白と黒の邪悪(01)
KillerKiller。
それは、殺人鬼だけを殺す殺人鬼。
神奈川県横浜市、桜木町駅前広場での死闘は終わった。
桜木千亜樹と原田菜々瀬は、鬼火の隊員が運転する車で、深夜の幹線道路を東京都へむかっていた。
一般車両に偽装した大型ワゴンであった。座席のほかに、武器防具を設置するスペースや通信設備がある。
菜々瀬は、一番うしろの席で寝息をたてていた。千亜樹の左肩をまくらにしている。
千亜樹は、隊員の男たちにつぶやいた。
「菜々瀬ちゃんって、ほんとに寝るのが好きなんですね」
「はははっ、そうだね。千亜樹ちゃんも、ねむっていいんだぜ? きょうは、いろいろありすぎて疲れただろう? 鬼火の本部についたら、おこしてあげるから」
車内の男たちは、全員がヘルメットをぬいでいる。上半身を保護する戦闘用ベストも装着していない。
千亜樹が、鬼火隊員たちに質問した。
「こんなことを聞いたら失礼かもしれませんけど……。みなさん、どうして初対面のあたしを信用してくれるんですか? あたしは、もう人間じゃありません。恐ろしい力を持っています。たぶん、片手で成人男性の頭をにぎりつぶすことができます。それなのに、どうしてあたしのすぐそばで、ヘルメットをはずしてくれるんですか?」
運転手の男が、まえを見つめたまま答えた。
「千亜樹ちゃんは、オレたちを殺さないさ。きみは堕天使だ。――堕天使の心は人間と変わらない。堕天使は人間を殺さない。人を笑いながら殺すのは、天使だけだよ」
「……ありがとうございます。でも、どうして、あたしが人殺しをしないって言い切ってくれるんですか?」
「菜々瀬ちゃんが、千亜樹ちゃんを信じたからさ」
「えっ?」
「オレたち鬼火隊員はみんな、菜々瀬ちゃんを信じている。菜々瀬ちゃんの味方だ。そこのよく寝るチビっ子が、『桜木千亜樹さんは堕天使です、心は人間です!』と言ったんだ。だから、オレたちは、千亜樹ちゃんの心が人間だって信じられる」
運転手は断言した。
千亜樹は、左肩にやさしい重みを感じながら、
「菜々瀬ちゃんは、こんなに小さいのに、特殊部隊の全員から信頼されるなんて。すごい子だなぁ……」
助手席の男が後部座席に顔をむけて、
「さぁ、千亜樹ちゃんも、ねむっちまいなよ。もし『天使がでたっ』という緊急連絡が本部からあったら、また千亜樹ちゃんに戦ってもらうことになるからね。きみのためにもオレたちのためにも、休めるときに休んでおいてくれよ」
千亜樹は笑顔を見せて、
「わかりました。桜木千亜樹、夢の国にいってきますね。おやすみなさいっ」
と目をとじた。
男たちは、娘の、妹の寝顔を見るように少女ふたりを見守っていた。
「菜々瀬ちゃん、千亜樹ちゃん。鬼火の本部についたよ」
千亜樹は目をさました。
菜々瀬も両目をあけ、よだれを手の甲でふいた。
車は、渋谷駅のすぐ南、撫子町のオフィスビルのまえに停まっていた。
菜々瀬は、あくびをしながら、
「あふー、千亜樹さん、鬼火の本部に到着しましたわっ」
自分が運転してきたかのように得意気である。
千亜樹は、車内のフロントガラスから本部を見て、
「ここが特殊部隊の本部なんだ……。なんだか、ふつうのビルですね。あたし、もっと秘密基地みたいなのを想像していたなぁ。……高層ビルがふたつにわれて真ん中に地下通路がでてくるとか、そういう大規模な、地球防衛軍の基地みたいなのを」
「はははっ、オフィスビルがふたつにわれたら、会社員たちは、おれたちが出動するたびに大地震で大変だな。でも千亜樹ちゃん、このビルだって、すてたもんじゃないんだぜ?」
対天使特殊戦闘部隊・鬼火の本部は、ありふれたオフィスビルに偽装されていた。地上4階の低層ビルである。1階は車両の進入口にもなっており、巨大なシャッターがおろされていた。
運転手が窓からリモコンをだして、シャッターへ電波を発信した。
電動シャッターが天井に吸いこまれ、千亜樹たちが乗るワゴンに口をひらいた。装甲車が3台並走してとおりぬけられそうな広い入口である。
運転手がアクセルを踏んだ。
ワゴン車は鬼火本部1階に消えた。
車をおりた菜々瀬は、
「千亜樹さん、ついてきてくださいませ」
と巨大なドアのまえに立った。
千亜樹が続いた。
ほかにドアはない。そびえる銀色の合金製ドアが、鬼火本部への門であった。
菜々瀬は、携帯電話を操作してから、扉横に電子表示されたテンキ―を押し始めた。
ケータイに映しだされた、入館パスワードを入力しているのだ。
奇妙なテンキ―であった。通常は、
789
456
123
0
という順列でならんでいるものだが、
鬼火のテンキーは、
260
481
539
7
と、なっていた。
ならび方に規則性がない。
菜々瀬がパスワードを打ち終わった。
自動ドアが左右にひらき始める。ぶあつい合金製の門番だった。
ツーテール少女――菜々瀬は、鬼火本部へ入館するまえに言った。
「あっ、千亜樹さんに、わたすものがあるんでしたわ。これです。鬼火隊員専用の携帯電話です。きょうから千亜樹さんのモノですわ、自由に使ってくださいませ」
と、新品の携帯電話をとりだした。
菜々瀬はケータイ画面を千亜樹に見せて、
「千亜樹さん、この8つの数字が今回のパスワードですわ。扉は、ひとりずつしかとおりぬけられませんので、わたくし、先に行って待っていますわね」
千亜樹はケータイを手にして、おどろきをかくさずに言った。
「えっ、『今回の』パスワード? ドアをあけるパスワードって、もしかして毎回変わるの?」
「はい。おっしゃるとおりですわ。鬼火本部の入口は、ワンタイムパスワードを採用しています。携帯電話でのパスワード取得方法は、あとでお教えしますわ。1分たってしまうと、いまお見せしたパスワードも使えなくなってしまいます。数字をまちがえずに、すばやく入力してくださいませ」
「う、うん。きっと、たぶん、だいじょうぶだと思う。……もし、1分たってもあたしがそっちに行かなかったら、もう1回こっちに来て新しいパスワードを教えてください……」
菜々瀬は、ほほえみながら扉の先に消えた。
(さて、いそいで入力しますか。あれっ!?)
千亜樹が入室用インターフェイスに指をのばしたとき、
電子表示テンキーの配列が変化していた。
754
190
386
2
と、なっている。
指の動きをのぞき見る第三者にパスワードを盗まれないように、入力するたびに数字の配置が変わるのだ。
(鬼火め、なかなかやるな……)
千亜樹は数字を入力した。
門番がひらき始めた。
千亜樹と菜々瀬は、地下3階でエレベーターからおりた。
広大なモニタールームであった。
高い天井。
明るい照明。
壁面のいくつもの巨大なスクリーンに、関東や東京都、渋谷区の地図が映しだされている。画面には無数の光点が点滅していた。スクリーンにむかってデスクが2列ならんでいる。ヘッドセットをつけた制服オペレーターが、専用端末の画面をながめていた。
鬼火の指令室である。
渋谷区の地図を、至近距離から40代の制服紳士が見あげていた。あごヒゲも髪も白髪まじりで灰色なせいか、年齢以上の風格がある。
菜々瀬が、灰色髪の男に駆けよって、腰に抱きついた。
「お父さま、ただいま帰りましたっ」
菜々瀬の父、原田武定は、
「おお、菜々瀬、無事でなによりだ。敵天使を2体も斃したそうだな。よくやってくれた」
「いいえ、お父さまっ。天使たちに勝利できたのは、わたくしの功績ではありません。あそこにいる、堕天使・桜木千亜樹さんのおかげですっ」
武定が、エレベーターまえの千亜樹に歩みよった。
室内の隊員たちも眼帯少女を注視している。
「はじめまして、桜木千亜樹さん。菜々瀬の父・原田武定です。対天使特殊戦闘部隊・鬼火の副指令をつとめています。あなたを歓迎しますよ。ぜひ、これからも我々鬼火の力になっていただきたい。いっしょに天使と戦っていただけますか?」
千亜樹は、ひびきわたる声で、
「こ、こちらこそ、お世話になりますっ。桜木千亜樹、16歳です。よろしくお願いしますっ」
と深々と礼をした。
指令室から拍手がわきあがった。
隊員全員が立ちあがっていた。
「千亜樹ちゃん、わからないことがあったら、なんでも聞いてね」
「近いうちに歓迎会をやるから、オジサンとおなじテーブルで酒を飲もうぜっ」
「もう酔ってんのか? 馬鹿野郎が。千亜樹ちゃんはまだ16歳、未成年だろうが。ジュースだよ、ジュース」
千亜樹は、隊員たちの笑顔を見ながら、胸が熱くなるのを感じていた。
千亜樹は、きょう2回目のシャワーをあびたあと、パジャマ姿でセミダブルのベッドに体を投げた。あおむけで天井を見つめる。
鬼火本部4階の402号室である。広さ12畳の洋室ワンルームであった。
千亜樹は、真新しい402号室を「これから自由に使っていい」と、あたえられていた。
401号室には菜々瀬が住んでいる。
まくらに頭を乗せた千亜樹は、右の人差し指のツメを、左手のヒジに食いこませた。ツメを一気に手首まで走らせる。
一直線に傷が生まれ、ヒジから手首まで皮膚が裂けた。赤い線が形成される。だが――。
傷は、出血するまえになめらかな肌にもどった。
人間の何十倍もある、堕天使の肉体再生能力。
(やっぱり、夢じゃないんだなぁ。あたしはもう人間じゃない。堕天使に生まれ変わったんだ……)
インターホンが鳴った。
千亜樹はおきあがって、ハンズフリーインターホンの来客映像を見た。
パジャマ姿の菜々瀬が、まくらと毛布を抱いていた。
映像の菜々瀬が、
「千亜樹さん、千亜樹さん。よかったら、いっしょに寝てくださいませんか?」
と言った。瞳は期待にかがやいていた。
ひとつのベッドに入った桜木千亜樹と原田菜々瀬は、毛布をかぶり、しかし、目をとじていなかった。
千亜樹はポニーテールをほどき、髪をベッドにたゆたわせている。眼帯をはずして右目をとじていた。
菜々瀬が体を横むきにして、
「千亜樹さんの長い髪、キラキラしていて、きれいですわ。そめていらっしゃるんでしょうか?」
「ううん、あたしは髪をそめてないよ。幼稚園のころからずっと水泳をやってきたからね。プールの消毒用塩素で自然に脱色されて、こんな色になったんだと思うな」
「そうでしたか。わたくしも、そろばんや書道だけではなく、水泳も習っておけばよかったですわ」
「そろばんと書道だって、とってもすてきな習い事だよ。あたし、暗算ができる人や字がきれいな人にあこがれるなぁ。あたしの字、きたないんだよね……」
ふたりは、とりとめもない会話を続けた。
そして、千亜樹が真剣な声で言った。
「菜々瀬ちゃん。――渋谷で自殺した少女は天使になって生まれ変わる、という都市伝説は、ほんとうだったんだね」
「はい。渋谷駅周辺だけでなく、渋谷区全域で天使化した例が報告されています。少数ですが、新宿区や世田谷区など、渋谷区に近い地域でも天使になった例がありますわ」
千亜樹は隻眼で天井を見ながら、
「あたしは、どうして、天使化したんだろう。死んだ場所は渋谷区だったけど、自殺じゃない。あたしは自殺なんかしない。全校生徒を殺されてとてもつらかったけど、それでも生きるつもりだった。なのに、なぜ天使化して堕天使になれたんだろう」
「……千亜樹さん。これからわたくしが言うことを聞いても、絶対に怒らないって約束してくれますか?」
「……うん、約束するよ、菜々瀬ちゃん。……聞かせてほしいな」
「千亜樹さんの死は、かぎりなく自殺に近かったんだと思います」
「えっ……?」
「……人間だった千亜樹さんは、特急電車のまえに突き落とされて亡くなりました。でも、亡くなる直前に、突き飛ばした人物の顔を見てしまいました。そのとき、千亜樹さんは絶望したんだと思います。そして、一瞬だけ特急から逃げようとせずに、千亜樹さん自身の意志で足をとめてしまった。ちょうどそのとき、電車が千亜樹さんを撥ね飛ばしてしまったのではないでしょうか」
「あたしが……絶望した……」
千亜樹は、反論したいという赤い気持ちをこらえた。怒らないと約束した。なにより、千亜樹自身に心あたりがあった。
「絶望、か。そうかもしれないな。あたしを線路に落とした犯人を見たときは、とてもびっくりした記憶があるもの……」
千亜樹を死にいたらしめたのは、級友の母だったのだ。「千亜樹ちゃん、長生きしてね」と涙を見せていた人物だったのだ。
「千亜樹さん、誤解しないでくださいね。わたくしは千亜樹さんが自殺したとは思っていません。不幸な偶然が重なって、かぎりなく自殺に近い状況で亡くなってしまったと考えています。わたくしは〈千里心眼〉の能力で、自殺を考えている人、絶望を感じている人をいつも探しています。すると、渋谷区だけで、毎日、何百人もの絶望を感じます。でも、その中で自殺する人は、ほとんどいません。多い日でも自殺者は数人です。……人はみんな、絶望することがあるんです。絶望や挫折を感じない人なんていないんです。たくさんの人が、つらい気持ちと戦いながら生きているんですわ。ですから、千亜樹さんが死の直前にたまたま絶望してしまったとしても、恥ずべきことではないと思っています」
と菜々瀬は、千亜樹の手をにぎりしめた。
千亜樹は、菜々瀬の瞳を見つめながら、
「……うん、ありがとう、菜々瀬ちゃん」
と、手に力を返した。
菜々瀬は、あわいかがやきを瞳にゆらしながら、
「千亜樹さんは、わたくしがどうして堕天使になったかを訊かないんですね。桜木町駅前広場にむかうときも、鬼火本部に帰る車でも、そして、いまも」
千亜樹はなにも言わない。
「わたくしだけが千亜樹さんの死んだ理由を知っているのは不公平ですわ。じつは、千亜樹さんの部屋にお邪魔したのは、わたくしが堕天使になった理由を話そうと思ったからなんです。千亜樹さん、聞いてくださいませ。わたくしは、人間だったとき、天使に殺されたんです」
(えっ!?)
「わたくしは……、わたくしを殺した天使は……」
13歳の少女がくちごもる。瞳で光がゆれていた。つらい過去を話そうとしている。
菜々瀬のくちびるを制止するものがあった。
隻眼少女が上半身をおこし、右手の人差し指で小さな少女の口唇にふれていた。
千亜樹は、やさしい声で言った。
「……菜々瀬ちゃん。公平とか不公平とか、そんな義務感で死んだ理由を話すことはないよ。あたしたち、世界でふたりきりの堕天使なんだから。――きょう会ったばかりのふたりだから、これからゆっくり時間をかけて、もっと仲良くなろうよ。たくさんたくさん仲良くなって、菜々瀬ちゃんの心から義務感が全部なくなったら、そのときに、菜々瀬ちゃんが堕天使になった理由を聞かせてもらうよ」
「でも、」
と言いかける菜々瀬に、
千亜樹は、
「『でも』は却下だよ、菜々瀬ちゃん。もう寝ようよ。天使ふたりと戦って、とても大変な一日でした。明日にそなえて休もうよ。あたしは16歳、菜々瀬ちゃんは13歳。お姉さんの言うことを、すなおに聞くのが良い子だよ」
菜々瀬はくちびるをとがらせて、
「……ずるいです、お姉さんなんて。堕天使としては、わたくしのほうが先輩なのに」
「ふふ、そうだね。でも、あたしは寝ると決めたので寝ちゃいます。菜々瀬ちゃん、おやすみなさい」
千亜樹は目をとじた。
「千亜樹さん、おやすみなさい。絶対、もっともっと仲良しになってくださいね」
数分後。
ふたりの少女が寝息をかなで始めた。