4・ヒロの告白
「今そこへ向かっている、もう着く」
アリアがソファでうとうとしていると、夜二十一時過ぎ、いつものようにヒロからぶっきらぼうな電話があった。
「ここへ? まずいよ、今朝も例の探偵が来てこの前の仕事の探りを入れていった。違う所で待ち合わせを――」
「荷物をまとめろ、そこを引き払う為に行く。引越しだ」
「えっ、ここを離れるの? でも柚子が帰るかもしれないし」
「まだ信じているのか? 無駄だ」
「でも……」
「その話は後だ、待っていろ」
ヒロは一方的に電話を切った。
急にここを出なければならないのは何故だろう。このまま柚子とは会えないのだろうか。
アリアは気が重くなった。
ヒロが到着するまでの数分間という短い時間が、長く感じられた。
「刑事達は張り込んでいないようだな。まさかこんな時間に堂々とここへ訪ねて来ることはないだろう」
「多分」
アリアをソファに座らせてヒロもその横に腰を下ろし、ヒロは表情の変化を伺うようにじっとアリアの顔を見つめた。
「毎朝あの探偵が来ているようだが一体何をしに来ている? 刑事に頼まれているのか?」
「……さあ、どうかな」
ヒロは探偵が出入りしていることを心配していたのか。そのくらいのことは別に生活に影響はないし、引越ししなくてもいいのにとアリアは思ったが、口には出せない。
もし嫌な顔をされたらと考えると、ヒロに逆らう勇気がなかった。
「あの探偵は朝食を食べていくだけで、あとは柚子のことを調べた結果を教えてくれたり、犯罪に関わるなとか説教はするけれど、害は無いと思う」
精一杯の抵抗。最後のほうはだんだん声が小さくなった。
ヒロの顔が険しくなったので、アリアは怒られそうに感じたのだ。
「親しくするな、あいつの兄貴は刑事だ」
「うん、いい人だけれど」
心配しなくても親しくはしていないからと言いたいが、怖くて声にならない。ヒロといるといつも思うように話せなくなるのだ。緊張で押しつぶされそうになる。
アリアはうつむいた。
「あいつらに女だって知られたのか?」
「いや、彼氏がいるって冗談で言ったら男同士だと思ったようで、リアクションが面白かったよ」
アリアは何とかヒロを和ませようと思って、笑い話のつもりで話したのだが、逆効果だった。
楽しそうに話すアリアを見て、ヒロの表情がより険しくなったのだ。
「長居は無用だ、最小限の荷物を持って行くぞ」
ヒロは冷たい命令を出し、立ち上がった。
「今から?」
ヒロの一言でアリアの不安が一杯になった。このままでは引越しは逃れられない。でも、ここでの生活を壊したくはない。
アリアはヒロから顔をそむけ、「ここに、いたい」と小さな声で反抗した。
ヒロがため息を漏らした。おもむろに、アリアの傍に屈んで、アリアの頬に手のひらをそっと寄せた。
「どうした、離れたくない理由でもあるのか?」
以外にも、ヒロの声は優しかった。アリアの顔を覗き込んだヒロの瞳には動揺の色が見えた。
アリアは今までヒロに反発したことがなかった。初めての反抗にきっとヒロは戸惑っているのだ。
もしかしたら、希望を聞き入れてくれるかもしれない。
「もう転々とする生活はしたくない。義兄さん、それじゃだめなの?」
普段であれば、義兄と呼べばヒロは怒る。アリアはわざと義兄と呼んでみた。これで大丈夫だったら、怒らずに聞いてくれるのではないかと思ったのだ。
「本当の兄妹じゃないんだから、ヒロでいいと言っているだろう」
ヒロはやんわりと訂正した。
今だったら、喧嘩にならずに話せる。
ずっと、聞くに聞けないでいたことを思い切って口に出した。
「……いつもそういうけれど、だったら私の父親は誰?」
「詳しくは、知らない。そんなことより、以前のようにまた一緒に暮らさないか」
やはりいつものように話題を変えてられしまった。アリアはその言葉に表情を硬くした。
なだめるように、ヒロの手がアリアの頬を優しくなぜている。
「だめなのか?」
ヒロの顔は悲しげだった。アリアは胸が苦しくなった。
ヒロのそんな顔は見たくない。
「……ヒロは今の『仕事』続けるの?」
「いつかはやめる、心配するな」
そう言うと、アリアを抱きしめた。
「ヒロ?」
「アリア……」
ヒロがアリアを抱きしめることはよくあったのだが、ヒロの態度がいつも以上に強引で、アリアは急に怖くなった。
「離して!」
そのまま強引にキスをされそうになったその時、「やめろ」と、ヒロの背後から聞き慣れた声がして、ヒロの腕を捻った。
「いてっ」
「嫌がっているだろ」
ヒロが捻られた腕をさすりながら振り返った。
ヒロの背後に、十無が険しい顔をして立っていた。十無の顔を見たアリアは、少しほっとしたのだった。
「人の家へ勝手に上がりこんで、日本の警察はどうなっているのだ?」
「言い争っているようだったからな」
「ふん、最近の刑事は痴話喧嘩の仲裁までして、よっぽど暇なのか?」
ヒロはじろりと十無を睨んだ。
「痴話喧嘩だと?」
「そうだ、俺達はそういう関係だ」
十無が動揺し、少したじろぐと、すかさずヒロがそう続けた。
「違う、ヒロの悪ふざけだ」
アリアが慌てて否定したのが悪かった。ヒロはアリアの言葉を聞いて一層かっとなり、怒りが収まらなくなってしまった。
「俺はこいつを愛している、悪いか! お前、十無とか言ったな、ちょっと顔を貸せ。アリアはここに居ろ」
そう言って十無の襟首をつかみ、奥の部屋へ引っ張り込んだ。
私はヒロの家族だけれど、所有物ではないのに。
居間に一人残されたアリアは、ヒロに言いたいことは山ほどあったが、思い切ってそれを言うことには、抵抗があった。
嫌われたくない、一人は嫌という複雑な気持ち。アリアもまたヒロに依存していた。
アリアを愛していると叫んだヒロに、十無の頭はパニックを起こしていた。
この男は本気なのか? 義弟で、しかも男なのに。まさか本当に……。でもあいつはどうなんだ?
ヒロに連れて行かれながら、東十無の思考は停止していた。
「刑事さん、アリアのことに随分と首を突っ込んでいるが、関わりすぎると警察にいられなくなるぜ」
「脅しか? この手を離せ」
十無も負けじと、やり返す。ヒロは手を離した。
「俺のことを色々嗅ぎ回っていただろう」
「ああ。中原洋、年齢二十八歳。タクシー運転手ということだな。だがこれは偽名だろう? アリアとは義理の兄弟だと?」
「親が再婚して兄弟になった。血のつながりはない。それより刑事さん、いったいアリアをどうしたいと思っている?」
「どうしたいって……」
考えてもいなかったことを唐突に訊かれ、十無は鸚鵡返しするのがやっとだった。
「今だって仕事で張り込んでいるようには思えないぜ。一人で来ただろう?」
十無は何も言い返せなかった。
「図星か、嘘をつけない奴だ。アリアのことが気になるのか? 男でも。俺は男だろうが関係ない」
ヒロはわざと男ということを強調しているようだった。
「あいつを引きずり込むな」
「何に? 俺は何もしちゃいない」
「アリアが可哀想だ」
ヒロが口の端で笑った。
「ふん、何も知らないくせに。所詮お前は刑事だ。中途半端に手出しするな。アリアが好きなら刑事を辞めることだ」
「好きって、俺はただ」
無意識に避けていた言葉。十無は頭を殴られたようにくらくらした。
動揺を隠せないでいる十無に、「所詮、男だからな」と、ヒロはまた意地悪く繰り返した。
「あいつは本当に男なのか?」
「ああ、女の格好だと全くわからないが、ちゃんと見た」
ヒロは真顔だ。
「見た?」
十無はヒロの言葉を理解できなかった。
「さっきから言っているが、俺達はそういう関係だ」
「そんな……」
十無は想像してしまった。顔が見る見るうちに真っ赤なるのが自分でもわかった。
十無の頭の中は真っ白になってしまった。