8・戸惑いの昇
「ごめん、覚えていなくて。でももう機嫌直してよ、昇」
「ほんっとにお前、昨日のことを覚えていないのか?」
ホテルのレストランで朝食をとりながら、昇は面白くなさそうに口を尖らせて文句を言った。大きなため息までついている。
アリアは本当にきれいさっぱり覚えてなかったので、何も言いようがなく、黙っているしかなかった。
ただ、ぐっすりと眠れたことは確かだ。
「ねえ、何があったの?」
その横で、興味津々にそのやり取りを見ていた柚子が、口を挟んだ。
「俺ももう忘れた!」
トーストにかじりつきながら、昇はやけくそ気味だ。
「ふうん、何かあったんだ」
「何も無い!」
「アリアを襲っちゃったの?」
「やってない! こいつが先に抱きついて来てキスしたんだぞ!」
つい口を滑らせ、昇の額に冷や汗が滲んでいた。
「あらら」
柚子はニヤニヤしてアリアと昇を見比べていた。
冗談、全く覚えがない。記憶がなくなるほど飲んだだろうか。
アリアは硬直して、真っ赤になり言葉もない。
「先にって言うことは、その後昇も『何か』したんだ」
柚子の口調は含みを持って、意地悪い。
「勘弁してくれ、もういいだろ?」
「別にゲイでもいいじゃないの」
「俺、先に部屋に戻って帰る支度しているからな」
青ざめたまま昇は逃げるように席を立った。
「柚子、面白がっているでしょう?」
「だって、面白いんだもん。でもびっくり、アリアって……」
「何にも覚えていない、頭が重い。飛行機に乗って大丈夫かな」
柚子にいつまでもそのことをつつかれそうで、アリアは話しを遮った。
「今日帰るの? せっかくだから観光していこうよ〜」
「元気だね……昇の叔父さんからの情報はまだ時間がかかりそうだから、東京に連絡くれることになったし、柚子も見つけて用事が済んだから、もう帰るよ」
「動物園に行きたい!」
とうとうアリアは柚子の強引さに負けて、帰りの飛行機を最終便に変更した。
その動物園は旭山という山の斜面にあり、冬期間も開園していた。
園内は山の斜面がそのまま残されており、旭川市内が遠くに見渡せた。
「雪の中の動物園って初めて。さすがに寒いわね〜」
アリアには柚子が異常にはしゃいでいるように見えた。
「柚子、何かあったのかな」
ペンギン館に向かって先を歩いている柚子に聞こえないよう、アリアは昇にそっと囁いた。
「いつもあんな感じだろ」
昇の、気にも留めていないような返答に、アリアはあまり納得できず、「そうかな」と反論した。
「ほら、二人とも早く〜。すごい速さでペンギンが泳いでる。可愛い!」
ペンギン館を入っていくと、途中に透明なトンネルがあり、頭上や足元を気持ちよさそうにするりと泳いでいくペンギンが、間近に見えた。
「へえ、確かに凄い」
昇が感心している。
「こんなに早く泳ぐのね、知らなかった」
素直に喜び、見入っている柚子を見て、アリアは思い過ごしだったかなと思った。
間近で北極熊の様子を見ることができたり、サル山を見下ろしたりと一風変わった施設を、きゃあきゃあはしゃぎながら見て周る柚子に、昇とアリアは付き合った。
「二日酔いの体には、この寒さは堪える」
昇は大きな欠伸をした。
「昇も結構飲んだ?」
「おまえにつき合わされたからな」
「ごめん」
「き、昨日のことは気の迷いだから」
「うん、気にしなくていいよ」
昇が気を使うだろうと、極力笑顔をつくり、アリアは明るくあっさりと答えたつもりだった。
だが、何故か逆効果だったようで、昇はがっくりと肩を落としてしまった。
「そうか、それだけの存在か」
「昇、なーに一人でぶつぶつ言って赤くなったり青くなったりしてるの」
柚子が帰り際、温かい飲み物がほしいと言い出し、アリアが買いに行った隙に、柚子は昇に注文をつけはじめたのだった。
「昇、そんなんじゃヒロにアリアを取られちゃうわよ。せっかく人がチャンスを作ってあげたのに」
「変なことを言うな。……お前、わざとアリアを買い物に行かせたな?」
「えへへ。でも昇ってシャイね、今まで彼女いなかったの?」
「だって、男相手に……」
昇は口ごもった。
女性と真面目に付き合ったことはないが、女の遊び友達はいたし、兄のように奥手というわけではなかった。だが今回は勝手が違う。何せ相手は男なのだ。
「そんなの関係ないじゃない、だったら、今度は十無に協力しようかな。十無は押しが強いかしら?」
「アリアの言っていた柚子が楽しんでいるっていう意味がよくわかった。だれかれかまわずけしかけて面白がっているだろう」
「なにそれ? 私はただアリアを助けたいだけよ」
「どういうことだ?」
「アリアはヒロといるとだめになるから」
話しの途中でアリアが車に戻って来てしまい、それ以上昇は柚子から聞けなかった。
動物園を出た後、昼食に蕎麦屋へ行ったが、何を食べたのかどんな味だったのか、覚えていないほど昇は上の空だった。
「昇、ぼうっとして、眠いの? しっかり運転してよ」
運転中も、昇は柚子との会話を引きずっていた。
「あ、いや大丈夫」
助手席に座っているアリアに声をかけられ、昇は我に帰った。
三人はレンタカ―で旭川空港へ向かっていた。
旭川の住宅街を抜け、アリアの案内どおりに空港へ行く真っ直ぐに続く裏道に入ると、数分もしないうちに畑が広がるのどかな丘の風景になった。
道は真っ直ぐだったが、丘を越えるために坂道を何度もアップダウンする。
路面が滑るので、昇は緊張しながら運転していたが、面白い道だった。
「車で良かった、こんな風景が見られたもの。北海道って感じ、美瑛みたいね」
柚子は雪景色を見ながら、『すごーい』『きれい』をしきりに連発していた。
そして三十分ほどで、旭川空港に着いた。
東京からの便が到着したばかりのようで、到着ロビーが賑やかだった。
「アリア! 連絡もしないで一体何をやっていた?」
その低い声に、昇はぎょっとした。
搭乗手続きを済ませるため、カウンターの前に並んでいたところに、アリアの義兄、ヒロが、アリアを見つけて駆け寄ってきたのだ。
昇はまたアリアを連れて行かれそうな気がして、身構えた。
「え? ヒロ、どうしたの?」
ヒロを見て、アリアはきょとんとしている。
「おまえ、携帯の電源切っているだろう?」
「切っていないよ?」
アリアは自分の携帯をコートから取り出して確認すると、電源が切れていた。
「あれ? いつの間に」
「柚子か」
ヒロが柚子をじろりと睨んだ。
「私? 知らない」
「まあいい、柚子にも会えたんだな。やっぱり探偵も一緒だったのか」
「ヒロって過保護。ちょっと連絡が取れなかったからって、東京からここまで来る? 普通」
「柚子には関係の無いことだ」
「あるわよ、一緒に暮らしているもの。一便ずらしたほうが良かった、そうしたら会わないで済んだのに」
柚子は、ヒロに向かって物怖じせず、憎まれ口の応酬だ。
もっと言ってやれ、と昇は心の中で応援していたが、さすがに口は挟めなかった。その場で成り行きをうかがっていた。
「柚子、もうやめなさい」
「は〜い」
アリアにたしなめられて、面白くなさそうに柚子が返事をした。
「アリア、来い」
ヒロはアリアの肩を掴んで、強引に自分の方へ引き寄せた。
「これから東京へ帰るけれど」
「とんぼ返りも馬鹿らしいし、折角だからちょっと付き合え」
「嫌がっているだろう、やめろ」
横暴なヒロに、我慢ならなくなった昇は、ヒロの腕に手を掛けた。
「アリア、俺と行くだろう?」
ヒロは昇の存在を無視し、アリアの顔をじっと見つめて言った。
「……ごめん柚子。先にマンションへ帰って」
抗えない何かがあるように、アリアは抑揚のない声でそう言った。
「アリアが早く帰って来なかったら、私、またいなくなっちゃうかも」
「本当に行くのか?」
「直ぐ帰る。調査代も払わないとならないし」
そう言った時には、いつものアリアの口調に戻っていた。
「じゃあな、探偵」
そう言ってヒロは、わざとアリアの肩を抱き寄せて空港を出ていった。
「昇、いいの? 二人にしちゃって、ほんとに押しが弱いんだから。あ〜あ、知らないっ」
これ以上は何もできない。柚子に言われるまでも無く、昇はかなり焦っていたが、どうすることもできないでいた。
東京に帰って四日が過ぎていたが、昇は憂鬱を引きずっていた。
今朝の天気も小春日和で、日差しが温かく、雪景色の中、アリアと過ごした時間が夢の中の出来事のように思えた。
夢だと思っていた方が楽かなとも思った。
四日しか経っていない、もう四日も経ってしまった。そんなことばかり悶々と考えて仕事にもならなかった。
十無に何かあったのかと聞かれたが、どう話していいのか、話す気にもならない。
「また今日もそうやってボーッと過ごすつもりか?」
何処を見るでもなく、魂の抜けたような顔でパンをかじっている昇を見て、十無が呆れたように言った。
十無は非番のためのんびりしていたが、なぜか仕事のはずの昇も、十無が作った朝食をちゃっかり一緒に食べていた。
「アリアはまだ帰ってきていないんだな。誰かと一緒か?」
「……」
「もういい。お前じゃ話しにならん、柚子に会って聞く。このまま見ていられない」
「別に柚子に聞かなくても」
「じゃあいったい、帰ってからのお前はどうなっているんだ」
「……アリアは一緒に帰るはずだった。でもあいつが旭川に来て、結局そのままアリアをさらっていった」
「あいつって、ヒロか?」
「ああ」
「それでずっと気になって何も手につかないということか。相当重症だな」
「うるさい」
十無だって毎日俺にアリアは帰ってきたかと聞くじゃないかと、昇は続けたかったが、傷口をお互いつつきあっているだけの空しい感じがして、そこは口に出さなかった。
「俺に八つ当たりをするな」
「そういえば叔父さんに何か頼んだだろ? 俺とお前を間違えて連絡が来たぞ」
「ああ、ちょっと」
「古い交通事故の情報だな。矢萩孝介……杉沢柚子の父親か」
「なんだ、十無も調べていたのか」
「調べたってほどじゃないが」
十無が少し言葉に詰まった。
昇は十無も相当調べていたかと思うと、おかしくてにやついてしまった。
「なに笑ってるんだよ」
「いや、俺とたいした変わんないなと思って」
それには返事をせず、十無は叔父からの情報を話し始めた。
「それでだな、矢萩孝介の運転していた車は、カーブを曲がり損ね、ガードレールに激突し、即死状態だったということだ。ブレーキの跡がなく、当時は居眠り運転の可能性が高いと処理されている」
「不審な点はないのか?」
「特にない。だが、事故の数週間前から極端に仕事が忙しくなり、妻が亡くなってから乳児院に預けていた娘の元にも、ほとんど顔を出せないでいたとのことだ」
「過労か? 叔父さんがそんなことまで調べたのか」
「ああ。色々と俺が頼んで」
十無が曖昧な返事をした。
「ふうん、始めから十無に頼めば早かったようだ」
昇の嫌味は無視し、十無は話しを続けた。
「矢萩建設は小さい会社で、下請仕事をして成り立っていたようだ。その中でも当時、美原工業からの仕事が異常に増えていたということだ」
「美原工業って、矢萩建設を吸収した会社?」
「そうだ。しかし、そんな小さな会社を手に入れる為にわざと過労に追いやり、事故を起こすよう仕向けたとは考えられない。やはり、事故だったと考える方が妥当だと思う」
「そうだな」
やっぱり、思い過ごしなのか。
「だが、俺は美原が限りなく黒に近いと思う」
「どうして?」
「事故当時、夜遅くに仕事のことで矢萩を呼び出したのは美原だ。呼び出しはよくあったそうだ」
「嫌がらせか、恨みでもあるのか?」
「美原の身辺をよく調べないとなんとも言えない。勘だが、何かありそうだ」
「俺も調べるよ」
「お前はいいから、クビにならないようにさっさと食べて早く仕事に行け」
「ちぇっ」
昇は朝食を食べ終わると、アパートを追い出されるように職場へ向かった。
双子は怨恨の線で、美原と矢萩に関する情報収集を継続したのだった。