魂の支配者(05)
千亜樹は、菜々瀬の肩に手をおいて言った。
「……だいじょうぶ。あたしが絶対、菜々瀬ちゃんを助けるから」
千亜樹の手から菜々瀬へ何かがほとばしった。
眼帯少女の首の傷は完治していた。菜々瀬の横に立ち、来須をにらむ。
「きゃはははっ、この状況からどうやってチビ堕天使を助けるっていうのさ? 動くなよん、桜木千亜樹っ。少しでもおかしな動きを見せれば、心臓をにぎりつぶしてチビ堕天使を殺すっ」
千亜樹は動かないまま答えた。
「おまえはもう刃物を持っていない。もし菜々瀬ちゃんを殺したら、……その瞬間に、あたしはおまえの首を切り落としに走るから」
来須の瞳が、爬虫類の目のようにねっとりと眼帯少女を見た。
「あはん、たしかに刃物はないわ。だから、こうするのさっ」
と右手を千亜樹にむけた。手のひらが蛍火のように光った。
「動けばチビ堕天使が死ぬぞっ」
という来須の声が、千亜樹の足をとめた。
――。
来須は突きだした両手に、鼓動するふたつの臓器をにぎっていた。左手に菜々瀬の心臓、右手に千亜樹の心臓である。
「きゃははははっ、刃物を持っていたから右手には能力がないとでも思ったか? アタシの計画どおりよん。切り札は、最後の最後までかくし持つものさっ。あは、あはははははははっ」
勝利を確信した殺人天使は、愕然として動かない堕天使ふたりを見ながら高らかに笑いあげた。
来須は眼帯少女をにらんで、
「おい、桜木千亜樹。オマエは、絶対にチビ堕天使を助けると言ったわよねん。アタシはね、『絶対』って言葉を使うヤツが大ッキライなのさ。ほら、助けてみろよ。この状況から助けてみろよっ。……あー、アタシってばイイことを思いついたわん」
来須は長い舌を見せてから、
「桜木千亜樹、オマエ、そのナイフで自分の首を切り落とせ。そうしたらチビ堕天使は、心臓を返して解放してやるよ。アタシは約束をまもる女よん。『絶対』助けるんだろう? さぁ、いますぐ自分で死んでみせなっ」
「だめですわ、千亜樹さんっ。うそに決まっています。もうすぐ、対天使特殊戦闘部隊・鬼火の増援部隊が来るはずです。彼らの助けがあれば、わたくしたちの心臓をとりもどすチャンスだって、あるかもしれませんわっ」
鬼火に堕天使はふたりしかいない。千亜樹と菜々瀬だけだ。
増援部隊とは、人間の隊員たちである。
千亜樹は、やさしい瞳で菜々瀬をみつめながら、
「ごめんね、菜々瀬ちゃん。増援の人たちが、あの天使に勝てるとは思えない。あたし、どうしても火織を斃したかったけど……。もし菜々瀬ちゃんが助かったら、あたしの代わりに連城火織を斃してね」
と、ナイフの刃を首の右側にあてた。ためらい傷からひとすじの血がながれる。
「いけません、千亜樹さんっ」
菜々瀬のさけびを聞きながら、桜木千亜樹は目をとじてナイフをふった。
あざやかな血が舞った。
眼帯少女の首がポニーテールを連れて宙に飛び、首をうしなった胴体のまえに落ちた。
体がまえに倒れた。
うつぶせ死体の首の断面から血があふれる。
血だまりが千亜樹の生首にとどいた。
「あは、あははははっ。バカだ、本物のバカだっ。自分で自分の首を落として死にやがった。ああ、桜木千亜樹はアタシを笑い殺す気だったのねん? きゃははははははっ」
殺人天使の狂笑が頂点に達したとき、
来須の視界がぐにゃりとまがった。数色の絵の具をまぜたように、映像が、視点の中心点にむかって回転していく。視界が螺旋状にうごめいている。
来須が動揺しながら、
「な、なに? なにがおこっているの?」
と、つぶやいたとき、
視界のゆがみは逆回転を始めた。
視野が正常にもどったとき、来須の目のまえにありえないものが立っていた。
「すてきな夢を見ていたようね」
と、眼帯の堕天使――桜木千亜樹は、のばした左手で来須のひたいをつかみながら言った。
千亜樹の首と体はつながっている。胸に穴はあいていない。
来須の右手は千亜樹の心臓を持っていなかった。
「さぁ、菜々瀬ちゃんの心臓をもとにもどしなさい」
来須は、だれがもどすものか、と思ったが、なぜか体は〈心臓強盗〉の能力を解除した。
殺人天使の左手から菜々瀬の心臓が消失した。
菜々瀬の胸から空洞が消えた。心臓がもどったのだ。
来須は絶叫した。
「か、体が勝手に動くっ。生首もたしかに見たっ。一体、アタシになにがおこっているの!?」
堕天使・桜木千亜樹は、特殊能力〈光速洗脳〉の使い手であった。
千亜樹の体内で発火させた攻性電気信号を、敵に直接ふれて伝達させる。電気信号は敵の肉体をかけあがって脳神経細胞にとどき、千分の1秒で洗脳を完了する。のぞみどおりに幻覚や幻聴をあたえ、敵の肉体を操作することが可能なのだ。
一度でもふれれば、敵の脳細胞に思いのままに微弱電流を伝え、自由をうばう。桜木千亜樹は、魂の支配者とも呼べる唯一無二の能力者であった。
だが、千亜樹は一度も来須の体に直接さわっていない。いつ、どうやって洗脳を完了させたのか?
菜々瀬が近づいて、来須に言った。
「千亜樹さんの読みどおりでしたわね。あなたがわたくしの心臓をぬすんだ瞬間に、あなたの負けは確定したんですわ」
――心臓をうばわれた直後の菜々瀬の肩に、千亜樹は手を置いた。
このときに千亜樹は〈光速洗脳〉の攻性電気信号を発生させたのだ。
電気信号は菜々瀬の体を走り、亜空間をつうじて菜々瀬の心臓にとどき、心臓をにぎる来須の脳に伝わった。
千亜樹が「絶対に菜々瀬を助ける」と言ったあと、大蔵来須は、現実としか思えない幻覚・幻聴を体感していたのだ。
来須は茫然として動かない。いや、動けないのだ。
肉体を動かす指令は、中脳にある黒質という部位から発生する。
来須は、黒質を千亜樹に支配されて、体を動かす命令をだせなくなっていた。
眼帯少女が左手を来須の頭部から離した。
千亜樹は赤いナイフを下段・順手にかまえると、逆Vの字に斬撃をはなった。
来須の左腕が、右腕が、肩の付け根から離れて翼ごと地に落ちた。
両腕を切断された痛みに、来須は屠殺されたようなさけびをあげた。
「ぎゃああああああっ、アタシの腕がっ。あああ、痛い、痛い、痛い!」
来須の〈心臓強盗〉は封じられた。
眼鏡少女の両肩から、赤黒い濁流があふれていた。
千亜樹はするどい声で、
「おまえのような殺人狂を、この程度の痛みでゆるす気はないわ。地獄に送るまえに生き地獄を味わわせてあげる。――ひざまずきなさい」
とナイフをにぎる右手の人差し指だけをのばし、来須の前頭部にふれた。千亜樹の指から攻性電気信号が走る。
大蔵来須は両ひざを地面につけた。
さらに千亜樹は言う。
「おまえは、きょう、この駅前広場だけで23人を殺した。後悔するといいわ」
来須は突然、自分の両肩が巨大な瘤のように膨張するのを見た。球形に肥大化した両肩から次々と手のひらが出現し、腕がはえていく。腕は合計23本あった。
来須はさけぶ。
「こ、こんなことがあるわけがない。まぼろしだ。この腕は全部、幻だっ」
たしかに幻だった。
だが、千亜樹がナイフの斬閃ですべての幻腕を切り飛ばしたとき、
23本の手を切断された激痛で、来須の脳は発狂寸前になった。
幻痛――ファントム・ペインと呼ばれる現象である。
脳は、微弱電流を受信すれば、幻の腕を切られても痛みを感じるのだ。