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殺人鬼を殺す者(03)

 朝霧地鶴が運転する大型ワゴン車が、明治通りを北上していた。

 助手席には鬼火隊員1名、後部座席には副指令・原田武定と堕天使・原田菜々瀬が同乗している。

 菜々瀬は、倒したシートに横になり、荒々しく胸を上下させていた。鬼火本部で受けた傷は、まだ完治には遠いのだ。

 ワゴン車は連城火織のアジト、天空座へむかっていた。菜々瀬の強い希望によるものである。

 もしも菜々瀬の傷が治ったら、すぐに菜々瀬・原田武定・朝霧地鶴・鬼火隊員の4人でアジトへ突入する予定であった。武定も朝霧も助手席の隊員も、戦闘服を着ている。

 だが――。


「……千亜樹さんが、連城火織の潜伏先で、2体目の天使を斃しましたわ……。宣言どおり、天使1体を5分以内で殺しています。残る天使の数は、連城火織をふくめて、あと2体ですわ……」


 武定が娘の手をにぎり、


「そうか、桜木さんがやってくれたか……。天使のアジトに単身で乗りこみ、10分たらずで天使2体を死滅させるとは。我々鬼火は心強い仲間を得たものだ……」

「……お父さま、朝霧さん、いそいでくださいませ……。わたくし、とてもいやな予感がしますわ……。早く千亜樹さんを助けに行かなきゃ……」


 と言った瞬間、菜々瀬は口元を押さえてせきこんだ。手のひらは血でそまっていた。せきはとまらない。

 朝霧地鶴が、まえをむいたまま言った。


「……副指令、ご決断を」


 原田武定は、うむ、と答えてから、13歳の娘の手をにぎって、


「……菜々瀬。おまえが完治したならば、連城火織のアジトに我々4人で乗りこむと約束したが、おまえの傷はまだまだ治っていない。無理もない、肺を真っ二つに切られたのだ。いまも、おまえは肺に血をみたして溺死寸前の苦しみに耐えながら、体を回復させようと必死なのだろう」

「お父さま……」

「……このまま車を進めれば、おまえが回復するまえに連城火織のいる天空座に到着してしまう。戦うのが私と隊員2名だけでは、天使2体に立ちむかうには戦力不足だ。残念だが、天空座へむかうことは中止にしよう。……私は、死ぬことがこわいのではない。私自身が天使たちの人質になってしまい、桜木さんの刃をとめてしまうことが恐ろしいのだ」

「そんな、お父さま……。いやですわ、わたくしは、千亜樹さんを助けに行きます……。お願いです、車をこのまま天空座に走らせてください……」


 原田武定は首を横にふって、


「朝霧一尉。次の交差点は直進せず、左折しろ。我々は天空座にはむかわず、渋谷西部で待機するっ」

「了解しました」


 と朝霧は答えた。

 菜々瀬は、横たわったまま涙をこぼして、


「わたくし、くやしいです。わたくしの能力が、〈千里心眼パース・シーカー〉なんかじゃなければ良かったのに。もっと戦闘の役にたつ、攻撃的な能力だったら良かったのに……。わたくしにもっと強い力があれば、こんな深い傷を受けることもなかったのに……」


 原田武定は、慈愛の視線で、


「……菜々瀬。おまえの考えはまちがっているよ。〈千里心眼パース・シーカー〉は、すばらしい能力だ。おまえが千里眼使いであるおかげで、我々鬼火は天使化を何十回も先回りして防ぐことができた。何百人もの命を、未然に助けることができたのだよ。堕天使・原田菜々瀬は、何千人もの涙の未来を回避してくれた、比類なき功労者だ。おまえは私の自慢の娘だ。鬼火の誇りだ。……いまは、鬼火が誇るもうひとりの勇気ある堕天使、桜木千亜樹さんを信じよう」

「お父さま……」


 と、菜々瀬は父親の手をにぎり返した。

 菜々瀬は瞳をとじて、


「……千亜樹さん、助けに行けなくてごめんなさい……。どうか、どうか死なないで……」


 と、いのるようにつぶやいた。〈千里心眼パース・シーカー〉が、洋館の階段をのぼる千亜樹を、菜々瀬の脳内に映しだしていた。




 千亜樹は、なだらかな階段をのぼりきると、洋館の2階に立った。

 2階も、照明は燭台に乗ったろうそくの明かりだけであった。

 千亜樹のまえに3方向にわかれた廊下があった。どちらへ進むべきか。


 右か。


 左か。


 前か。


 ふと、千亜樹は、虫が飛ぶような気配を感じた。

 突然、右廊下と左廊下のろうそくがすべて消えた。

 左右は闇になった。

 千亜樹の正面の廊下だけ、暗黒へみちびく不吉な誘蛾灯のように明かりがともっていた。


(まっすぐ来い、ってわけか。上等よ。どんな罠が待っていても、行くっ)


 眼帯少女は二刀のナイフを手に、正面の廊下を進み始めた。

 大ホールにでた。1階のダンスホールに比べれば規模は小さいが、2階ホールも充分に広壮である。交響楽団をまねきいれ、数十人の観客のためにコンサートをできるだろう。

 いま、大ホールには、ソファーやラウンドテーブルなどの家財はなかった。大理石の床の上に空間が広がっている。

 千亜樹は、20メートル先の対面に天使を見た。

 天使の少女は、不動で、眼帯少女がホールに立つのを待っていたのだ。

 ロングスカートのエプロンドレスをまとった長身の少女だった。


 智原ともはら佐綾さあや、17歳。高校3年生。


 連城火織に仕える最後の天使である。

 腰のまえで手を自然体にかさねていた。両手の甲から白い翼がはえている。胸のエプロンが、白いエプロンを優雅に隆起させていた。冷たい美貌。右眼がルビー色、左眼はサファイア色。虹彩異色オッドアイである。

 午前零時ちょうどに絵画からぬけだしてきたような、現実離れした美しさの少女だった。


「火織お嬢様のお屋敷にようこそ。わたくしは、智原佐綾。天使になるまえから連城家のメイドとして、火織お嬢様のお世話をさせていただいているわ」


(……智原、佐綾……)


 千亜樹はなぜか、佐綾の名前をおぼえなければならない気がした。名乗らなければならない気がした。


「あたしの名前は、桜木千亜樹。対天使特殊戦闘部隊・鬼火に所属する堕天使よ。連城火織を殺しに来たわ」

「火織お嬢様は、3階の大広間にいらっしゃるわ。――わたくしを殺せたら3階へむかいなさい。殺せるものなら、ね」


 火織の居場所を聞いた千亜樹は、神速で走った。〈光速改造ソウル・プロシージャ〉・風光絶火を発動していた。颶風より速く佐綾にせまる。

 オッドアイ天使の能力は不明。

 風光絶火の超加速体術で佐綾の首を切り落とし、先手必勝を実践するつもりだった。


 できなかった。


 佐綾まであと2メートルの距離にせまったとき、神速の千亜樹は、見えない壁に激突してはじき飛ばされた。


(いったい、なにがおきたの!?)


 佐綾が右の手のひらを千亜樹にかざした。

 それだけで、千亜樹は全身の自由をうばわれた。空中で静止する千亜樹。

 動けないだけではなかった。眼帯少女の体が、意志とは無関係に動く。見えない巨人たちが人形のポーズを変えるように、無理やり千亜樹の手足を移動させていく。

 千亜樹は、ナイフを持った両手をななめ45度にあげさせられ、両足を閉じさせられてYの字の体勢となった。つま先は床から10センチ浮いている。

 メイド少女の右手のひらから、どのような妖技が発動しているのか。


(動けないっ……! 見えないなにかにつかまれている、なにかにしばられているっ)


 眼帯少女は、右拳から、かろうじて風光絶火の解除信号を体内に送信した。

 佐綾までの距離、3メートル。

 佐綾を目視した千亜樹は、


「そうか、おまえは、――風城高校のみんなが殺されたあの日に、グラウンドに立っていたメイドねっ!?」


 と、悲しい記憶をほりおこした。

 佐綾は答えず、


貴方あなたは、わたくしを5分で殺すと宣言したわね。だから、貴方をすぐには殺さないわ。5分をすぎてから殺す。貴方に有言不実行の不名誉をあたえてから殺してあげるわ」


 眼帯少女は、全身全霊で体に行動命令を発した。動けない。指をひらくこともできない。動ければ1秒とかからず殺せる距離に立つオッドアイ天使に、千亜樹の隻眼は痛恨の視線を送っていた。

 智原佐綾が右手のひらを千亜樹にむけたまま、


「貴方に、ふたつ、お礼を言うわ」


(お礼?)


「貴方が火織お嬢様にしたがう天使たちを殺してくれて、わたくし、とってもうれしいの。おとといまでは、火織お嬢様の配下の天使は7人いたわ。でも、いまは、わたくしひとりだけ。これでいいの。これがあるべき姿。火織お嬢様にお仕えするのは、わたくしだけでいい。世界に、天使は、わたくしと火織お嬢様だけでいい。6人の天使たちを殺してくれた貴方に、感謝するわ」


(この天使、仲間の天使を殺されて、うれしいと言ったの!?)


「もうひとつ、貴方に感謝することは――貴方が、わたくしの手で殺されてくれることよ」


(いったい、どういう意味!?)


 千亜樹は、佐綾の異常な告白に目を見ひらいた。


「わたくしを、全校生徒殺人事件の日に見たと言ったわね? そのとおりよ。わたくしはあの日、風城高校にいた。でも、貴方がわたくしを見たのは、あの事件の日が初めてではないわ。……やっぱり記憶にないのね。わたくしと貴方は、過去に何度も会っているのよ。天使になるまえから、わたくしは何度も何度も、貴方を見ていた。貴方の横で笑っている火織お嬢様を見ていた。1年前の春、貴方がこの洋館に来たこともおぼえているわ。でも、貴方は、わたくしをおぼえていない。赤い右目と青い左目の女を、記憶のかけらにも残していない」


 ぎしり、と千亜樹を縛鎖する不可視の握力が強くなった。


「貴方は火織お嬢様のそばにいるとき、お嬢様しか見ていなかった。お嬢様も貴方だけを見ていた。だから、わたくしは貴方をゆるさない。桜木千亜樹、火織お嬢様の幼なじみ。同級生。何年ものあいだ、貴方を憎んできたわ。貴方の罪は、わたくしより早く火織お嬢様に出会ったこと。貴方という罪人をわたくし自身の手で殺せるなんて、こんなにうれしいことはないわ」


(いままでにも、火織に強烈な忠誠心をしめす天使はいた。だけど、こいつは、智原佐綾は異常すぎる。この女は火織の部下なんかじゃない。連城火織を崇拝する狂信者だ……っ)


 と、千亜樹は、佐綾の奥底にひそむ昏い炎を感じていた。


「貴方を殺す。火織お嬢様の心からも、貴方を消してみせる。――らくに死なせるつもりはないわ。こんなふうに、たくさん苦しんでもらうの」


 と、メイド少女は、右手に続いて左手のひらを宙づりの堕天使にむけた。

 千亜樹の腹部から血が噴きあがった。火砲で撃ちぬかれたように風穴があいたのだ。腹部右側に直径7センチの貫通痕ができていた。佐綾が下半身に返り血をあびるほどの大出血であった。

 千亜樹はたまらず、


「がはっ!」


 と声をあげた。

 大量の血が床にしたたり落ちていく。

 だが、落ちない血があった。千亜樹の腹部のまえで、あざやかに赤い液体が浮いていた。

 中空に静止する血が、佐綾の能力の正体をそめあげていた。

 眼帯少女はさけんだ。


「そうか、おまえの能力は――触手しょくしゅっ!」


 千亜樹の体が血を噴いたいまならわかる。堕天使の全身は、透明長大な触手にまきつかれて自由をうばわれていたのだ。腹部に穴をあけられたのも、触手に串刺しにされたためである。


「そう、わたくしは触手使い。ただの触手ではないわよ? 太さを変えることもできるのよ。……こんなふうに」


 瞬間、千亜樹は、


「がふっ!」


 と、痛苦の声をもらした。腹部の直径7センチだった貫通痕が、直径10センチに増大していた。

 大理石の床に血だまりが広くなる。

 佐綾は、ほほえみながら、


「そうよ、いい顔よ、桜木千亜樹。貴方のその悲鳴を聞きたかった。わたくしの触手にもだえ苦しむ顔を見たかった。……貴方が2階にあがったあと、左右の廊下の明かりが消えたのをおぼえているかしら? ろうそくを消したのは、わたくしの触手なの。あのときに貴方を殺そうと思えば殺せたわ。でもね、わたくしは、貴方の顔をこの目で見ながら殺したかった。わたくしの顔と名前をおぼえさせてから殺したかった」


 千亜樹は、腹部を貫通する触手をつうじて攻性電気信号インパルスを佐綾へ送った。


 とどかなかった。


 見えざる触腕は、電気をとおさないのだ。

 秘技〈光速改造ソウル・プロシージャ〉を発動した千亜樹は全身を縛鎖され、大流血の傷を受けている。

 佐綾は戦闘開始から一歩も動いていない。両手をまえにかざしただけだ。1本の触手で千亜樹の動きを封じ、もう1本で千亜樹を串刺しにしている。

 いま、千亜樹の命は、死神の手の上にあった。


「桜木千亜樹。死ぬまえに、わたくしのことをいやでもわすれられないようにしてあげるわ。――火織お嬢様が風城高校の全校生徒を殺したとき、わたくしは、そのお手伝いをしたの」

「……ど、どういう……こと……!?」

「わたくしが触手をのばして、教室のドアをすべて開かないようにした。携帯電話で通話できないように校舎全体を触手でかこいこみ、圏外にした。あの日の全校生徒殺人は、天使になってからの、わたくしと火織お嬢様の初めての共同作業。たのしかったわ。もっと生徒の数が多ければ、もっともっとたのしめたのに。ふふふ」


 惨劇の日の記憶が、千亜樹の感情をゆさぶった。

 堕天使の少女は、殺人の記憶を朗々と語る天使をにらんで言った。


「――全校生徒を殺して、たのしかったと言ったな……。もっと殺したかったと言ったな……。おまえは、あたしを怒らせた……っ」


 佐綾は、眼帯少女から熱風が吹くのを感じた。佐綾の前髪はゆれていない。大気は動いていなかった。

 桜木千亜樹から渺渺びょうびょうと吹きすさぶのは、殺意と決意の波動だった。

 赤目蒼眼の少女は、不動の堕天使に気圧されて、右手から出現させていた触手をさらに延長して千亜樹の腹部左側をつらぬいた。

 佐綾の白いエプロンが鮮血の赤にそまった。

 隻眼の堕天使は悲鳴をのどで殺して耐えてみせた。腹部の左右に穴をあけられ、血の池が床に広がっていく。

 佐綾は、両手のひらをまえに突きだしたまま、


「なんとでも言うがいいわ、桜木千亜樹。貴方は動けない。貴方の命はわたくしがあと数秒で終わらせる。貴方を殺したあとは、特殊部隊の生き残りをひとりずつ殺してまわるわ。きょうからは、火織お嬢様とわたくしだけが、神に選ばれた高貴なる天使。偉大なる神の代行者。そして、お嬢様とふたりきりの生活を始めるの。新居をどこにするか、お嬢様と相談するのがたのしみだわ」

「おまえたちは、神に選ばれた天使なんかじゃない。手に入れた力におぼれた、ただの殺人鬼だ。心の弱い人間だっ」


 と千亜樹は断言した。


「面白いことを言うわね、桜木千亜樹。貴方はすでに、大蔵来須、権守ミサ、能勢白兎、能勢黒兎、主堂ツミ、宝座有鎖、の6人の天使を殺しているわよね。天使のことを人間だというなら、貴方は6人を殺した人殺し。まぎれもない連続殺人犯。貴方は死後、地獄に行くということね?」


 桜木千亜樹は燐火を隻眼にやどらせて、


「そうだ、あたしは、おまえたち〈天使〉を名乗る殺人鬼を殺す者。おまえたちが24時間生きるだけで、何百人のひとが悲しい涙を、くやし涙を流す。おまえたちを殺せるなら、あたしは、よろこんで地獄に落ちてやるっ。先に地獄で待っていろ! 〈光速改造ソウル・プロシージャ〉――灰塵別葬かいじんべっそう!」


 千亜樹は両手から攻性電気信号インパルスを発火させ、全身に肉体改造命令を送信した。腕・肩・背中を中心に、少女の筋力が数倍に増加する。いま、千亜樹の腕力は、あらゆる敵を素手で塵に分解して葬りさる破壊力をそなえていた。


 隻眼の堕天使は二刀のナイフをすて、空中で両手両足を一気に大文字に伸ばした。怪力で2本の触手をひきちぎったのだ。千亜樹の両手は腹部からぬきさった触手の先端をにぎっていた。


「きゃあああっ」


 と、さけんだのは佐綾である。触手を裂かれれば、オッドアイ少女も痛みを感じるのだ。

 着地した千亜樹は、佐綾の首をひきちぎらんと血の池を疾走した。血しぶきがあがる。いまの千亜樹なら――灰塵別葬の腕力があれば、天使の首をにぎりつぶすことは可能である。

 眼帯少女の右腕が、佐綾の白い首へ伸びる。

 佐綾は、破壊神の腕をかわそうと後退する――。


 千亜樹の五指が佐綾の首をつかんだ。


(勝ったっ!)


 と、千亜樹が首をにぎりつぶそうとした瞬間、信じられないことがおこった。

 灰塵別葬の腕は見えない力に一瞬でひきはがされ、千亜樹は宙にはじけ飛んだ。眼帯少女の両手両足は速射砲で撃ちぬかれたように血の花を繚乱と咲かせていた。貫通痕は、合計98。

 千亜樹の体は空中で固定されて、地上1メートルの高さで十字の姿勢をとらされた。

 佐綾の首には、千亜樹の手のかたちに痣が残っていた。


 エプロンドレスを返り血で赤黒くそめたメイド少女は、見えない十字架にかけられた千亜樹を見あげて冷然と言った。


「残念だったわね。わたくしの触手は2本だけじゃない。100本よ。貴方の怪力より、わたくしの触手98本のほうが強かったようね」


 オッドアイの少女は、98本の触手で千亜樹の体をつらぬいたのだ。さらに、いまは触手をまきつかせて全身の動きを固定していた。


 天使・智原佐綾の能力は〈百腕獄手ヘカトンケイル〉。100本の伸長自在な触手が敵をしばり、貫通する。感覚器官をそなえているので遠方の偵察も可能である。しかも透明な触手なのだ。佐綾の敵は見えない鎖にしばられ、影のない槍に突かれて絶命するだろう。

 テレビ局のプロデューサーにダンボール箱をとどけたのも、風城高校の敷地内にマスコミを侵入させなかったのも、長大な間合いを持つ佐綾の〈百腕獄手ヘカトンケイル〉の勲功であった。


「桜木千亜樹、そろそろ戦闘開始から5分がすぎるわ。わたくしの顔、わたくしの名前、わたくしの触手の恐ろしさをおぼえたまま、地獄に行きなさい」


 千亜樹の生気がうすい。瀕死だった。血を流しすぎたのだ。だが――


(……もう、腕は動かない。足も動かない。手の指は? ……よし、指は動く。指を動かせるなら、あたしの勝ちだっ……)


 千亜樹は、最後の力をふりしぼって言った。


「……あたしにも、触手はあるのよ。赤い触手がね」

「なんですって?」


 佐綾が疑念の声をだしたとき、

 千亜樹は、右手の人差し指から小指まで、4本の指を手のひらに奥深く突き刺した。血があふれる。一条の血がほそい滝のように、床の血の池にとどく。


「――走れ、〈光速洗脳ソウル・ハッキング〉!」


 血は赤い水である。電気をとおす。


 眼帯少女の右手で発火した攻性電気信号インパルスが、手のひらから流れる血を伝わって床の血の池へ、血の池から佐綾の靴へ電流疾走した。

 通常、靴は微弱電流をとおさない。しかし、何度も千亜樹から返り血をあびた佐綾の足元は、いまはシューズもソックスも鮮血にそまり、極めて高い電気伝導性を持っていた。

 靴がぬれたのは返り血だけではない。灰塵別葬で触手から自由になったとき、千亜樹は走るあいだ、血しぶきがメイド少女の足元へ飛ぶように計算していた。佐綾の触手が3本以上ある可能性に、隻眼の堕天使はそなえていたのだ。

 攻性電気信号インパルスは佐綾の足から脳へ駆けあがり、脳神経細胞の洗脳を千分の1秒で完了した。


「……智原……佐綾、……おまえに命令するわ。あたしを、地上におろしなさい」


 佐綾はしたがった。98本の触手は、千亜樹を着地させた。


「……あたしにまきついた98本の触手を、ゆっくり……はずしなさい。そのあとは、ナイフを2本ひろって、あたしの、両手に持たせなさい……」


 触手は服従した。

 佐綾は、顔の筋肉をふるわせたまましゃべれない。行動を千亜樹の洗脳術により禁じられているのだ。

 立ち続ける千亜樹も、両手両足をガタガタとふるわせていた。98の貫通痕があるのだ。立っていること、ナイフを手にすることだけでも通常は不可能だ。

 だが、千亜樹は動いた。


(……あたしは、きょうこの日のために堕天使に生まれ変わった。佐綾をたおす。火織を殺すっ。お願い、あたしの腕と足。どうか、いまだけはくずれ落ちないで……っ)


 眼帯少女の右手が、佐綾の頭部に伸び、ひたいにふれた。


「……連城火織の天使能力を教えなさい。おまえなら、知っているはずだわ」


 圧縮された時間のなかで千年の拷問を受けた佐綾は、主の秘密を語り始めた。


「……火織お嬢様の能力は、〈神滅業火ザラマンデル〉……、神をも滅ぼす地獄の業火……」

「火織の能力は、火炎をあやつるのねっ!?」

「そう……よ……。全校生徒殺人のときにお嬢様が使われたのは、炎のむち……。切断面を黒こげにしないようにするのに、苦労したとおっしゃっていたわ……」


 ぐらり、と千亜樹はバランスをくずして体をかたむかせ、両足に全力をこめて持ちなおした。体を触手にささえさせることはしたくなかった。

 千亜樹が言う。


「そろそろ戦闘開始から5分がすぎるわね。おまえには、ほかのどの天使よりつらく苦しい死に方をしてもらうわ。主の秘密をもらしたこと、風城高校のみんなを殺したこと、〈天使〉に生まれ変わって人を殺したことを後悔しながら、――地獄に、落ちろっ」


 千亜樹は、赤いナイフを深々とオッドアイ少女の胸に突き刺した。

 鮮血があふれる。


 智原佐綾、盲愛の〈智天使ケルブ〉は、隻眼の堕天使に胸をつらぬかれて白亜の洋館にたおれた。



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