全てを溶かす炎
あれは忘れもしない、寒い夏のことだった。その年は本当に、おかしなことばかりが起きていた。春先に二週間も雨が降ったかと思うと、今度は一カ月も晴れが続いたり。大地が地響きを立てながら真っ二つに割れたかと思うと、鳥の大群が村に押し寄せて来たり。だから、向日葵の上から突然雪が降り出した時も、もう誰も驚きはしなかった。
季節外れの雪は結果的に、一年以上も降り続いた。厳しい冬なんて経験したことが無かった私たちにとって、それはとても辛い日々だった。
贅沢な暮らしなんてもっての外。皆が皆、今日という日を生き延びるために必死だった。今では考えられないことだけれど、食べられる物は何でも食べた。木の皮も、根っこも、皆で競う様にして無理やり口に押し込んだ。そうでもしないと、空腹で頭がおかしくなりそうだったのだ。
それでもまだ、うちの村は比較的笑える方だったらしい。周囲が大きな犠牲を払っている中、私たちは一人の餓死者も出すことなく、この冬を耐え抜いた。それは運が良かったからでも、立地が良かったからでもなく、ただただ素晴らしい村長がいたお蔭だった。
文字通り“先読み”に長けた村長――ハコおばあ様は、他のどの村よりも早くから越冬の準備を進めていた。五年前から始めていた薪の備蓄、三年前から始めていた保存食作り、それは単なる思い付きでは無かった。訝しげな顔をする村人を笑顔一つで納得させ、少しずつ進められていた計画。それこそが、私たちの命を繋いだのだ。
おばあ様に導かれて、何とか生き長らえていた私たち。あっと言う間に半年、一年と時が経った頃――。この小さな村を、雪と共に悲しみが覆い尽くした。ここに来て、村初めてとなる死者が出てしまったのだ。それは誰であろう、ハコおばあ様その人だった。
おばあ様が深い眠りについてから、三日もの間。偉大な元村長の家には、村中の住民がひっきりなしに訪れていた。誰もがおばあ様を心から慕い、その死を惜しんでいた。それは私と、友達のレナとて例外では無かった。
生涯独身を貫いたおばあ様に、家族はいなかった。だから余計になのかもしれないが、私とレナはとても可愛がられていた。自由に家の外に出ることが出来た頃、二人で何回おばあ様の下を訪れたことか……。きっとおばあ様にとって、私たちは本物の孫みたいな存在だったのだと思う。
楽しい思い出しか無かったはずのおばあ様の家からの帰り道、レナと手を繋ぎながら私はずっと泣いていた。悲しくて、悲しくて、本当に胸が張り裂けるのではないかと思った。そんな時、レナがふっと足を止めて私に言ったのだ。おばあ様に渡す、花を探しに行こうと。
この村では死者の魂を送るとき、御花を手向ける習わしがあった。通常であれば、偉大なる村長の葬儀ともなれば村中の花が、その棺いっぱいに敷き詰められただろう。しかし今は、どこを見ても雪ばかり。花なんて、存在するはずも無かった。
それでもレナは、真っ赤に腫らした目で私を見てこう言ったのだ。――花が咲いている場所を知っていると。
その日のうちに私たちは、夜を待ってこっそり家を出た。月が出ているとはいえ、一歩村の外に出ればそこはただの暗闇だ。私はそれを見て、思わず後ずさりした。しかしレナは、未だ自信満々の様だった。
「私に任せて! 絶対おばあ様に花を届けるんだから!」
「……うん」
レナがなんと言おうと、雪山に花などあるわけが無いと私には分かっていた。だが……。どうしてもこの時の私には、レナを止めることが出来なかった。
子供ながらに、今の状況が普通で無いことは理解していた。日に日に大人達の顔が険しくなり、備蓄が尽きようとしているのも知っていた。それでも、おばあ様さえいれば何とかなる。私たちはそう、信じていた。
それなのにおばあ様は、一人で先に逝ってしまった。その事実は、受け止めるには余りにも重すぎたのだ。
もうどうにでもなれと思っていたから、このままレナと一緒に死ぬのも悪くないとさえ思っていたから、私は黙々と彼女の後に付いて行くことにしたのだと、後になって私は思う。
深い雪に覆われ、目印も何も無い山の中。一枚の木の葉も付けていない木々の間から、冷たい月が私たちを見下ろしていた。それにも関わらず、レナは何かに導かれるかの様に迷うことなく道を選んでいった。
そしてついに辿り着いた、山の奥も奥――。無を象徴するかの様な、雪の大地。見たことも無い不気味な青い木が乱立する、その場所で。私は信じられない物を、見てしまった。
「これって……」
「――夢で……。 夢で見た、通り……」
うわ言の様にそう呟くレナが指差す先には、血の様に赤い花が咲いていた。枯れ木色しか無かったこの世界で、そこは余りに異質な空間だった。その禍々しい姿を目の当たりにして、私は体の芯から湧き上がってくる様な寒気を感じた。
「――レナ!!」
「う、うん……」
本能が、告げていた。
――ここは、人が立ち入ってはいけない場所だ……!
一瞬顔を見合わせた後、私たちは一目散に逃げ出した。もう花なんてどうでも良かった。とにかくここから離れたくて。私たちは滑りやすい地面の上を、全速力で走った。だが……そう上手くはいかなかった。
「――ああっ」
「――!?」
私は突然何かに足を取られて、勢いよく転倒した。前を走っていたレナはすぐに引き返して、私に手を差し伸べた。
「大丈夫!?」
「……ごめん。 ただ転んだだけだから……」
立ち上がり、改めて足元を確認した私はさっと血の気が引いていくのを感じた。
「何、これ……」
私の足を引っ掛けたのは何であろう、先程見た青い木だったのだ。細く、しなやかでありながら堅いその木は、逃げる私たちを先回りして捕えたのだ。
「ど、どうしようレナ……!」
頭が真っ白になった私は、思わずレナに抱きついた。
「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて!」
両腕でぎゅっと私を抱きしめながら、レナはそう言った。
「大丈夫、大丈夫だから……」
震えながら繰り返すレナの後半分は、自分自身に言い聞かせている様だった。何の根拠も無いその言葉はしかし、張りつめ過ぎた私の心をほんの少し和らげた。だから、だったのだろうか。ふっと顔を上げた私は、思わずこう呟いていた。
「――レナ、血が出てるよ 」
「――え?」
目を瞬かせるレナの右頬には、枝にでも引っ掛けたのか赤い横線が入っていた。それはまるであの赤い花の様に禍々しく……とても魅力的だった。手で触れて確認したレナは、今更の様に顔をしかめて言った。
「こんなのどうでも良いよ。 それより早く――」
「――舐めてあげる」
咄嗟に私の口から出たのは、酷く掠れた声だった。
「えっ?」
驚くレナが遮るよりも先に、私はその頬に唇を寄せた。
――甘い……!
感じたのは、この世の物とは思えない甘さだった。血の持つ独特の生臭さなど、微塵も無い。目を閉じた私の脳裏には、芳しい匂いで人を魅了する真っ赤な花が咲き誇っていた。
秘められし甘さは乾いた喉を通って全身を駆け巡り、瞬く間に私を潤していく。もう、夢中だった。
「――ちょっと、止めてよ!」
「――っ!」
レナに突き飛ばされて、私は雪の上に尻餅をついた。
「ご、ごめ――」
「何す――」
私は反射的にレナに飛び掛かろうとして……我に返った。
――私、今、何を……?
「……ねえ、どうかしちゃったの……?」
怯えつつも私を心配そうに見つめてくるレナの頬にはもう、傷跡は無かった。そう気付いた瞬間、私の中で燃え滾っていた狂気は、生まれた時と同じ様にさっと消え去った。
――どういう、こと……?
茫然とする私と、震えているレナ。痛い程の沈黙の後、最初に冷静さを取り戻したのはレナだった。
「……帰ろう」
レナは再び、私に手を差し出した。
「……うん」
私たちは手を繋いだまま、けれど互いに一言も話さずに村へと戻った。その道すがら、私は自分の内側に炎を感じていた。それは焚火の様に心地良く、私に溶け込んで行った。
次の日の朝。私たちは、昨日と同じくらい不思議な光景を見ることとなった。寝不足の目をこすりこすり家の外に出た私たちを待っていたのは、土の地面だった。なんと、一夜にして降り積もっていた雪が溶けたのだ。
長きに渡った冬は、何の前触れも無く終わった。私たちも、村も、国も、全ての人が歓喜に湧いた。
少しずつ皆が元の生活に戻って行く中で、おばあ様の葬儀は出来る限り盛大に執り行われた。私とレナは改めて、どこにでも咲いている花を携えて葬儀に参加した。
おばあ様とのお別れの後、私は村の偉い人達に呼び出された。信じられないことに、おばあ様は次の村長に私を指名していたというのだ。
あっという間に、私の生活は忙しくなった。おばあ様の期待に添うため、やることは山程あったのだ。
やがて成人を迎えた私は、正式に村長となった。劇的に変わってしまった暮らしの中でも、レナだけはずっと、私の隣にいてくれた。忙しくも平和かつ平凡な日々の中で、私たちの友情はいつまでも変わることは無かった。それでも私は――。
ふっと一息ついた瞬間、私の脳裏にはあの日のことが蘇っていた。あの日見た景色と、あの日感じた、レナの、血。それらは未だに私を、内側から燃え上がらせるのだった。