9・雪に埋もれた過去
深夜。雪明りと街灯の明かりが、降り続く雪を青白く照らし出していた。
落ちていく雪は再び宙を舞い上がり、いつまでも空を漂っているように見えた。
アリアは窓辺のソファに寄りかかり、カーテンを開けたまま、飽きることなくそんな雪を眺めていた。そうすると、気持ちが落ち着き、嫌なことも、面倒なことも、雪が全てを覆い隠してくれそうな気になる。
旭川の中心に近いマンションの七階。部屋はスタンドライトの明かりが部屋の隅で小さく灯っているだけで、夜だというのに外の方が雪明りで明るく感じられた。
「まだ寝ないのか?」
ヒロは寝室から出てきてアリアの横に座り、そっと肩を抱いた。
「明日、東京に帰っていい?」
視線は窓の外に向けたまま、アリアは消え入りそうな声でヒロに聞いた。
「急ぐ必要はない」
聞いても無駄だとわかっていたが、有無を言わさない口調で言い切られると、僅かな望みもかき消された気がした。
アリアは無意識にため息をもらした。
「……雪を見ていると嫌なことも思い出す、でもなぜか目を背けられない。逃れられなくて吸い込まれてしまいそう」
「何を言っている……お前、また俺のメーカーズマークを飲んだな」
ヒロはサイドテーブルの上にある、氷のみになったグラスを見て、顔をしかめた。
「ロックはだめだと言っているだろ? 強くないのに」
「眠れなくて」
「じゃあ眠れるように、俺が疲れさせてやろうか」
アリアを胸に引き寄せて抱きしめ、指先で唇をそっとなぞった。
「いやだ、ふざけないでよ」
手を払いのけると、ヒロはあっさりとアリアから離れた。
「ふん、意味がわかったのか。少しは大人になった」
「いつまでも子ども扱いしないで。何を訊いてもはぐらかしてばかり、親のことだって……何もかも全て教えてよ!」
自分は何でもお見通しだと言うヒロの態度は、アリアを苛つかせた。
いつもならヒロのおふざけもアリアは聞き流して気にも留めないのだが、アルコールが入ったせいで多少気が大きくなり、絡んだのだった。
だが、ヒロは冷静だった。
「この前話した通りだ、これ以上何を知りたい?」
「柚子の父親は本当に私の親なの? なぜずっと黙っていたの? 美原博一が本当の父親だと思っていたから、小さい頃、父……美原がなぜ私に冷たい態度なのかわからなかった。……ずっと私はいらない子なんだと思っていたななと不倫相手との子供だったなんて」
今までヒロに言えなかった思いが、一気に溢れた。
「俺だってそのことを知ったのはかなり後だ。当時俺も、親父がお前を何故疎んじるのか理解できなかった。離婚後、親父にお前を引き取らないのは何故か問いただしてようやくわかった。親父はプライドが高いから、初めから妻に二股かけられていたなんて、知られたくなかったのだろう」
「そう。でも今まで話してくれなかった」
「すまん、話しづらくて。母親が結婚詐欺師でお前の父親ははっきりしないなんて。いや、矢萩孝介がそうだとは思うが。それでそのことを話した後から、俺に冷たかったのか?」
「別に、それだけじゃないけれど」
アリアはまだむすっとしていた。
「……ななの元から連れ出して、良かっただろう?」
「……あの時は突然ヒロが来て強引に連れて行かれたから、選択肢はなかった。あれからもう何年になる? 何も言わず突然家を出たから……母さんは今どうしているか知っている?」
あんな母親でも、一応母親には違いないのだ。やはり、アリアは気にかかっていた。
「あんな奴のことは心配しなくていい」
「知っているんでしょ?」
アリアは少し語彙を強めて言うと、ヒロは渋々答えた。
「……あの女は、また美原と復縁している」
「! どうなっているの?」
「俺にもよくわからん。ななは何を考えているのか。もう関わりたくないね」
アリアはパニックを起こしていた。不倫が原因で離婚した美原博一とななが、また復縁しているなんて。
「会って話しを聞こうなんて思うなよ」
ヒロは、アリアが思っていることを見透かしたように釘をさした。
「どうして?」
「このまま縁を切っておけ。会ってもななと美原に振り回されるだけだ」
「でも母さんに会って聞きたい、私の父は誰なのか」
酔った勢いでヒロに食って掛かっていたが、アリアは徐々に酔いが覚めてきていた。
「ななと一緒に暮らしていた時も何も話してくれなかったんだろ? それどころかあいつは男と過ごすことが多くて、お前はほとんど放任されていたと言っていたじゃないか」
「そうだけれど」
「親父とななが離婚した直後、ななとお前は姿を消し、俺は直ぐに探し始めた。ようやく突き止めた時には、矢萩は既に事故で亡くなり、お前達はまた消息を絶った……そして、やっとお前を見つけたんだ。今の生活を壊すな」
ヒロはアリアの前では止めていた煙草を、胸元のポケットから取り出し、マッチで火をつけた。
苛ついているようだった。
「でも、喉にいつまでも何かが引っかかったまま。自分はなんなのか、知りたい」
「俺がお前を必要としているだけではだめなのか」
本当に必要とされているのだろうか。また突然見捨てられ、置き去りにされるのではないか、アリアはそんなことを思った。
「お金に不自由はなかっただろうが、ななは男を変えるたびに住むところを変えるような生活。そして、愛情のない生活をおまえに強いてきたななが、今更母親らしいことをすると思うか?」
アリアは何も言い返せずに、俯いた。
「おまけにお前に男の格好をさせていただろ? 暫くぶりで会った時には、男だと思いお前とはわからなかった」
「それは、以前母さんが男の人と同棲していた時に、色々あって……」
「男がお前を襲おうとしたからだろ? そんな危険な環境で生活させられて、お前を犠牲にしても詐欺はやめなかった女だぞ」
「ヒロだって、盗みをやめられないし、刑事達には女の格好では会うなと言うじゃない」
「それとこれとは話しが別だ」
「同じだ……煙草が煙たい。やっぱり今まで止めていなかったんだね、体壊すよ」
「これでも、だいぶ減らしたのだ」
苛々して無意識に吸ってしまった煙草を、銀色の携帯用灰皿を開き、もみ消した。
「ねえ、どうしてそんなに母さんに会わせたくないの?」
「何もいいことがない。もうこの話しは止めよう。嫌なことばかり思い出す」
ヒロはふいと、そっぽを向いてしまった。
アリアは納得できなかったが、ヒロが嫌がっているのがよくわかったので、それ以上は問いただせなかった。
雪は白々と青白い街中に、音もなく降り続いていた。
翌朝、八時過ぎにアリアが目覚めると、ヒロの姿はなく、居間のテーブルに走り書きのような手紙が置いてあった。
『ちょっと仕事を片付けてくる、夜には帰るから飲みに行こう。今、ななは旭川にはいない、一人で行動を起こすな』
「籠の中の鳥……」
そう呟くと、面倒くさそうにお湯を沸かし、ティーバッグの紅茶を淹れた。
「柚子の淹れた紅茶が飲みたいな……」
そう思うと無性に柚子の声が聞きたくなり、アリアは携帯を手にとり、柚子にコールした。
何度目かの呼び出し音の後、聞き慣れた甲高い声が耳元に響いた。
「アリアなの? 帰ってきたの? ちゃんとご飯食べていた? 大丈夫?」
矢継ぎ早に質問攻めにされ、アリアはつい笑いがこみ上げてきた。
「なんだか柚子の方が保護者みたいだ」
「だって、心配なんだもん」
「今、電話していて大丈夫なの?」
「うん、学校に行く途中。ちょっと外野がうるさいけれど」
確かに、周りに柚子の友達がいるらしく彼氏からなの? 等と、きゃあきゃあと黄色い声が聞こえてきた。
「まだ、帰れないの?」
「ヒロからもう少し聞きたいことがあるから」
「そう……昇が仕事に手がつかないって、十無がぼやいていたよ」
「昇が?」
「アリアがヒロと二人きりで旭川に滞在していると思うと、穏やかにしていられないじゃない」
「いつもと変わらないよ?」
「鈍いわね、だってヒロはあの二人にはアリアのことを恋人だって言いふらしているのよ」
「そんなの冗談だと思っているでしょ、きっと。それに、だからってあの二人が何か関係あるの?」
「もう、アリアがそんなだから世話が焼けるのよ。ヒロは本気で言っているし、十無と昇もアリアが好きなのよ」
柚子はじれったそうに言った。
「まさか。だって、男だと思われているし……」
アリアは全く考えてもいないことを柚子に言われ、面食らった。
「まあいいわ、でも事実よ。よーく考えて行動してね、くれぐれもヒロに襲われない様に」
冗談には聞こえない真面目な口調でそう言うと、もう学校だからと柚子は電話を一方的に切った。
「ちょっと、柚子……」
傍から見ると、ヒロのアリアに対する行動は、どう見ても恋人として扱っているようにしか見えないが、アリアにしてみれば一緒に暮らし始めてからずっと、冗談交じりにそんな扱いを受けていた為、兄妹の枠を出た行動とは思っていなかった。
アリアは、理解できていなかった。