全校生徒殺人事件(04)
千亜樹が右、火織が左。ならんで歩くときの定位置である。
「火織ちゃん、きょうは、いろんなことがあったんだよっ。うーん、なにから話そうかな」
「では、わたしから千亜樹に問題です。きょう体験したさまざまな出来事を、短く要約して話しなさい。10点問題よ」
「10点問題か。気合いが入るね。えーっとね……、『朝は痴漢にあって新記録がでました』!」
「……全然わかりません。0点。それより千亜樹、あなた、今朝の電車で痴漢にあったの!? くわしく教えてちょうだい。わたし、その痴漢を絶対にゆるさないわ。ねぇ、歩道橋の上で話さない?」
歩道橋の高みから駅舎をながめながら、千亜樹は火織に話し始めた。
痴漢にあったこと。
つかまえたこと。
警察にしかられたこと。
カバン投げを九磨子に禁止されたこと。
部活が記録会だったこと。
自己ベスト記録を更新したこと。
火織は、痴漢に怒り、カバン投げをいさめた警察と九磨子に同意し、千亜樹の背泳ぎ新記録をよろこんだ。
千亜樹は、左前方の歩道をならんで歩く男女が級友であることに気づいた。両手のひらでメガホンをつくって、
「おーい。クマちゃん、矢太刀くーん。バイバイ、また明日ーっ」
九磨子と矢太刀は手をふって応えた。
千亜樹と火織も手をふった。
「ねえ、火織ちゃん。クマちゃんから許可をもらってるから言っちゃうけどね。クマちゃんと矢太刀くんって、先週からつきあってるんだよ。クマちゃん、すごいんだよ。おなじクラスの男の子に告白したんだよ……っ」
「えっ。おなじクラスの子に告白したの? さらに、つきあってることをかくしていないんだ……。すごいわね。わたし、尊敬しちゃうな」
風城高校にはクラス替えがない。
級友は3年間変わらないのだ。
「すごいよね、火織ちゃん。うちの学校ってクラス替えがなくて、卒業までおなじ生徒たちとおなじ教室ですごすからね。……もしもフラれたらって考えると、なかなかクラスのひとには告白できないよね。うん、クマちゃんは、やるときはやる女なんだよ」
「……千亜樹は、もしも好きなひとができたら、おなじクラスでも告白できる?」
「うーん、たぶん、告白できないなぁ。好きな男子ができて、もしちがうクラスだったとしても、なにも言えない気がするよ」
「そう……」
火織のつぶやきを、千亜樹はなぜか悲しい声だと思った。
世にも美しい少女は空を見あげて、
「そうね。わたしも、好きな人に告白する勇気なんて、だせないな、きっと」
火織はそのまま、夕空をわたっていくオレンジ色の雲を見ていた。
千亜樹は火織を見ていた。はじめて見る火織だった。
雲がかたちを変えた。沈黙から数十秒がたっていた。
火織がほほえみながら、
「そういえば、明日は、千亜樹の16歳の誕生日ね。プレゼント、もう用意してあるわよ」
「わぁ、火織ちゃん、おぼえていてくれたんだ」
「あら、わたしが千亜樹の誕生日をわすれたことなんて、一度でもあったかしら。毎年、ちゃんと誕生日にプレゼントをわたしているはずよ」
「うん。火織ちゃんからもらった誕生日プレゼントは、全部とても大切にしてるよっ。幼稚園のときに初めてもらったネコさんパンツも、ちゃんと保存してあるよっ」
火織は耳まで赤くなって、
「ぱ、ぱんつのことはわすれていいからっ。いまはもう、はけないでしょう? すてていいからっ」
千亜樹と火織が出会ったとき、ふたりは幼稚園児だった。
5歳の千亜樹は、幼稚園に到着したバスからおりたとき、高級車から地に立つ小さな人影を見た。
5歳の火織である。
執事に手をとられて登園する火織に、千亜樹は目をうばわれた。なんてきれいな子なんだろう、まるで外国のお姫様みたい、とあこがれた。
ある日の昼寝の時間。目がさめた千亜樹はまわりを見わたした。
園児たちは眠っている。
火織がいない。
千亜樹はトイレに行った。個室から泣き声が聞こえた。
火織だ。
千亜樹は火織の泣き声を聞いたことがない。それでも、火織だとわかった。
「火織ちゃん、どうしたの、火織ちゃん」
火織は泣き続けている。
千亜樹は用具入れからバケツをとりだし、踏み台がわりに乗った。
「火織ちゃん、いま行くよっ」
バケツから跳んだ。ドアのてっぺんをつかんで乗りこえる。着地した。
火織が泣きじゃくりながら、
「だ、だめっ。見ないで、おねがい……」
と顔をかくした。上半身は園児服、下半身は裸で、ひざで下着がぬれていた。まにあわなかったのだ。床も水たまりになっている。
千亜樹は個室のカギをあけると、水道水をしみこませたハンカチを持ってもどってきた。すぐに個室のドアをしめる。
「火織ちゃん、あたしとパンツを交換しようっ」
「えっ!?」
火織は、意味がわからない。
「いいから、早く」
千亜樹は立ったままパンツをぬいだ。ハンカチと脱いだばかりの下着を火織にわたすと、続けて、火織の両足から下着をぬきとった。
火織はされるがままである。
「火織ちゃんはハンカチで体をふいたら、あたしのパンツをはいて、となりのトイレに行ってね。いそいでっ」
「あ、あなたはどうするの?」
「あたしは、だいじょうぶだから」
千亜樹は笑った。作り笑顔ではなかった。
火織がとなりの個室に移動した。
千亜樹は肺いっぱいに空気をすいこんで、
「先生、あたし、おもらししちゃった!」
と大声で教諭を呼んだ。
次の日、火織は幼稚園に来なかった。
次の次の日も来なかった。
夜、千亜樹の家のまえに高級車がとまった。
来訪者は火織だった。
千亜樹が玄関でたずねた。
「火織ちゃん、こんばんはっ。どうしたの?」
火織はひとりだった。リボンのついた紙ぶくろを千亜樹に手わたして、
「あの……あのね。こ、これ、あたらしいパンツなの。このまえはありがとう、ごめんなさい」
千亜樹は中身をとりだした。猫の顔がプリントされている下着だった。
「火織ちゃん、ありがとうっ。きょうは、あたしの誕生日なの。このネコさんパンツ、火織ちゃんからの誕生日プレゼントだと思って大切にするねっ」
火織の表情が明るくなった。
「火織ちゃん、明日は幼稚園に来る? あたし、まってるよっ」
「うん、千亜樹ちゃん。明日は行くよ!」
翌朝、千亜樹が幼稚園のバスに乗ると、うしろの席に火織がいた。
「千亜樹ちゃん、おはよう」
「火織ちゃん、おはようっ」
となりにすわった。
ふたりは、どちらからともなく手をつないだ。
歩道橋の上でセーラー服の火織が言った。
「千亜樹……まさか、あなたが、あのときの下着をまだ持っているとは思わなかったわ……」
えへへ、と千亜樹は笑っている。
「ねぇ、千亜樹。駅前のコンビニによってくれる? なんだか疲れちゃった。あまいものが食べたいわ。わたし、『きのこの都』を買おうかしら」
「あたしは『たけのこの街』を買おうかな。たけのこのクッキーのサクサク感は、きのこにはないものだからね」
「あら、『きのこの都』と『たけのこの街』は、チョコレート菓子なのよ。純粋にチョコだけでも満足させてくれるきのこのほうが、看板にいつわりなしだわ。たけのこには、チョコが不足していると思うの」
きのこ・たけのこ論争をしながら、ふたりは歩道橋をおりていく。
火織が階段から足をすべらせた。
「きゃっ」
「火織ちゃん、だいじょうぶ!?」
火織は倒れなかった。
千亜樹が火織の手をにぎったのだ。手をつないだままで、最後の段からおりた。
千亜樹は小さな異変を感じた。
火織が、にぎった手をはなさない。
「……ねぇ、千亜樹。このまま手をつないで駅まで歩いていい?」
「ええー、高校生にもなって。火織ちゃんはあまえんぼうだなぁ。しょうがないなぁ」
数年ぶりに手をつないで、ふたりは風城駅へ歩き始めた。コンビニには行かなかった。自動改札のまえで立ちどまるまで手をにひとつにしていた。
改札をぬけ、ふたりは手をふって別々のホームにおりた。
千亜樹は川崎方面、火織は立川方面である。高校入学直後に連城家が転居したので、ふたりの家はおなじ市内ではなくなっている。
千亜樹が先に電車に乗った。
窓のむこうに火織が見える。
千亜樹は小さく手をふった。火織の微笑がわかった。
電車が動きだす。
時速5キロメートル、20キロメートル、60キロメートル。
車影が消え、残響がとどいていた。
火織は、千亜樹が去った方角から、視線をずっと移さなかった。
「さようなら、千亜樹」
美しすぎる少女は、幼なじみが見えなくなった彼方に、たしかにそうつぶやいた。