白と黒の邪悪(02)
1時間後、千亜樹は、ぱちりと目をさました。そっとおきあがる。菜々瀬に毛布をかけなおす。髪をむすび眼帯をつけ、音をたてないように部屋をでた。
眼帯少女はポニーテールをゆらして、パジャマ姿のままでエレベーターに乗った。地下3階でおりた。
巨大なモニターの設置された、鬼火の指令室である。
副指令の原田武定が、
「どうしましたか、桜木さん? まだ2時間ほどしか眠っていないのではないですかな」
千亜樹は首をふって、
「いいえ、睡眠は、もう充分にとりました。――〈8時間分〉寝ました。それよりも、お願いがあって来ました。あたしにナイフを教えてほしいんです」
「ナイフ?」
「はい。あたしは、きのうの夕方に堕天使になったばかりで、戦闘経験がたりません。きのう、桜木町で菜々瀬ちゃんのナイフ投げを見ました。すごかったです。ねらいどおりに命中させていました。それを見て思ったんです。あたしはただ、堕天使の腕力でナイフをふりまわしているだけだって。もっとムダのない、もっと実戦的なナイフの使い方をおぼえたいって」
「ふむ、武器はナイフでよろしいのですかな?」
「はい。あたしの能力は、敵に直接さわらないと発動しませんから、敵の至近距離にもぐりこむ必要があります。ナイフで敵を傷つけて、隙をつくって直後に敵にさわる、という戦い方がいいと思っているのですが、どうでしょうか」
「ふむ、理にかなっていますな。いますぐ訓練を始めたいのですかな?」
千亜樹は隻眼に強い意志をこめて、
「はい、お願いしますっ。どなたか、ナイフが得意な隊員の方に、あたしと一対一で戦ってほしいんです。あたしは守ること、よけることしかしません。ナイフの使い方を目と体でおぼえたいんです」
「鬼火で一番のナイフ使い、か。……朝霧一尉っ」
「はっ」
長身の女性が、指令室の中央で立ちあがった。20代後半、アシンメトリーショートカットの精かんな顔だち。千亜樹と武定のそばに駆けよる。
武定が命じた。
「朝霧一尉、堕天使のお姫様が、ナイフの使い方をおぼえたいそうだ。いますぐC装備を着用し、訓練室で切りきざんでさしあげろ」
「はい、朝霧地鶴、了解いたしました。しかしながら、可憐な女子高生が相手では、本気をだす自信がありませんっ」
千亜樹は、くすりと笑って、
「可憐だなんて、ありがとうございます。でも、あたしは、全力で防御・回避します。鬼火ナンバーワンのナイフ使いがお相手でも、かすり傷ひとつ受けないつもりですよ?」
原田武定は、あごヒゲをさわりながら、
「――朝霧一尉。もし、お姫様のパジャマを切ることができれば、冬のボーナスは5パーセントアップ。体に傷をつけられれば10パーセントアップを約束しよう。……どうだ、やる気がでたか?」
おおお、とフロアから声があがる。
「朝霧地鶴、ただちに訓練室へむかいますっ」
と、長身の美女はエレベーターに乗りこんだ。
5分後。
朝霧地鶴は、鬼火本部・地下2階の訓練室の中央に立っていた。顔は防具なし。体は、黒にオレンジの線が描かれた耐衝撃スーツを着用している。均整のとれたプローポーションだが、スーツの上からでも鍛えぬかれた筋肉の躍動感がわかる。武器は赤いナイフであった。千亜樹が使ったものより短く、うすい。人間用に改良された、アルテマチタン合金製のライトナイフである。左右のブーツにもナイフが収納されていた。ブーツナイフだ。
千亜樹は、眼帯とパジャマ。素手で朝霧とむかいあっていた。
訓練室は約30メートル四方の広さであった。床も壁も天井も、耐衝撃・防音素材である。
ふたりきりの訓練室で、朝霧地鶴が言った。
「千亜樹ちゃん、それでは、これから、ナイフで全力攻撃をさせてもらうわ。――ナイフをかわす方法ではなくて、ナイフの使い方をおぼえたいのよね?」
「はい、そうです、朝霧さん」
「なら、模擬戦闘を開始するまえにアドバイスするわね。堕天使の体術を使って、大きく遠くよけるのはダメ。最小限の動作で回避と防御をして、私の目線と全身の動きを至近距離で追ってちょうだい。ボーナスをアップさせたいから言っているわけじゃないのよ」
朝霧は白い歯を見せた。
「はい、わかりました」
「じゃあ、行くわよ、千亜樹ちゃん。よろしくお願いしますっ」
「はい、朝霧さん。よろしくお願いしますっ」
瞬間、朝霧のナイフがななめ下から千亜樹の胸を襲った。獲物に跳躍する赤い蛇。胸骨下部のくぼみから刀身を体内に突きいれて、心臓を縦方向に貫通する即死攻撃である。
千亜樹は数センチだけ後退して身をかわした。
朝霧は目をかがやかせて、
「さすが堕天使、いまの奇襲がかすらないなんて。千亜樹ちゃん、さっきの攻撃のねらいがわかる? あの動きが、胸骨をとおさずにナイフを心臓にとどかせる角度よ。骨を突きとおす必要がないから、肉を切る力があれば、人間でも天使の心臓をつらぬくことができる。あなたの場合、手持ちの武器の硬度がたりない場合に有効だわ。おぼえておいてっ」
「はいっ」
「さぁて、まだまだ行くわよっ。私、去年買ったベースのローンが終わってないの。千亜樹ちゃんのパジャマを切り裂いて、ローンを、終わらせるっ」
朝霧が斬閃をほとばしらせる。
千亜樹がかわす。
「千亜樹ちゃん、ナイフのにぎり方が見えているかしら? 親指は、グリップの底を押さえてはダメよ。UTナイフをコントロールするには、全力でグリップをにぎったほうが有効なの。だから、親指も、ほかの指とおなじようにグリップをにぎってねっ」
「はい、朝霧さんっ」
会話をしながら全力運動をしても、朝霧地鶴の速度は落ちない。まぎれもなく、対天使特殊戦闘部隊・鬼火の近接戦闘のエースであった。
地下3階の指令室では、副指令の原田武定と数名の隊員たちが、モニターに映る美女と美少女の攻防を見ていた。
2時間後。
休憩なしで模擬戦闘を続けていた千亜樹と朝霧だったが、朝霧のスピードが落ちてきた。堕天使と人間では持久力がちがう。
千亜樹は、ナイフをかわしながら、
「朝霧さん、そろそろ休憩しましょうか?」
朝霧地鶴は不敵に笑って、
「ううん、だいじょうぶ、よ!」
と急加速した。全体重を乗せた突きを千亜樹の左肩に撃つ。スピードダウンは演技であった。
朝霧のナイフの刃先は、眼帯少女のパジャマを切り、左肩を肉まで傷つけた。
「あっ、しまったっ」
と、千亜樹は肩をおさえた。完全に油断していた。朝霧の加速は予想外だった。
朝霧は停止して、
「――ふぅ。千亜樹ちゃん、これも、教えたかったことのひとつよ。戦闘で勝つために『敵の裏をかく』こと。パワーでもスピードでもかなわない相手だったとしても、頭脳戦なら勝機はあるってこと。わすれないでね。じゃあ、15分、休憩をもらっていいかしら」
「はい、朝霧さん」
朝霧地鶴は、天井の広角レンズカメラに右こぶしの親指を立てて、
「副指令、見てますよね? 冬ボーナスの10パーセントアップ、絶対お願いしますよっ」
と笑ってから、大の字になって寝ころんだ。
千亜樹も笑顔で、朝霧の横に大の字になった。
眼帯少女が、なにげなく言った。
「鬼火が使う赤い武器はすごいですね。朝霧さんのナイフはうすいのに、堕天使の肉を切ることができる。ということは、天使の体も切れるはずですよね。ふつうのナイフなら、天使の皮一枚しか傷つけられないと思います」
朝霧は、呼吸で胸を上下させながら語った。
「そうね、菜々瀬ちゃんのおかげだわ。アルテマチタン製の武器が天使にどれだけ通用するのか、菜々瀬ちゃんが体で証明してくれた。だから、私たち鬼火は、天使と戦える武器を開発できたんだもの」
「えっ?」
と千亜樹は半身をおこした。
(鬼火が、菜々瀬ちゃんの体を切りきざんで、武器を開発した!?)
朝霧も、あわてて上半身だけおきあがって、
「あちゃあ、しまったな。千亜樹ちゃんは、まだ菜々瀬ちゃんから聞いてなかったか。誤解しないでね。対天使特殊戦闘部隊・鬼火が、菜々瀬ちゃんを利用して無理やり人体実験をしたわけではないの。対天使武器の威力を菜々瀬ちゃんの体で試すことを、菜々瀬ちゃんが自分から志願してくれたのよ」
「菜々瀬ちゃんが、自分からっ?」
「もちろん、私も、父親である原田副指令も反対したわ。それでも、菜々瀬ちゃんの意志は変わらなかった。武器のテストに菜々瀬ちゃんを協力させないなら、鬼火をぬけて単独で天使と戦います、とまで言われたわ。結局、私たちが折れたの」
千亜樹は黙して聞いた。
朝霧が続ける。
「そして、菜々瀬ちゃんは、新開発された何十何百の武器で、傷つけられることに耐えてくれた。そうして、ようやく完成したのが、この赤い武器なの。アルテマチタン合金製の対天使武装。……もし私が超人的な再生力を持つ堕天使だったとしても、菜々瀬ちゃんのように武器開発の協力に志願はできないわ。そんな勇気は、私にはないもの……。菜々瀬ちゃんは、人殺しを、天使をとても憎んでいる。心から殺人を防ぎたいと思っているわ。だから、激痛を感じるとわかっていながら、対天使武装の開発協力に志願してくれた。堕天使・原田菜々瀬の心は人間とおなじだって、私たち鬼火の全員が信じているわ。あの子が人間を『下等生物』と呼ぶ天使とおなじわけがない。菜々瀬ちゃんは私たち鬼火の誇りよ。そして、この赤い武器を持って戦えることも、私たちの誇りなの」
「そんなことが、あったんですか……」
「さぁて、おしゃべりはおしまい。千亜樹ちゃん、私は、あなたの心も人間だって信じているわ。だから、私の戦闘術すべてを伝授するつもりよ。さぁ、訓練再開っ」
朝霧がブーツナイフを1本ぬいて立ちあがった。ナイフの二刀流である。
「はい、朝霧さん。よろしくお願いしますっ」
千亜樹は上半身だけをおこした体勢から宙に飛んだ。2回転して着地すると、朝霧と一足一刀の間合いに立った。
朝7時。
地上4階の千亜樹の部屋で、めざまし時計が鳴った。
菜々瀬がのそのそとアラーム音を停止させて、ベッドで上半身をおこした。
「あふー。あれ、千亜樹さんがいませんわ……」
菜々瀬は、シャワーが水音をたて始めるのを聞いた。ベッドからおりて、浴室のドアをノックして、
「千亜樹さーん、おはようございますっ。わたくしも自分の部屋でシャワーをあびてきますねっ」
千亜樹はシャワーをとめて、
「菜々瀬ちゃん、おはようっ。――あたし、ちょっとだけ先に目がさめちゃったんだよね。制服に着がえたら、菜々瀬ちゃんの部屋のまえで待ってるねっ」
ふたりの堕天使は、鬼火本部・地上2階の休憩室をおとずれた。
千亜樹はポニーテール、眼帯と風城高校のセーラー服。
菜々瀬はツインテール、上半身がセーラー服で下半身はスパッツ。
休憩室は簡素だった。大画面テレビが1台と電子レンジ、8人がすわれるテーブルがあるだけだ。
鬼火本部には、食堂がない。軽食・飲料水の自動販売機もない。一般企業では広く採用されている、給茶機やコーヒーサーバーさえ設置されていない。飲食設備を置けば、業者――すなわち部外者を、ビル内に定期的に入館させなければならないからである。
セキュリティ重視のため、鬼火隊員は、飲食物をすべて店で購入して持ちこむか外食するのが規則であった。
休憩室の席に先客がいた。朝霧地鶴である。
菜々瀬が声をかけた。
「朝霧さん、おはようございますっ」
千亜樹は、菜々瀬のうしろからウインクして、
「おはようございますっ」
とだけ言った。
「おはよう、菜々瀬ちゃん、千亜樹ちゃん。あなたたちの朝ごはん、買ってきたわよ。菜々瀬ちゃんはサンドイッチでいいんだよね? 千亜樹ちゃんにはおにぎりを買ってきたんだけど、これでよかったかしら」
菜々瀬は目をかがやかせて、
「うれしいですわ、ありがとうございます。いただきますっ」
千亜樹も礼を言う。
「朝霧さん、ありがとうございます。いただきますっ」
美少女ふたりは、美女に見守られながら朝食を食べ始めた。
食事が終わると、菜々瀬が千亜樹に、鬼火本部の各フロアを案内した。サーバールーム、指令室、訓練室、射撃場、武器庫、仮眠室などである。
千亜樹が質問した。
「ねぇ、菜々瀬ちゃん。あたし、鬼火の副指令――菜々瀬ちゃんのお父さんや、ほかの隊員さんたちにはあいさつしたけれど、まだ、一番えらい人に会ってないよね。きょうは鬼火本部に来ないの?」
「鬼火の総司令は、ある事件を理由に、いまは停職中なんです。……千亜樹さんにお見せしたいものがありますわ。いっしょに渋谷センター街まで来ていただけますか?」




