3・疑惑
「おかしい」
ヒロがタクシーを運転しながら呟いた。
「確かに彼女、電話がきたと言っていた」
アリアは後部座席から身を乗り出して運転席の背もたれに寄りかかって、絶対に聞き間違いではないと付け足した。
「妨害されたのか」
「誰に?」
「柚子には言ってないのか」
「何も話していない」
結局、慌てた為に金は半分しか持ち去れなかった。
「柚子はもうマンションにいないかもしれないな」
「疑っているの?」
「あいつはそういう奴だ」
「そんなのわからないじゃない」
「最近、サツ以外の誰かにつけられていた」
「柚子とは関係ないよ」
「随分肩を持つな」
「だって、いい娘だ」
「お前は簡単に信用しすぎる」
「そんなことない!」
ヒロの決め付けるような言い方に、アリアはだんだん苛立ってきた。
「あいつのこと何も知らないだろ」
「ヒロは知っているっていうの?」
「柚子のせいで危うくDは捕まりそうになったこともある。故意にやったことだ」
「ほんとに? でも何かわけがあるかも……」
「これは事実だ」
アリアは言い返せずに沈黙した。
「それに、……あいつはお前の母親を恨んでいるかもしれない」
「どういうこと?」
「きちんと調べたら話す」
ヒロはそれ以上のことを教えてくれなかった。
何があるというのだろう。柚子は過去に自分とかかわりがあったのだろうか。アリアは不安になった。
「ああ、まだ七時過ぎか」
アリアは早く起きる必要はなかったが目が覚めてしまった。
柏木邸の仕事を終えてから一週間が経っていた。
「習慣だけ残ってしまった」
アリアは苦笑いを浮かべた。
あの日、夜遅くに帰宅するとヒロが言ったとおり柚子はいなくなっていた。
柚子が起こしに来ることはない朝。しんとした部屋が寒々しく見える。
無駄とわかっていても柚子がいた部屋をのぞいてしまう。
「元に戻ったただけなのに」
からっぽになった部屋を見てアリアはため息をついた。
アリアはいたたまれなくなり、マンションの近くにある喫茶店に行った。モーニングセットを頼み、新聞をぼんやりと眺めた。
「あの事件は新聞には載っていないね」
不意に背後から声をかけられた。
見上げると昇が微笑んでいた。
「なんだ、昇か。毎日ご苦労さん」
アリアはいつもの暢気な調子で言った。
「なんだはないだろう。あのな、……公の情報ではないが……」
昇はアリアの横に座ると、顔を近づけて声のトーンを落とした。
「十無から聞いた話しだが、ある資産家の屋敷で盗難があったようだ。被害届は出ていないが、周辺が騒がしくなっている。マルサがマークしていたらしいが、たぶん脱税の金がやられたんだろう。被害者宅は柏木というのだが」
昇の目は鋭く、アリアを観察している。
「ふーん」
アリアは新聞のほうを向いたまま、興味なさそうに生返事をした。
「柏木の息子が女連れで帰宅している。お前だろう? 」
「私?」
「柏木充は結婚式の二次会でその女と会っているが、調べても該当者がいないそうだ。何処かへ消えたってことだ。いや、もともとそんな女はいない」
「その女が私だと?」
アリアは苦笑しながら新聞をソファに置いた。注文したセットが運ばれてきた。
「確かな証拠はないが」
昇は腕を組んで反応を伺うようにじっとアリアを見据えて言った。
「刑事でもないのに随分熱心だね」
アリアは紅茶を一口飲んだ。
「十無に頼まれてね。それに俺も本当のことを知りたい」
「知ってどうするの? 被害届けもないんでしょ?」
「さあな、俺にもわからん」
「変なの、暇なんだね。そんなことばかりしていたら昇進できないよって十無にも言っておいて」
「お前に言われたくない」
昇は皿にのっていたトーストを一枚口にくわえると立ち上がった。
「あっ、また朝食を横取りした!」
「今日もここにいたということは、柚子はやっぱり帰っていないのか?」
昇は行こうとした足を止めてアリアの方を振り返った。
「ここには帰らないと思う」
「今回のことに関係があるのか?」
「……」
疑いたくないが、多分関係があるのだろうとアリアは思っていた。
「柚子のことも調べてみた。両親は既に亡くなっていて、結構な遺産があったようだな。その金目当ての親戚に引き取られたが、高校入学と同時に一人暮らしを始めている。お前との接点はわからなかった。何かあるかと思ったが」
「そう……」
「仲良かったからな、気を落とすなよ」
昇はうつむいてぼそぼそと照れくさそうにそう言うと、喫茶店を出て行った。
「変な奴」
昇なりに自分を心配してくれているのだろう。昇の不器用な優しさが嬉しかった。
アリアは自然と笑みがこぼれた。
今日こそはしっかり灸を据えないとならない。
東十無は胸の奥で燻っている感情をうまくコントロールできず、やり場のない焦燥感が込み上げていた。
最近の昇の行動は目に余るものがある。口を挟まないのをいいことに、好き放題アリアのところに入り浸りだ。
自分はなるべく関わらないようにしているというのに。
「何処へ行っていた? またアリアのところか」
昇が署に顔を出したところに、待ち構えていた十無が人気のない資料室へ昇を引っ張り込み、厳しい口調で問い詰めた。
「そうだけど。あいつまた喫茶店で朝飯食ってた。柚子がいなくなってからあいつぼーっとしていて、変だぜ」
昇は十無の心配をよそに、アリアのことを開けっぴろげに心配している。
「被疑者と親しくするな。俺の立場がなくなる」
「あいつは悪くない。ヒロという奴にそそのかされているだけだ」
「更正でもさせようっていうのか」
「だめか?」
昇の目は真剣だった。
自分はこんなに苦労して、アリアとのかかわりを断っているのに。
十無はストレートに感情を表す昇が急に腹立たしくなった。これは嫉妬なのか。十無は湧き起こった感情に動揺した。こんなことを考えていてはだめだ。
「お前、事務所の仕事そっちのけでアリアのことを色々調べているようだな。音江のおやじさんが嘆いていたぞ」
「もう耳に入っているのか。仕事はしっかりこなしている。保護者面するなよ、兄貴といっても同い年なんだから」
「俺だって面倒みきれない。お前がしっかりしないから周りが心配するのだ」
「うるさいな」
「昇、いくら幼馴染の親がやっている探偵事務所でも限度があるぞ」
「わかってる、じゃあな」
昇はふいと出て行ってしまった。
「おい、何か用があって来たんじゃないのか?」
十無はやれやれと小さくため息をついた。自分と違い、直ぐ行動に移す昇が心配だった。
反面、羨ましくもあった。十無は刑事と言う立場上、踏み込んではいけないと言い聞かせて今まで自制してきたのだ。
だが、昇がアリアとかかわるようになってから穏やかでいられなくなっていた。
「俺も昇のことをとやかく言えないが」
十無は手に持っていた書類に目を落として苦笑した。
それはヒロについて調べ上げた調査書だった。