殺人波動(03)
千亜樹の遺体を乗せたパトカーは、玉川通りを北北東に走行していた。
夜になっている。
渋滞していた。車はゆっくり進んでいく。
助手席の警官が、
「おい、トランクから音がしなかったか?」
「やめろよ、〈肉ひろい〉が終わったあとに、笑えない冗談だ」
と運転手の警官が答えた。
交差点が赤になり、パトカーは車列の先頭に停止した。
異変が始まった。
パトカーの後部荷室から大きな金属音が響いていた。トランクの中央部分は、山型に盛りあがっていびつになっている。
内部にいるなにかが、無理やり金属のふたをこじあけようとしているのだ。す
ついにトランクの扉が飛んだ。音をたてて道路のアスファルトに落ちる。
金属扉を破壊したモノの正体を見て、警官たちはパトカーの内部を絶叫でみたした。
白い蛇がいた。――いや、ちがう。
右腕だった。
腕だけが、意志を持つ生物のようにトランクの床に直立し、拳を天に突きあげていた。
右腕が発光した。
赤い燐光にふちどられた右腕は、ざわめく人々が環視するなかで、ゆっくりと宙に浮き始めた。上下を反転して、肩の付け根を上に、指を下にしている。地上5メートルの高さで静止した。
赤い光が腕の付け根から広がっていく。なにかの立体像を形成していく。
光の膨張がとまった。
人間のかたちをした光の像が空に浮いていた。
胸がふくらんでいる。
少女の光像だった。身長は、155センチ。
右腕だけが生身である。
光体が両手でひざを抱いた。夜の空で眠る胎児のようだった。
光が爆ぜた。
巨大なカメラがフラッシュしたように、世界は一瞬だけ赤くそまった。
観衆の全員が目をとじた。
光の爆発が消えたとき、空中で両手両足をのばした人間像は、全身が生身になっていた。浮力がなくなり、全裸の少女がパトカーの屋根に着地する。
長い髪。
大きな瞳。
赤いくちびる。
ゆたかな白い乳房。
桜木千亜樹であった。
パトカーのトランクに置かれた遺体袋は空になっていた。
千亜樹は、自分の両手のひらを見つめた。
(あたし……どうして生きてるの?)
記憶の混乱はなかった。なにがあったか、おぼえている。特急電車に撥ね飛ばされたのだ。
(助かるはずがない。あのとき、あたしは死んだはず……)
千亜樹の脳で、九磨子と刑事の声が同時に言った。
『渋谷で自殺した少女は、天使に生まれ変わってよみがえる』
(あたしが死んだ駅は渋谷区だった。――まさか、あたしも天使に生まれ変わったの!?)
突然、千亜樹の右眼にするどい痛みが走った。
眼球から音をたてて角が伸びた。長さは約30センチ。
いや、角ではなかった。
右の眼球から、かがやく白い羽根をたくわえた翼がはえているのだ。
だれかが千亜樹を呼んだ。
声ではなかった。
波動とも思念波ともいうべき呼びかけが、千亜樹の頭の中に直接ひびいていた。
殺
セ。
人
間
ヲ
殺
セ。
(えっ!?)
男ヲ殺セ。
女ヲ殺セ。
子供ヲ殺セ。
老人ヲ殺セ。
少年ヲ殺セ。
少女ヲ殺セ。
赤子ヲ殺セ。
大人ヲ殺セ。
殺セ、殺セ、殺セ、殺セ、殺セ!
千亜樹は、全身に高まる熱い殺人衝動を感じた。まわりの人間の首を手刀で切り飛ばし、心臓を五指でえぐりだす自分を想像した。人殺しが、とても甘美な行為だと幻想した。
瞬間、千亜樹の脳に、火織の映像が浮かんだ。
大きな翼、絶世の美少女殺人鬼。
風城高校全校生徒700人殺し。
(いやだ、あたしは人を殺さないっ。連城火織とおなじ殺人鬼にはならない!)
千亜樹は、翼の根元を両手でつかんだ。かがやく羽根が、殺意の波動を受信するアンテナの役目をしていると予想していた。
(天使という名の人殺しになるくらいならっ!)
裂帛の気合いとともに、千亜樹は翼を眼球ごとひきぬいた。殺人命令が鳴りやんだ。翼は足元に投げすてた。
目玉をくりぬいた地獄の激痛に、少女は絶叫し、すぐに歯をくいしばって耐えた。強靭な精神力であった。
好奇の視線で全裸の千亜樹をみつめていた人々が、凄惨な自傷行為に恐怖の声をあげた。
千亜樹は、右の眼窩から血の涙を流したまま、パトカーの屋根を蹴ってビルの屋上に跳びあがった。
翼をすてた堕天使の少女は、そのまま夜の街を跳びさった。
月光をだれよりも高くあびながら、裸身の千亜樹は火織を想った。
(天使の翼が受信していた殺人命令は、だれでもいいから殺せ、と命令していた。それなのに、なぜ火織は、わざわざ風城高校の全校生徒を殺したの? はげしい殺人欲求があるはずなのに、どうしてあたしを殺さなかったの?)
千亜樹は下くちびるを噛んだ。
歯が肉を切り、血の味が広がる。
だが、傷は数秒で完治した。
(なんて速い肉体再生力。あたしは、もう人間じゃないんだ……。でも、あたしは力を手に入れた。天使と戦える力を。――殺そう。あたしが、この手で連城火織を殺そう。風城高校のみんなのかたきを討とう……っ)
地上15メートル。飛燕のように夜空を駆けながら、千亜樹は不退転の決意をした。
月だけが見ていた。
「火織さま。桜木千亜樹が、天使になりました」
ろうそくを明かりとする幽暗な部屋で、ショートボブの少女が言った。背が低い。鳩羽色の、私立中学校の制服である。腰から2枚の翼がはえていた。14歳の中学2年生。――天使である。
火織は、大きな窓から外を見ていた。全裸であった。シャワーでぬれた体を、オッドアイのメイド少女・佐綾がふいていた。
ソフトボブの中学生少女が続けて、
「ですが、桜木千亜樹は、天使化が完了するまえに翼をひきぬいて、翼を持たない不完全な天使となりました。堕天使、とでも呼ぶべきでしょうか。私たち天使に敵対するつもりです」
火織は、頭部から伸びた翼をさわりながら、
「そう、千亜樹が堕天使になったの。千亜樹は、わたしたち天使と戦う気なのね? ……せっかく殺さないであげたのに、ばかな子」
とつぶやいたあと、メイド服の少女に伝えた。
「佐綾。八天使の、のこり5人を呼んでちょうだい」
八天使とは、火織の率いる天使の団である。
数十秒後、ろうそくの火は床に落とす影を5人分増やした。
佐綾と中学生少女をふくめ、合計7人の少女が片ひざをついて、一糸まとわぬ火織の背中をみつめていた。
7人全員が、腕や足首など体の各所から翼をはやしている。
佐綾が言った。
「火織お嬢様、八天使、全員集合いたしました」
大天使〈アークエンジェル〉
権天使〈プリンシパリティー〉
能天使〈パワー〉
力天使〈ヴァーチャー〉
主天使〈ドミニオン〉
座天使〈ソロネ〉
智天使〈ケルブ〉
熾天使〈セラフ〉
火織はふりむいて、
「わたしのかわいい天使たちに命令するわ。堕天使・桜木千亜樹の首をわたしのまえに持ってきなさい。体は八つ裂きにしてもいいわ。内臓をひきずりだしてもかまわない。でも、首だけはだめ。首は、かならず、そのまま持ち帰ってちょうだい」
と冷然と言いはなった。