①
どういうわけか私は、空を飛んでいた。勿論自分に羽など生えておらず、これは夢だという認識はあった。それでも私は確かに、風を切る感覚を楽しんでいた。
眼下に広がるのは、ただただ青い水。
――凄い、こんなに大きな川、見たこと無い!
夢であると知っているからこそ、覚めなければ良いと強く願うが故か。じっくり味わう余裕もなく、頭の片隅で私を呼ぶ声がする。
『レナ……』
――やだ、まだ早いよ。
『起きなさい、レナ……』
――あとちょっとだけ、お願い……!
『レナ……起きなーー』
「ああもう、分かったってば!」
最後は自らの声で、優しい幻想を打ち破るかの様に。私は急速に、現実の元へと帰還した。ばっちり開いた目に飛び込んできたのは、青い水ならぬ青い空。
――……あれ、私、何で……?
目覚めるならば当然、自分の家のベッドの上であると思っていたのに。成人を迎えた女には相応しくもなく、ここは紛れもなく太陽の真下だった。
--昨日、何してたっけ……。
身に覚えが無くて、困惑したまま。ゆっくりと身体を回転させ、私は顔を熱い大地の上に置いた。
――……水の匂いがする。
急速に感じる、喉の渇き。上体を持ち上げ様としたところ、何かが腕から落下して小さな音を奏でた。
――……これは、石?
周りをよく見てみれば、私は小さな黒い石だらけの大地の上に寝転がっていたらしい。素肌に張り付いていたそれを振り落としつつ、私はよろよろと立ち上がった。
目に入ったのは、先ほど見た夢には程遠いが、今までの中では一番大きくて緩やかに流れる川だった。急いで近づこうとして足がもつれた私は、再び地面に倒れつつもどうにか川べりまでたどり着いて顔からその水面へと突っ込んでいった。
気が済むまで喉を鳴らし、今度は空気を目一杯吸う為に、私は仰向けに寝転がった。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
全力で水を飲んだにも関わらず、まだ身体は乾きを訴えていて。私は全身を覆う脱力感を少しでも和らげようと、自らの左腕で両目を覆った。
問題なのは、それだけではない。私は未だに、自分がどこにいるのかさっぱり分からないでいたのだ。
――この川、見たことも無いし、味も全然いつもと違う……。 ここは、どこ……?
その問いの答えを探し始めるより先に、私は鈍くて強い頭痛に襲われた。
――ああ、駄目だ。 もう何も、考えられない……。
為すすべもなく、私の意識は闇に沈んでいった。
再び目覚めたのは、夕暮れ時だった。
――……お、起きなきゃ!
慌ててがばっと身を起こした私は、急激なめまいを感じた。
「……っ」
頭が割れる様に痛く、首を持ち上げることさえ出来なくて。目を瞑ったまま右手で額を押さえていると、すぐ近くで人間の声がした。
「あ、起きられたんですね」
--誰……?
確認したくて、薄っすら左目だけ開けてみる。すると目の前に、得体の知れない汁の入った椀が差し出された。
「これ、飲んで下さい」
「……」
何の反応も示せずにいると、あろうことかその椀は私の口元に近づいてきた。反射的に顔を背けようとするものの、いつの間にか首の後ろに回っていた謎の人物の腕が、私を逃がさない。
「い、いやっ」
「何も心配しないで、大丈夫ですから」
声だけは優しいものの、私は半ば無理やり、その汁を口から流し込まれた。思わず飲み込んでしまったそれが、身体の中をすーっと通っていくのを感じながら。私は急速に、頭痛が取り払われていくのを知った。
「……?」
「ほらね、大丈夫だったでしょう? さあ、どんどん飲んでください」
知らない声に言われるがままに椀を受け取り、私は未だ震える手で口元にそれを近付けた。どうにか空にした二杯目の半分以上は、横から零れ落ちてしまった。しかしいつの間にか椀には汁が注ぎ足され、私は何杯もそれを呷った。最後の椀を飲み干し、咳き込んだ私の背を優しく擦ったその人は、今度は椀に水を注いでくれた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
ようやく落ち着きを取り戻した私はふっと、汁の味に覚えがあることに気づく。
「……これ、ミカエリ草?」
「はい! コマナ草で作った汁に、ほんの少しだけミカエリ草――別名砂塩草を混ぜています。 太陽熱を発症した人には、良く効くんですよ」
「太陽熱……」
それは暑い日に起こる、決して珍しくは無い病気だった。子供の時はおばあ様の家でこの汁をご馳走になってから、遊びに行く約束になっていたんだっけ。
「なんで今更、太陽熱なんかに……」
「河原で倒れていたんですから、当然ですよ」
ぼそっと呟いた問いに、その人はちゃんと答えてくれた。
「そうか、私、河原にいたんだ……」
それは小さい頃聞いた、父さんの土産話に出てきた言葉だった。不死鳥の村から続いている川がずっと遠くまで行くと、緩やかで、川幅が広くなっていくという。そんな話にしか聞いたことが無かった場所に、私は倒れていたのだ。
ぼーっと周りを見渡している間に、優しい声の人は枯れ枝を集めて小さな焚火を起こしていた。
――何でだろう。 おばあ様の家に、いるみたい。
膝を抱え、安心感に浸りながら私はその人のすることを見つめていた。生まれて初めて見る青い髪をした、同い年ぐらいの男の人。
――異国の人……なんだろうな。 どうして私、こんなところで、知らない人と一緒にいるんだろ。 何があったのか、全然思い出せないや。
物思いにふけっていた私は、ふと彼が私の目をじっと見ていることに気付いて慌てて顔を上げた。
「名乗るのが遅くなりましたね。 僕の名前は、イザム。 村では薬師を生業としている者です」
「薬師……!」
私は驚きを持って、その言葉を繰り返した。薬師とは薬草全般を扱い、病気や怪我など何でも診てくれる、なくてはならない存在だ。高度な技術と長年の経験が必要とされるため、不死鳥の村ではおばあ様に次ぐ高齢の薬師が一人いるだけだった。
――この若さで、この人、凄い人だったんだ……。
ごくんと唾を飲み込みつつ、私はゆっくりと口を開いた。
「私の名前は、レナ……」
イザムと違い他に言うことも無く、言葉はすぐに途切れた。
「レナさん、ですか」
「……うん」
さん付けで呼ばれた経験など、今までに無く。私は何故か恥ずかしくて俯いてしまった。そんな心境を知ってか知らずか、イザムはいきなり核心をついてくる。
「ところでレナさんは、どうしてこんなところにいたのですか?」
「えっと……」
それはまさに、私が一番聞きたいことだった。返答に困る私は、何か隠している様に映ったのだろうか。イザムは首をひねりながら更に言葉を連ねた。
「ここは村の者でも滅多に訪れない、山奥ですよ。 それを見たところ、青の国の人間でも無いあなたがどうやって、ここまで?」
――あ、やっぱり、イザムは青の国の人だったんだ。
そう思ったのは、束の間のこと。私はもっと大事なことに気づいて、慌てて彼に尋ねた。
「ちょ、ちょっと待って! イザム、今、青の国……って言ったよね?」
「ええ。 それが……?」
嫌な予感に胸の鼓動が、速くなる。それでも私は、ありえないと思いつつも恐る恐る、イザムに聞いた。
「ここって、赤の国じゃないの?」
「……ここは青の国の、水龍の村ですよ?」
「――っ!」
――嘘、でしょ?
赤の国最北端の不死鳥の村から、隣の村まで行くのでも最低三日は掛かると聞くのに。ここは、同じ国ですら無いというのか。
信じられない気持ちでいっぱいだが、イザムが偽りを言うとも思えず、私はそのまま思考停止に陥った。
「……どうかされました?」
しばらく茫然としていたらしい私に、イザムはやや間隔を置いてから声を掛けてきた。
「――ご、ごめん、イザム。 ……申し訳ないついでに、色々教えて欲しいんだけど……」
私はイザムから、私を発見した時のことを詳しめに聞いた。なんでも薬草を取りにこの山に来ていた彼は、偶然にも河原で倒れている私に気付いたらしい。すぐに駆け寄り、その原因が太陽熱だと判断したイザムが持っていた荷物で日陰を拵え、ミカエリ草入りの汁を準備したところで私が目覚めたというわけだ。
「いや、でも驚きましたよ。 まさかこんなところで人に出会うなんて」
もしかして“水龍の遣い”かと驚きましたよー、とイザムは笑った。
「……水龍の遣いって?」
なんとなく聞かなくてはいけない気がして、私はそう尋ねた。
「水龍の遣いとは、その昔――青の国に危機が訪れた時、天より舞い降りた水龍様の使者のことです。 丁度今いる山の頂上に、水龍様が最初に訪れたといわれている湖があるんです。 目の前の川は、その湖からずっと流れてきているんですよ」
「……あー。 そうなんだ……」
以前の私なら、他国の伝説にさほど興味を示すこともなかったかもしれない。だが……。
――そうだ、私……。 不死鳥の乙女って言われて、皆から追いかけられてたんだっけ。
堰を切ったかの様に蘇ってくる、忌まわしき夜の出来事。私は無意識に、両腕で自分自身を抱きしめていた。
「それでレナさんは、本当に赤の国から来たんですか?」
「た、多分……」
幸か不幸か、今までの記憶は全て残っていた。あの時崖から身を投げて、自分は死んだ……はずだった。それがどうして、今こうして青の国にいるのかさっぱり分からなかった。
――あの声のことも、何も知らないままだし。
そこでふと、私は大事な物の存在を思い出した。
「私、手に何か持ってなかった?」
「あ! すっかり忘れてました!」
イザムはすぐに立ち上がると、荷物の影から赤玉が散りばめられた剣を取り出した。
「――!」
焚火を反射して、その剣は真っ赤に煌めいていた。待ちきれずに伸ばした手に、ずっしりとした重みが蘇る。私はそれを胸に抱き、ほっと一息ついた。今まですっかり忘れていたくせに、これが無いと安心出来ないとさえ感じる。
信じられないことが起こりすぎた今、この剣だけが唯一、ずっと夢を見ているわけではないと証明してくれる物だった。
「大変高価な物のように見えましたが、やはりレナさんの物だったんですね」
「うん。 これは、とっても大切な――」
言葉を紡ごうとして、私は固まってしまった。今さらの様に、あの時は感じ切れなかった恐怖がひしひしと押し寄せてくる。
――リリア……だけじゃない。 父さんも、母さんも、皆が私の血を求めて襲ってきたんだ。 私、私――。
「……レナさん?」
イザムが止めるよりも前に、私は剣先で自分の掌に赤い線をつけていた。
「い、痛っ」
「何をするんですか!?」
イザムは慌てて私の手を取り、傷ついた掌を広げた。
「――っ」
「……え?」
私たちの目の前で、出来たばかりの傷跡はまるで私の中に吸収されるかの様に消えていった。
「こ、これはどういう――?」
「私にも、分からないの……」
知らず知らずのうちに、私はぽろぽろと涙をこぼしていた。色々あったけれど、一番信じられないのは自分自身のことだった。
「レナさん」
剣をぎゅっと胸に抱き、俯いて泣き続ける私にイザムは言った。
「何があったかは知りませんが、僕に、少し預けては貰えませんか?」
「――っ!」
思わず顔を上げた私に、イザムは優しく微笑んで言った。
「何事も一人で抱えるには、限度がありますよ。 ここで会ったのも、何かの縁。 どんどん吐き出して、楽になるのも悪く無いのでは?」
「わ、私は……」
語り出した言葉は、すぐにぼろぼろと崩れた。今日初めて会った人に、言える訳ないじゃない……。そうやって、突っぱねようとしたのに。
「安心して下さい。 職業柄、口はめっぽう堅いんです」
「――っ」
もう、我慢の限界だった。気付けば私は、ありのままの真実をイザムにぶちまけていた。泣きたいだけ泣き、言いたいことを全て言い終えるまで、イザムはじっと耳を傾けてくれていた。
そして……体が空っぽになった私は、そのまま引き込まれる様に眠ってしまったのだった。




