殺人波動(04)
千亜樹は、屋根から屋根を疾風のように跳びながら、東京都西部の自宅をめざしていた。
(うう、早くうちに帰って服を着たい……)
全身の再生から数十分たった現在も、千亜樹は全裸だった。右のまぶたをとじている。
(だれにも見られていませんように……。もし写真なんて撮られていたら、あたし、はずかしくて死んじゃうよっ)
空を駆けている途中で、ベランダにつるされている下着や服を見かけていたが、千亜樹の良識は裸を選んだ。
(見えた、あたしの家だっ)
赤い屋根の2階建て一軒家に、明かりはなかった。
(よかった、お父さんもお母さんも、まだ帰ってきてない……)
千亜樹は、もう両親に会えない、会ってはいけない、と覚悟していた。
(電車にひかれて死んだはずの一人娘が帰ってきても、あたし本人だと信じてもらえないよね、きっと。右眼もぬきとっちゃったし。お父さんとお母さんは、いま、どこかで泣いているのかな……)
隻眼の少女は電柱の頂上からジャンプして、自宅2階のベランダに着地した。
ガラス戸のむこうは千亜樹の部屋である。
(……さて、どうやって家に入ろうかな。うちは、でかけるまえに戸じまりをしっかりするから、ガラスをこわして鍵をあけるしかないかな、やっぱり。……あれっ?)
ガラス戸の鍵があいていた。
(そんなはずない。お母さんは、外出前に家中のカギがしまっているかどうかをチェックするくらい、戸じまりに神経質な人なんだから……)
部屋で動くものがあった。
――だれかが、大胆にも千亜樹のベッドで寝ているのだ。人影は上半身をおこし、ベッドからおりた。
「だれっ!?」
と千亜樹がガラス戸をあけたとき、
人影は部屋の明かりをつけた。
「おかえりなさいませ、桜木千亜樹さん。あんまりおそかったので、ベッドをお借りして眠ってしまいましたわ。わたくし、原田菜々瀬といいます。13歳、中学1年生ですっ」
140センチの小さな少女だった。小学生にしか見えない。翼はない。ツーテールにむすんだ髪が肩まで伸びている。瞳はうさぎなどの小動物を連想させる愛らしさだ。上半身は白いセーラー服。スカートは穿いていない。下半身は黒いスパッツだ。
(この女の子、どうやってあたしの家に入ったの? まさか、この子は天使!?)
「……あっ、千亜樹さん、わたくしが天使ではないかとうたがっていますね? いま、天使ではない証拠をお見せしますわ」
(この子、あたしの心を読んだ!?)
おどろく千亜樹。
原田菜々瀬は、さらに予想外の行動をとった。
服をぬぎ始めたのだ。
菜々瀬の頭がセーラー服のなかに消える。かわりに、ほんのりふくらんだ腹部が見えた。セーラー服とキャミソールを床に置くと、菜々瀬は上半身裸になった。スポーツブラもつけていなかった。
スパッツが足首までおろされたとき、千亜樹は、菜々瀬のふとももを注視した。
ツーテールの少女はショーツもぬいで全裸になった。両手で胸をかくしている。顔を赤らめ、千亜樹の大きな胸を見つめていた。
菜々瀬は、両手を飛行機の主翼のように広げ、その場で、くるりと一周して見せた。裸身を背中まで千亜樹に見せることが目的だった。
ほそいうなじ。
たおやかな手足。
少年のような胸。
「千亜樹さん、見てください。どこにも翼がないでしょう? 翼がはえていた場所ならありますけれど。わたくしが天使ではないって、わかっていただけたでしょうか?」
「菜々瀬ちゃん、あたし、あなたを信じるよ。あなたは天使なんかじゃない。うたがってごめんなさい。服を着てちょうだい」
菜々瀬のふとももの横には痛々しい傷痕があった。
大腿部の左右から翼をひきぬいたのだ、と千亜樹は直感した。
全裸の菜々瀬は、胸をかくして笑顔を見せた。
「はいっ。わたくしは、天使ではありませんわ。千亜樹さんとおなじように、完全に天使になる直前で翼をひきちぎったんです」
「もう知っているみたいだけど、自己紹介させてね。あたしは桜木千亜樹、16歳。よろしくね、菜々瀬ちゃん。あとでたくさん話を聞かせてくれるかしら。なぜ、あたしの家に来たのか。どうして、あたしが天使の翼をひきぬいたことを知っているのか。でも、話をするまえに、少し時間をもらっていいかな? あたし、シャワーをあびたいの」
菜々瀬は、上半身裸でスパッツをはきながら、
「わかりましたっ。わたくし、こちらの部屋でお待ちしていますわ。千亜樹さんは、渋谷からずっと裸で走ってこられたんですから、やっぱりお風呂に入りたいですよね。千亜樹さんのご両親はいま、渋谷区の病院です。お母さまが早影駅で倒れて、お父さまは病室につきそっていらっしゃいますわ。ご両親とも、本日は、ご自宅にはもどらない予定です」
「もしかして、菜々瀬ちゃんは人の心が読めるの? 遠くでなにがおきているか、知ることができるの?」
「ご明察ですわ。わたくし、原田菜々瀬の能力は〈千里心眼〉です。遠くにいる人を観察できて、その人がなにを考えているかも、おおまかになら知ることができますわ。天使たちは、みんな、天使能力とも呼ぶべき特殊な力を持っています。千亜樹さんにも、なにか能力があるはずですよね」
「うん。あたしにも能力があるよ。一瞬でも天使になったおかげね。あたしの能力は〈■■■■〉。くわしいことはシャワーが終わってから話すね」
――千亜樹はシャワーをあび終わり、タオルを体にまいた。ドライヤーで髪をかわかした。
千亜樹は、おろした髪をゆらしながら2階の自室に入ると、ぽかんと口をあけた。
「菜々瀬ちゃん、また眠ってる……」
ツーテールの少女はベッドで熟睡していた。すぴー、すぴー、と寝息をたてている。
千亜樹が下着をしずかに身につけたとき、
菜々瀬は目をさまして、
「はわわわっ、わたくし、また眠ってしまいました。すみません、すみません」
と、あわててベッドからおりた。
千亜樹は微笑した。
「あ、千亜樹さん。着る服は、動きやすいものにしてもらえませんか。千亜樹さんにはこれから、わたくしたちといっしょに天使と戦っていただきたいと思っているんです」
「わたくし"たち"? 菜々瀬ちゃんのほかにも仲間がいるの?」
「はい。わたくしは、政府直属の対天使特殊戦闘部隊・鬼火の一員ですわ。わたくし以外は、みなさん、普通の人間ですが。鬼火では、わたくしのことを堕天使と呼んでいるんです」
「じゃあ、あたしも堕天使ってことになるんだね。堕天使……翼をすてた天使、ってことか」
千亜樹はクローゼットのまえで、いまからなにを着るか考えていた。
(戦うときに着る服、か。やっぱり、これしかないよね……)
隻眼の少女は手にとった服にそでをとおした。
赤いセーラーカラー、
黒いセーラーブラウス、
赤いプリーツスカート。
風城高校の制服であった。
「あたしは、この風城高校の制服を着て戦うね。あたしの学校――風城高校の先生と生徒たちが天使にみんな殺された事件を、菜々瀬ちゃんも知っているでしょう? ……学校のみんなのかたき討ちに一番ふさわしいのは、たぶん、この制服だと思うから」
セーラー服の千亜樹は言った。髪をまとめてポニーテールを作った。
「はい、千亜樹さんの高校でおきた殺人事件は知っています。犯人が天使であることも、千亜樹さんがただひとりの生き残りだということも。だから鬼火は、千亜樹さんのまえに犯人の天使がもう一度現れるのではないかと考えて、わたくしの能力で千亜樹さんを監視していたんです」
「……そうだったんだ」
「千亜樹さんが入院したときから、わたくしの〈千里心眼〉で監視していました。……すみませんでした」
「菜々瀬ちゃんがあやまることないよ。任務だったんだし。それに、あたしが堕天使になったことを、菜々瀬ちゃんが感知してむかえに来てくれてうれしいよ。菜々瀬ちゃんがいなかったら、あたしはひとりぼっちで、どうしていいか、わからなかったかもしれないよ」
菜々瀬の顔が明るくなった。
「あっ、千亜樹さんに、わたすものがあるんでしたわ。これです。よろしければ使ってくださいませ」
菜々瀬は胸ポケットから真空パックをとりだして、隻眼の少女にわたした。
千亜樹はパックをあけて中身を確認すると、
「これ、眼帯だ……」
と、つぶやいた。
装着してみると、千亜樹の顔にぴたりと合った。
「よくお似合いですわ。千亜樹さんは右眼をなくされましたから、傷をかくせたらいいと思いまして、鬼火の支給品を持参いたしました」
「ありがとう」
菜々瀬の胸ポケットで電子音が鳴った。
携帯電話の着信音だ。
菜々瀬はすばやく電話にでると、すぐに、
「はい、わかりましたわ」
と電話を切った。千亜樹の手をとって、
「千亜樹さん、鬼火の本部に来ていただこうと思っていたのですが、予定変更ですわ。たったいま、天使と思われる者が横浜で連続殺人事件をおこしています。わたくしといっしょに現場にむかってくださいっ」
千亜樹は凛とした声で言った。
「うん、わかったよ、菜々瀬ちゃん。いそごうっ」