が生まれてきた理由といっても過言ではない。その力を有効に活用せずしてなんとする」

「でも」

「ほうっておけば、この子はどうなると思う? 行き場を失った龍神の力がどうなったか、この子が一番よく知っているはずだ。今はまだ直接的な暴力という形でしか表に出ていないが、いずれ性のはけ口を求めはじめるだろう。そうすればどうなる? 純君はただの犯罪者だ。龍神の力はけして衰えず、常に純君を悩ませる。今ここで解放してやるのが慈悲というものだ」

「で、ですが」

「自分一人だけ龍神の恩恵に浴しておいて、勝手なことを言うな!」

 そうだそうだ、と老人たちが同調した。

「いやしい石女だったくせに、龍神の恩恵を得た途端、手の平を返しおる。汚い女め」腰の曲がった老女が罵った。

「私は、ただ」言いよどむ奈緒に、さらに罵声があびせられた。

「そのような恩知らずな真似をして、龍神様の怒りを買っても知らぬぞ。まともな子が産まれてくると思うでないぞ」

「山代壮也……あんな男とのあいだにそんなに子供がほしいか。その子を誘惑してまで。本当にお前は恥知らずで身勝手な女よ」

「そのへんでいいだろう」敬伍郎は悄然とする奈緒を見つめた。「お前もわかっているのだろう? 目的のために手段を選ぶときではないと。だから、純君の監視を買って出た。違うか?」

 奈緒はうなだれ、黙りこんでしまった。その肩に敬伍郎は手を置いた。

「お前は帰りなさい。ここから先のことは私たちに任せて。さあ」

「……やっぱり納得できません」

 静かだが、力のこもった声だった。純がうっすらと目を開けると、奈緒はなにかを決意した眼差しで敬伍郎を見すえていた。

「私は健康な身体がほしかった。子供が産める、まともな身体を。だから、純様を見殺しにできない。人を目の前で死なせて産んだ子供に、私は親だなんて名乗れない」

「だから言っているだろう。これは慈悲でもあるのだと」

「そんなこと、私たちが決めていいことじゃありません!」

 奈緒は医者を押しのけ。横たわる純の身体を激しくゆさぶった。

「起きてください純様! あなただって死にたいわけじゃないでしょ!? 起きて、生きなきゃ駄目です!」

 ゴッ、と鈍い音がし、奈緒の首が斜めにかしいだ。純は目を見開いた。

 奈緒の身体が地面に倒れこんだ。敬伍郎の手には拳大の石が握られていた。庭に転がっていたものだろう。

「馬鹿者が」敬伍郎は吐き捨てた。「龍神の力があれば、地に人が満ち、この村にも人が戻ってくる。水樹家がかつての栄光を取り戻した暁には、きさまの家にも相応の便宜をはかってやったというのに」

 純は身体を起こそうとしたが、うつ伏せになる以上の動きはできなかった。すぐそばに奈緒がいる。夜闇になれた目には、奈緒の頭から黒いものが流れ落ちていることしかわからなかった。

 カッと胃が──胸が熱くなった。熱はあっという間に頭に達し、視界が赤く明滅した。

 殺してやる。

 祖父に対し一度もいだいたことのない、明確な殺意。渾身の力で身体を起こしたとき、なにかが純の手に触れた。

 奈緒の白い手だった。

「駄目です、純様。我を見失わないで」

 手のぬくもりが、一瞬だけ純を正気に戻した。今、我を失うわけにはいかない。自分の中にいる「なにか」は、もはや破裂する寸前なのだ。

 胸が急激に熱を帯びはじめた。今までの比ではない。次いで背中に走った激痛と途方もない重量に、純は悲鳴をあげた。

「おお、これは……」老人たちのあいだにどよめきが広がった。

 純の背中から、血にぬめった巨大な羽が生えていた。翼ではない、こうもりを思わせる形状をした羽が、水樹の屋敷を覆うように広がっていた。

「龍神の力が殻を食い破りはじめたぞ」敬伍郎の顔は歓喜に歪んでいた。「もう少しだ。もう少しで私の悲願は成就する! 誰にも私のことを狂人あつかいなどさせん! 私が、この国の救世主だ!」

 羽はぬらぬらとてかりながら蠢いている。母体から産み落とされたばかりの胎児のように。

 体内で龍神の力が荒れ狂っている。ここでそれをぶちまけてしまうわけにはいかないことも、いまやはっきりしていた。

 純は奈緒の手を握り返した。こんなに苦しいのに、なぜか笑みが浮かんだ。

「純様……」

「大丈夫。俺は正気だから。奈緒さんも死なないで」

 羽がうなりをあげて大地を叩いた。大気が悲鳴をあげ、屋敷の屋根が砕け散った。

 気がつくと、純は夜空に舞いあがっていた。高く、高く、星に手が届くほど高く。

 こんなところで龍神の力を解放するわけにはいかない。痛みに歯を食いしばり、純はさらに高く飛び続けた。龍神の力がどれほどのものか、純にはもうわかっていた。ゆえに、この高さでは足りない。

 高く、高く。

 深い闇が純の前に広がった。


〈七〉

 「夜空に昇る光」がテレビで話題になってから、世界中で異変が起こった。

 東欧のある村では、墓の中から赤子の泣き声が聞こえ、棺桶を掘り返してみると、棺の中に赤子がいた。棺桶の主は二日前に病死した若い女で、赤子は女の股のあいだで血まみれになって泣いていた。

 病死したとき、女は妊娠していた。


 一方、息絶えた未熟児が次々と息を吹き返すという事態がアメリカで相次いだ。一部のメディアが「死後の復活」と報じたため、バチカンでは「キリストの再来」について激しい議論がくり広げられた。

 そして、爆心地にもっとも近い日本では、奇怪な事件が頻発していた。

 子宮ガンなどで失われた子宮が再生したり、閉経したはずなのにふたたび生理がはじまったり……というのはまだいい。性交経験のない若い女性が妊娠するという事態に、日本中が衝撃を受けた。それが想像妊娠でもなんでもない、まさに「処女懐胎」であることが判明し、世界中のキリスト教関係者が引っくり返った。

 これらの事件すら、柳ヶ峰では序の口であった。


 柳ヶ峰神社はいよいよ荒廃の色を濃くしていた。

 あの光がなんだったのか、あの事件に関わっていない老人たちにもわかっていた。ゆえに、強烈な畏怖から、人々はいっそう神社に近寄らなくなった。今では取り壊しの話も出ていた。

 荒れた境内を出て、奈緒は石段をゆっくりとおりた。その腹部はわずかだが膨らんでいた。おだやかな表情で、奈緒はその上をなでた。

 階段の下には壮也がいた。髪は黒に戻し、ピアスもはずしている。「もうすぐ父親になるんだから」と奈緒にたしなめられ、すぐに生活態度をあらためたのだ。根は真面目な男である。

「もういいのか?」壮也は言った。

「うん。お礼はすませたから」

 二人は車に乗ると、国道を走って村を出た。もうこの村の住人ではないのだ。

「水樹んとこのじいさんはどうなった?」

「刑務所の中から、新しい息子さんをかわいがっているみたいよ」

 敬伍郎に新しい子供が産まれた。

 敬伍郎が産んだ子供である。

 純が空へと消えてから、柳ヶ峰では女性だけでなく男性までもが妊娠する事件が多発した。もともと年寄りばかりだった村では、ありえないできごとに呆然となり、この世も末と自ら命を絶つものが相次いだ。

 村はほとんど崩壊していた。奈緒たちが村を出ようと決めたのも、こういう状況のためだ。

 敬伍郎の子供は敬一が引きとった。敬伍郎は殺人の罪でつかまったものの、半ば狂ってしまっていた。大きくなった子供が本当のことを知ったらどうなるのか、もはや想像の外の話である。

 もし敬伍郎の計画が完璧な形で成就していたらと思うと、ぞっとする。純が空へ消え、龍神の因子を世界中にばらまいてくれたおかげで、被害は柳ヶ峰だけでおさまったのだ。

 もし、高濃度の因子が日本中にばらまかれていたら、日本という国そのものが崩壊していただろう。世界中にうすくばらまくことができたがために、柳ヶ峰という一地域の消滅だけでことはすんだのだ。

 奈緒は窓から空を見上げた。

「その……すまなかったな」壮也は言いにくそうに口を開いた。「お前にひどいことを言って」

「いいよ、別に。普通は誰もあんな突拍子もない話なんて信じないよ」

「でも本当に龍神様はいたんだな」感心したように壮也は言った。

 車は高速道路に入った。行き交う車はまばらで、壮也はアクセルを踏みこんだ。

「まあ、終わったことだ。あとは奈緒が元気な子供を産んでくれりゃ、それでいい」

 うん、とうなずき、奈緒はお腹をなでた。うつむく奈緒は微笑んでいた──かすかに暗いものをにじませて。

 純の最初の精によって、子宮は再生した。しかし、幾度もはなたれたおびただしい量の精は奈緒と密接に結びついていた。

 この中には純様が、龍神様がいらっしゃる。

 その子供を産み、立派に育てることは、最大の恩返しだと奈緒は思っていた。

 神託を受けた聖女のような、恍惚の表情を奈緒は浮かべていた。


(了)

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