③
不死鳥の村の外れには、一際高くそびえたつ山がある。それこそが、不死鳥神が降り立ったとされる聖なる山だ。普段は滅多に人が立ち入ることはないが、不死鳥の乙女率いる演者たちだけは別だった。彼らは最後の稽古を、神の御膝元で行うのが昔からの決まりだった。
練習は当然の様に、早朝から始まる。どの演者も自然と引き締まった表情でそれぞれ励んでいるが、一際汗を流しているのは不死鳥の乙女だった。
か弱くて守ってあげたい女性と言えば誰もがリリアを想像するが、それは全くの間違いだ。ほっそりとした身体の下に、彼女は演劇を乗り切るだけの筋力を備えていた。
飾らない格好で太陽の下に素肌を晒し、風を切るリリア。額に煌めく汗も、乱れた髪も、全て彼女の魅力を引き出す要素でしか無かった。自分の練習に集中しているはずの他の演者がつい目で追ってしまう程、リリアは美しかった。
「リリア、そろそろ休憩だって」
遠慮がちに声を掛けてきた女演者に、リリアはしばし足を止めて笑顔で言った。
「教えてくれてありがとう。 でも私、もうちょっと踊ってるわ」
「じゃあせめて、お水でもいかが?」
「頂くわ」
手渡された水をごくっ、ごくっと喉を鳴らして水を飲むリリア。その様子に見惚れながら、女演者は言った。
「……リリアはどうしてそんなに頑張れるの?」
質問というよりは呟きに近いその言葉に、リリアは律儀ににっこり笑ってこう言った。
「これが最後だから、かな」
「それって、ど――」
「うふふ」
女演者が聞き返す前に、意味深な笑みを浮かべて踊り出すリリア。後に残ったのは、花の香りだけだった。
そして、夜。焚火を囲んでの簡素な食事を終えると、演者たちは練習疲れもあってか早々に寝袋にもぐりこんだ。そんな中リリアはただ一人、火の許に座り続けていた。
秋も深まってきた山中で、細々とした炎は明かりにするにも暖を取るにも不十分だった。しかし彼女は、時折白い息で両手を温めながらじっと冷たい夜空を見上げていた。
「――やっと、この時が来たのよ」
そっと呟いたのは彼女の口元は、薄らと笑みを浮かべていた。
「さあ、始めましょうか」
白煙をあげていた焚火を自ら踏み消し、リリアは闇に向かって一歩踏み出した――。
一方その頃――サイは、暗闇の中にいた。昼間、レナに木刀試合で敗北を喫した後、村に居場所が無くなった彼はふらふらと山の中に入った。頭の中にあるのは、苛立ちと、抑えきれない怒り。どこをどう歩いたか彼自身も分からないまま、気付けば日もとうに暮れていた。
「……何やってんだよ」
ふーっと大きく息を吐き、彼はへたり込む様に座っていた地面からようやく立ち上がった。いくら故郷とはいえ、山は山。幸い満月に近い光が、彼の足元を照らしてくれていた。
だが彼は、一歩踏み出してすぐに歩みを止めた。彼の鼻が、芳しい花の匂いを捕えたからだ。
「夜に、花……?」
本来であるならば、彼は気にも留めずにそのまま山を下りたはずだった。だが――。良く知っている山であるという油断と、どこか投げやりな気分、そして何より、若さ故の無鉄砲さ――それが彼の足を、村とは真逆の方向へと向かわせた。
こんなに素晴らしい匂いを届ける花を、一目見たい。ただそれだけを胸に、サイは奥へ奥へと突き進んでいく。その歩みは山に生きる者とは思えない程、冷静さを失い、何かに憑りつかれているかの様だった。
やがて彼は、森の中で明かりを見つけた。鼻息荒く、本来なら有り得ない光に顔を突っ込んだサイ。彼は目を見開いて、その場に立ちすくんだ。
「嘘だろ……」
彼が見たのは、月の光を全身に浴びて踊るリリアだった。
「……」
息をするのも忘れて、彼は彼女に見入った。元々サイにとって、リリアは憧れの女性だった。それが一年間、男ばかりの環境にいたことでさらに思いは膨らんだ。
そして、今――。久方ぶりに出会った彼女は、サイの想像を遥かに超えていた。薄着一枚で一心不乱に舞い踊る彼女は、人外の美しさが溢れだしていた。そんな姿を見て、サイは自分を抑えることが出来なくなっていた。
気付けば彼は、今まさに動きを止めた彼女に声を掛けていた。
「こんばんは、リリア」
「――!」
びくっと肩を震わせ、胸を抱くリリア。サイは、ガサガサと茂みの影から姿を現した。
「驚かせてごめん。 俺だよ、俺」
「……あなたは――サイ!?」
リリアは突然の訪問者に、上気した顔のまま目を丸くした。
「本当に綺麗だった」
「あ、ありがとう。 ……あの、どうし――」
「今日、帰って来たんだ」
サイはリリアの言葉を遮るように、唐突にそう言った。
「そ、そうだったの……。 お久しぶりね」
「ああ、久しぶり。 元気にしてたか?」
「え、ええ」
少しはにかみながら微笑むリリアを前に、サイはぽろっと長年言えなかった台詞を口にした。
「好きだ、リリア」
「――!」
顔を真っ赤にして固まるリリアの両手を取って、サイは尚も言葉を連ねた。
「急にこんなこと言って、びっくりしてると思うけど……。 俺はずっと、君だけを見てた。 今すぐにとは、言わない。 祭りが終わるまでに、返事をくれないか?」
「……」
サイの目には、リリアは、恥ずかしさのあまり俯いている様に見えていた。しかしその実、彼女は、場に不釣り合いな笑いをなんとか堪えようとしているだけだった。
「――私の心はもう、決まってるよ」
「――!」
リリアが息も絶え絶えに言った台詞は、サイの耳には、緊張のため震えている様に届いた。彼は息をするのも忘れて、リリアを見つめた。
「私も……サイが好き!」
リリアが飛び切りの笑みを浮かべた瞬間、サイはもう何も考えられなくなっていた。咄嗟に逞しい腕でリリアを引き寄せた彼は、その唇を奪った。――それが、彼の人生を決定的に狂わせることになるとも知らずに。
やがてリリアからゆっくりと離れたサイは、痺れる頭の片隅で幸せを噛みしめていた。一方のリリアは、赤く艶やかな唇に指を添えつつこう唱えた。
「ねえ、サイ。 お願いがあるんだけど、良いかな?」
「勿論、君のためならなんでもするさ」
自制の利かないサイの舌は、ひび割れた声でその“呪い”を完成させた。その様を満足気に眺めて笑う、リリア。
「うふふ。 流石、私の駒になるために生まれてきた男ね」
目は開いているものの、最早サイの瞳には何も映ってはいなかった。さもなくば、リリアの唇からはみ出た細くて長い舌が、月明かりに照らされちろちろと妖しく揺れていたことに気づいてただろう。
「祭りの日がが楽しみね、レナ」
彼女はそう言うと、楽しそうに舌の先でサイの耳に舌を這わすのだった。




