5・柚子の生い立ち
二人が部屋から出てきたが、何を話していたのか、アリアにはまったく想像がつかなかった。
ヒロはポーカーフェイスではあったが、笑いをこらえているようだったし、十無は茫然自失といった感じだった。
とにかく、ヒロの表情が穏やかになり、引越しは当分延期だと言われ、アリアはほっとしていた。
十無が帰る間際に、アリアの方を見て「俺には踏み込めないのか」とわけのわからないことを呟いていた。
アリアがあれはヒロの悪ふざけだからと念をおしても、上の空のようだった。
「十無に変なこと言った? 人の顔見てため息をついていた」
「からかいがいのある面白い奴だ。おまえがここにいたらあいつを利用できる」
「何を考えているの?」
「これから考えるのさ」
ヒロが楽しそうにそう言ったのとは裏腹に、アリアはまた何かことが起こるのだろうかと、暗い気持ちになった。
アリアの携帯電話が鳴った。
「ヒロがここにいるのに、誰が?」
不審に思いながら、アリアはとりあえず電話に出た。
「アリア? 私、柚子。連絡もしないで急にいなくなってごめんね」
長く離れていたわけではないのに、アリアはとても懐かしく感じ、声を聞くと胸が一杯になった。
「何処にいるの?」
「旭川」
「って、北海道?」
「ちょっとね、学校休んじゃった」
「一体なに考えているの、心配するでしょう」
声が聞けてほっとしたと同時に、連絡もせずにいなくなった柚子に怒りがこみ上げてきて、アリアはつい強い口調になった。
「……親のことを調べていたの。そうそう、ヒロにもごめんなさいって伝えておいて。ヒロが残していった柏木のお金の残りを持っていったの」
「やっぱり柚子があの婚約者を仕向けたの?」
「少しは私のこと疑っていたのね。ま、仕方がないか。どうしてもお金が必要だったの、多目に見てね。もう少ししたら帰るから」
「おい、待て。下手したらパクられるところだったんだぞ」
アリアから電話を取り上げ、ヒロが怒鳴った。
アリアも電話に耳を傾けた。
「ヒロもいるの? だって本当は始め、それが目的だったんだもん。みんな捕まったらいいって思っていたの。復讐ね」
「復讐か」
ヒロは驚かなかった。やっぱりそうかと納得しているようだった。
「そう、あなた達家族全てに。ヒロはもう知っているのでしょう? 私のこと。でも、アリアは悪くない、私と同じで被害者だわ。それに……一緒にいたい」
「勝手に決めるな、アリアとはもう会わせない。おまえは危険だ」
「ヒロは関係ない、アリアに決めてもらう」
「俺とアリアは同じ意見だ」
「私は、……柚子に帰ってきてほしい」
側で二人のやり取りを聞いていたアリアは、ヒロの顔色を窺い、ためらいながらも、きっぱりと言った。
ヒロは顔をこわばらせた。
「じゃ、あと三、四日で帰るから。またねヒロ!」
アリアの気持ちを聞いて自信を持ったのか、柚子は一方的に電話を切った。
ヒロに怒られる。アリアは覚悟を決めてじっと黙っていたが、ヒロはただ、困ったような顔をしただけだった。
「ヒロは、柚子の何を知っているの?」
アリアは恐る恐る聞いてみた。
「……お前が嫌な思いをするから、できればこのことには触れたくなかったが」
一呼吸おいて、そう前置きしてからヒロはキッチンに立ってウイスキーの水割りを二人分作り始めた。そして、居間に戻ると、黙って待っていたアリアに水割りを渡し、渋々話し始めたのだった。
「柚子の本名は矢萩柚子だ。聞き覚えがあるか? 今は親戚のうちの養女になっているから姓が変わって杉沢になっているが」
「矢萩? 聞いたことがない」
アリアはきょとんとした。
「……ある男が浮気をした。相当のめり込んで、妻に離婚も考えてくれと言った。だが、相手の女は何も言わずまもなく他の男と結婚してしまった」
水割りで口を潤しながら、ヒロはゆっくり言葉を選びながら話しているようだった。
「相手の女は妻と死に別れた子持ちの男と結婚してしまい、本気だった男は意気消沈した。その後も男の気持ちはなかなか妻の方に戻らず、その男の妻は繋ぎ止めたい一身で、もともと病弱な体で出産に耐えられない体だったのに子供を望み、……出産直後に亡くなった」
ヒロはアリアの方を見て話していたが、目線をグラスにそらした。
「出産のために亡くなった女が柚子の母親だ。そして、お前の母親が男の浮気相手の女だ」
「母さんが柚子の家庭を壊し、柚子の母親を死に追いやった……」
アリアは硬く目を瞑り、両手で顔を覆った。何てことだろう、柚子の両親の幸せを滅茶苦茶にしたなんて。
その女の家族全てを恨んで、同じように家庭を壊してやりたくなって当然だ。
「柚子は、うらんでいるよね」
「まだ続きがある。柚子の父、矢萩孝介というのだが、その矢萩の妻が亡くなったことを知ったお前の母は、矢萩に密かに会うようになったのだ。そして、お前の母は俺の親父、美原博一に一方的に離婚届を置いて、家庭を捨てて矢萩の元へ走った。幼かったお前は、母親に連れられていった」
「じゃあ、生まれたばかりの柚子は、私とも一緒に暮らしたことがある?」
「柚子は母親が亡くなって直ぐに、乳児院に預けられていたはずだ。矢萩が乳児を育て切れなかったのだろう」
酷い。柚子は母親を亡くしただけでなく、父親の愛情も受けられずに育ったのだ。
アリアは言葉もなかった。
「結局、入籍直前に矢萩孝介が交通事故で亡くなったから、お前の母と矢萩は短期間同棲していただけだが」
もし、矢萩夫妻がうまくいっていたなら、柚子の母親は、自分が死ぬかもしれないというリスクを負ってまで、子を持つことを希望しただろうか?
幸せであったなら、柚子は生まれてこなかった? そんな風には思いたくないが、ひょっとして柚子もそうやって自分を責めたのだろうか?
母の命と引き換えに生まれた。自分の存在は一体なんだろうかと。
柚子は、父親の不倫があったから生まれてきた。両親に本当に望まれて生まれた子供じゃないということなのか?
アリアは、柚子のあまりにも過酷な過去に、途中で耳を塞ぎたくなるのを我慢して、じっと身を硬くして聞いていた。
「乳児院にいた柚子は、父親が事故死した後、杉沢という東京にいる親戚の家の養女となった。あまりいい扱いは受けなかったらしい、遺産も知らないうちに使われていたようだ。そんな環境で誰かをうらまない方がおかしいかもしれない」
そんな影を一つも感じさせなかった柚子。
どうしてあんなにも強く生きてこられたのだろう。復讐を糧にしていたのか。そうではないと信じたい。そんなことのために、柚子の一生を台無しにしてほしくない。
アリアは何も知らなかった自分が嫌になった。柚子にどんな顔をして会えばいいのだろうか。
「もう一つ、大事な話がある。お前の母は俺の親父と結婚する直前に既に妊娠していたが、同時に矢萩とも関係があった。二股をかけていたということになる」
「なぜそんな?」
「お前の母親は結婚詐欺師だ。お前を妊娠していったん廃業していたが」
「……知らなかった。あのひとは、しょっちゅう付き合っている男の人がかわったけれど、ただ、だらしない人なのかと思っていた」
そう言われると、思い当たる節が沢山あった。
アリアの母は、アリアと二人で暮らし始めた後、旧姓の浮島ななと名乗り、さっそく男と付き合い始めたのだった。男性のタイプは様々で節操がなく、どの相手とも短い付き合いで、相手が変わるごとに住む場所も変わった。嘘も平気で、子持ちだということを隠して付き合い、アリアがアパートに帰れなくなることも多々あった。
男たちからうまく金を巻き上げていたのだろう。仕事をしている素振りはなかったのに、お金に困ることはなかった。
次々に知った事実に、アリアは呆然としていた。ヒロはそんなアリアに、もう一つ新たな事実を伝えた。
「お前の実の父親のことだが……。離婚の原因はお前が矢萩の子だと知ったからだと親父が言っていた。だが確認はしていない、あくまでも憶測だ」
「矢萩孝介が父かもしれないの? じゃあ、柚子とは腹違いの姉妹?」
浮島ななが美原博一と結婚した後にアリアは生まれたのだが、公然の秘密のように、周囲では美原の子ではないと噂されていたのだという。
幼い頃、父親にいつも冷たい目で見られていたのをアリアは覚えていた。ヒロと仲良く遊んでいると、必ず別の場所へ連れて行かれたのだ。
父親の態度はアリアに対してだけ冷たかった。
何も悪いことをしていないのに、どうして自分だけ怒られるのか。
アリアは幼心に、漠然と疎外感を味わっていた。そんなアリアをかばってくれたのはいつもヒロだった。
母親に連れられていなくなったアリアが、ヒロに見つけられて一緒に暮らすようになった時、兄妹だが血は繋がっていないのだとヒロから知らされたのだった。そのとき、アリアに驚きはなかった。やっと父の態度の原因がわかり、自分が悪かったわけではないと、ようやくほっとしたものだ。しかしそのとき、ヒロはそれ以上詳しいことを教えてくれなかった。
今はっきりわかった。自分は不倫の末に出来た子供だったのだ。父、美原博一がアリアを疎ましく思ったのも無理はない。
でも、自分にはヒロもいるし、ひどい母親だがまかりなりにも母もいる。だけど、柚子には……誰もいない。
「そして明日が矢萩孝介の命日だ。柚子はそのこともあって旭川へ行ったのかも知れない」
ヒロのその言葉を聞いて、アリアはいてもたってもいられなくなった。
翌朝、アリアは半ば衝動的に動いていた。柚子に少しでも早く会いたい、そしてきちんと確かめたい。本当に異母姉妹なのか。
でも、異母姉妹だとしても、柚子は本当に自分を恨んでいないのだろうか。
柚子の家族を崩壊させた女の、子供である自分を。
会いたい気持ちも強かったが、反面、柚子に会うのが怖くもあった。
そんな気持ちを抱えたアリアに、運悪く同伴者ができてしまった。
「やっぱりついてくるの?」
アリアはため息をつきながら、隣の座席に座っている昇を見た。
羽田空港。二人は旭川行きの飛行機に搭乗し、座席についていた。
この探偵は、どうしてこうも付きまとうのだろう。
あの後、ヒロは遅い時間に帰ったが、アリアはその後もまだウイスキーを飲んでいた。
そして、ほとんど眠らないままに、朝方、マンションを出て、羽田へ向かったのだった。が、出かける間際に例のごとく昇がやってきてしまい、なんだかんだといってついてきたのだった。
「丁度旭川に行く用事があってね」
「ふうん、……職なくさないようにね。不景気だから再就職は厳しいと思うよ」
「だから、仕事だっていっているだろ」
昇の携帯が鳴った。
「もしもし、あ、所長! ちょっとその、旭川に急用で、もう離陸するから携帯を切らないと、例の浮気調査? してますって、大丈夫ですよ。それじゃ、また後で」
電話の相手はまだ話しが終わっていないようだったが、昇は慌ただしく携帯電話の電源を切った。
「いいの? ほんとにクビになりそうだけど」
「いいんだ、それより柚子が旭川にいるって?」
「旭川の何処にいるかはわからないけれど、帰るのを待っていられない」
「あてはあるのか?」
「少しは」
「俺に探させてくれないか? これは依頼として。きちんと料金は貰う、もちろん秘密厳守だ、十無にも言わない」
「そんなことできるの?」
「信用してくれ。俺は俺、兄貴は兄貴だ」
「どうしてそこまで私に関わるの?」
「ただの知りたい病さ。それにお前がまっとうな生活が出来る手助けになれば」
「私はいたって普通です」
「どこが。で、雇ってくれるのか?」
「嫌だと言ってもどうせついてくるでしょ」
「それはそうか。じゃあ契約成立でいいな」
「そうしないと、十無に何でも筒抜けになると言うことでしょう?」
「そんな嫌な言い方するなよ、まるで俺が脅しているように聞こえる」
強引な申し出に、アリアは観念したが、一人で柚子に会わないで済むと思うと、少し気持ちが軽くなった。
「しっかり働いてね、探偵さん」
ほっとしたせいかアリアは気が緩んで急に睡魔が襲い、窓に寄りかかってすうっと眠ってしまった。
「アリア、寝たのか。随分と無防備な奴だ」
羽田を離陸後すぐに、アリアの小さい寝息が聞こえ、安心して眠りについたアリアを見て、昇は微笑んだ。
「おい、起きろ、着いたぞ」
旭川まで約一時間半の空の旅はあっという間だった。酷く雪が降っていたが何度か旋回し、どうにか着陸できた。
旭川空港からバスに乗り換えた。平日の為か、ビジネスマンに混じり、スキーヤーが数人のみで、空席が目立った。
道中は、一面、白銀の世界だったが、景色を楽しむ余裕がないほど雪はひどく降り続いていた。
市街地が近くなっても路面の雪が巻き上がり、視界は数メートルがやっとで、前方の車もよく見えない状態だった。
「ひどい雪だな、何も見えない。俺はこんな所には住めないね」
雪が吹き付けている窓をのぞきながら、昇が言った。
「私は好きだけれど。雪がないと冬の感じがしないから」
「お前、ひょっとしてこっちの出身?」
「さあね」
アリアをじっと見つめる真顔の昇に、アリアはしらを切った。
夏場であれば広々とした二車線はあるであろう車道は、両脇にできた一メートル近くある雪山に狭まれ、路面も圧雪で白一色だった。
「こんな道でよく運転できるな」
「これから体験できるよ、レンタカーを借りるから」
アリアはふふっと笑った。
「げ、勘弁してくれよ」
「車がないと、ここでは身動きがとれない」
そんな話をしているうちに、バスはのろのろと、旭川駅前に着いた。
「やっぱ寒いな、氷点下か」
白い息を吐きながらバスから降りた昇は、両手をコートのポケットに突っ込み肩をすぼめた。
ワイシャツにネクタイ、その上に薄手のステンカラーコートを羽織っているだけの昇は、かなり寒そうだった。
機内アナウンスで、最高気温は氷点下七度と放送していたのを思い出した。
「その格好じゃだめだ。近くのデパートに寄ろう」
アリアが歩き出したとき、後ろから「うわっ」と昇の叫び声が聞こえ、振り返ると昇が転んでいた。
「気をつけなよ」
「こんなつるつるの道、お前はどうしてそう平気で歩ける?」
路面は雪というより氷のように光っており、おまけにでこぼこしている。
「ああ、靴も買わないとね。それに慎重に歩けば大丈夫」
「そりゃそうだけれど」
昇はぶつぶつと文句を言いながら立ち上がった。
これは、世話が焼けるかもしれないなと、アリアは苦笑した。
二人はデパートのコート売り場へ行った。裏地がしっかりしている厚手のトレンチコートを見繕い、昇に試着させた。
「丁度いいね、じゃこれを。このまま着ていくのでこっちのコートを袋に入れてください」
アリアが店員にそう頼んだ横で、値札を見た昇が慌ててアリアに耳打ちした。
「待てよ、こんなに高いコート、買えないよ」
「経費で落ちないの?」
「落ちるわけないだろ」
「そっか、これいくらなの?」
「二十万円でございます」
店員がにこやかに答えた。
「じゃ、これで」
アリアは現金で支払いを済ませた。
「こんな高い物を買って貰う筋合いはない」
「コートを選んでいる時間がもったいない」
「金はもったいなくないのか?」
昇が目を丸くした。
「さ、行くよ」
「おい」
「似合っているよ」
アリアはそう言ってくすっと笑った。
「なっ……」
アリアの一言で、昇の顔が真っ赤になった。