②
次の日からリリアは、私の家には来なくなった。これから本番までは、みっちり演劇の稽古が入っているという。
「レナ。 リリアちゃんがいない分、今年は忙しいよ!」
「う、うん」
張り切っている母さんに圧倒され、私は頷くしか無かった。朝から昨日の作業の続きをして……。お昼もとうに過ぎた頃、母さんがやっと思い出した様に言った。
「レナ、お昼御飯作るからイチさんの家で何か交換して来てくれる?」
「行く! 行ってきまーす!」
これ幸いにと家を飛び出した私は、太陽に向かって両腕を上げた。今日も、やっぱり良い天気だ。この時期にはすでに、家の戸には赤を基調とした装飾が施され始めている。これは主に子供たちの仕事なのだが、大人の監視も無くサボり始めてしまうのが常で――。
思った通り、私の耳は程なくして少年たちが騒いでいる声を捉えた。
「足を狙え足を!」
「今の良くかわしたな!」
「それもういっちょ!!」
――ああ、やってるやってる。
私は吸い寄せられる様に、その声のする方に近付いて行った。目の前で繰り広げられていたのは勿論、少年たちの木刀試合だ。彼らの頭越しに木刀と木刀がぶつかり合うのを見ながら、私は自然とにやけてしまっていた。足を洗ったとはいえ、ここは私の居場所だった。何だかむずむずして、試合の決着がついた瞬間私は思わず叫んでしまった。
「二人共良くやったー!!」
一瞬の静寂と、そこにいた全員の首が回る音が響いた後――。
「あー! レナ姐じゃん!」
「うわあ、いつからいたんだよ!?」
――やってしまった……。
内心頭を抱えながら、私はそそくさと立ち去ろうとした。
「ひ、久しぶり……。 私忙しいから、もう行くね」
「何だよ、そっけねえな」
「せっかくだから稽古つけてよレナ姐!」
「レナ姐レナ姐!」
無邪気にわらわら近寄ってくる少年たちに、私はいよいよ顔を引きつらせた。彼らは多分、悪くない。悪いのは、ちょっと前までこの少年たちを率いていた私だ。
――そりゃあ恋愛対象外にもなるよね……。
「いや、もう、本当に卒業したからね、私!」
過去の自分に蹴りを入れたくなる衝動に駆られながら、私は謹んで辞退を申し上げた。しかし本当の敵は、思わぬところに潜んでいる物だ。
「なんだよ、つれねえ奴だな」
「……え?」
すぐ後ろから低い声がして、私は驚いて振り返った。
「いつの間に!?」
「久しぶりだな、レナ」
よう、と片手をあげて不敵な笑みを浮かべるのは、一つ年上のサイだ。体もがっしりしていて少々強引なところはあるが、概ね面倒見が良く年下からの信頼も厚い男。
――私にはなーんか、意地悪だったけどね。
あれやこれやを思い出して、私は半目になった。理由はまあ、分かっているのだけれど。
「戻って来てたんだ」
「ついさっきな。 親父が、どうしても大鹿を仕留めるまでは村に帰らないっていうからさ」
サイは狩人のお父さんと一緒に、この一年山に籠っていたのだ。よく日焼けした筋肉質の腕が、今の私には眩しい。
そんなサイは、少年の一人から木刀を取って私を挑戦的な目で見た。
「やるだろ、勝負」
「えっ……」
思わず絶句した私に、彼は音を立てて素振りをしながら尚も言葉を連ねた。
「なんだよ、怖気づいたのか」
「いや、そういう問題じゃ……」
「じゃあやれよ。 おい、レナにも木刀を渡してやれ」
急な展開に茫然としている私の前に、木刀が差し出される。反射的にそれを受け取ってしまったものの、私はまだ状況を把握できずにいた。
――なんで、こうなっちゃったんだろ。
……と一応心の中で呟いてみるが、本当のことを言うと私はこの展開をかなり楽しんでいた。こんな機会でもなければ、木刀に触ることはまず無い。しっかりと柄の部分を握ると、封印していたはずの感覚が蘇って来る。
――そう言えば、サイはまだリリアのこと好きなのかな。
サイは子供の頃リリア好きで有名だったのだが、リリアの横にいたのは常に私だった。おまけに私は、木刀を握らせば負け知らず。勿論、サイにだって負けたことは無かった。
――今ならサイの気持ち、よく分かるんだけどな……。
非常に残念な気持ちになりながらも、私は何回か素振りをしてみた。腕は思った程、落ちてはいない。
「そろそろ準備出来たか?」
「あ、うん」
サイにせかされ、私は慌てて前へと進み出た。木刀の先と先が触れるか触れないかの距離で構えると、私は目の前だけに全神経を集中させた。ブーンという鈍い音と共に、少年たちの喋り声も、自分がいる環境も、全てが遠ざかって行く。
空っぽになった頭の中に試合開始の合図が鳴り響いた瞬間、私もサイも同時に動き出していた。
一閃目は小手先調べ。二閃目で間合いを取り、そして勝負の三閃目――。
「――!」
「――!」
勝負はほんの、一瞬だった。すれ違いざま、私の木刀は正確にサイの剣を捕えていたのだ。恐らく状況を把握していたのは、私だけ。周囲が動き出したのは、サイの木刀が地面に落下し乾いた音を立てた後だった。
――良し!
「す、すげえ!」
「やっぱすげえ!」
「僕、何が起こったのか分からなかったよー!」
私が静かに喜びを噛みしめた後ようやく、少年たちは湧き立って歓声を上げた。堪えきれず、にんまり笑ったまま後を振り返り――私はそのままの表情で凍りついた。握る物が無くなった両手が白くなるほど力を込め、怒りで全身を震わせたサイがこちらを睨みつけていたのだ。
「この……馬鹿力女め!!」
「――っ」
サイの誇りを思いっきり傷つけてしまったと、気付いた時にはもう遅かった。彼は私に言い訳する時間も与えず、鼻息荒く去って行ってしまったのだ。……おまえなんか、誰にも相手されねえよという暴言を残して。
「……えっと――」
――どう、しよう……。
置いてきぼりにされた私は、激しく動揺していた。それこそ、少年たちの声さえ聞こえない程に。
――やっちゃったぁ……。
「――レナ姐! ねえ、レナ姐ってば!」
「……え?」
はっと気付くと、私は心配そうにこっちを見つめる少年たちに取り囲まれていた。
「レナ姐大丈夫?」
「顔色悪いよ、レナ姐」
「……あ、うん。 大丈夫大丈夫!」
慌てて手を振り、私は無理やり笑顔を作った。
「じゃ、じゃあまたね!」
逃げる様にその場を離れて本来の目的を果たすと、私は誰にも声を掛けられない様に家まで走って帰った。
「た、ただいま……」
ただ食材を取りに行ったにしては、時間が経ちすぎているのは分かっていた。そろりと戸を開けた途端、珍しく出迎えに――というよりは私を待ち構えていた母さんの怒鳴り声が耳を直撃した。
「聞いたわよレナ! 子供に交って木刀なんか振り回したあげく、サイちゃんを負かしちゃったんだって!?」
「げっ」
やっぱりもう広まっちゃってるか……と私は頭を抱えたくなった。小さ過ぎるこの村だからこそ、隠し事なんて出来っこないのは分かっている。だからって、もう家にまで伝わっていなくても良いと思うんだけど。
――これは、不味い……!
「あんたって子はもう! 裁縫も駄目、料理も駄目、その上男の子より強いってどういうことよ!」
「……」
雷様のごとく襲い掛かる母さんの小言に、私は首を竦めるしか無かった。
――どういうことって言われましても……。
普段なら助けてくれるはずのリリアは、今ここにはいない。窮地に立たされた私を救ってくれたのは、たまたま家に帰っていた父さんだった。
「まあまあ。 元気なのは良いことだろ」
「あなたはもう、レナに甘いんだから! ――元気って言っても限度があるでしょ限度が!」
最早お淑やかとは程遠い母さんの吠え声を難なくやり過ごし、父さんは言った。
「サイ君もサイ君だよ。 一応花嫁修業中のレナにあっさり負けるなんて、鍛練不足も良いとこだろ?」
「それはまあ、そうですけど……。 とにかくレナ! 今は大切な時期なんだから気を抜いちゃ駄目よ!」
「は、はーい」
とりあえず母さんが落ち着いたことにホッとしながら、私はご機嫌取りのための昼食作りに取り掛かった。
――一応、花嫁修業中だもんね。
こっそり溜息をつきつつ、私は木刀よりも重く思える包丁に手を伸ばした。




