2・仕事
柚子がゆっくりと遅い朝食を摂り、悠々と遅刻して学校に行った後、アリアはヒロに会うために慌てて化粧をして女性の姿になり、指定場所へと向かった。なんとか時間ぎりぎりに間に合うことができた。
「折角急いできたのに、遅い」
しかし、ヒロは現れず、待ち合わせの時間より三十分が過ぎていた。百貨店に併設された喫茶店は平日の昼下がりとあって、女性客ばかりだ。
紅茶のおかわりを頼もうかと迷っているところに携帯電話が鳴った。
「ヒロ? どうしたの」
「わるい。もう着くから店を出て待っていろ」
アリアがすぐさま歩道に出て、行き交う車を見ていると、目の前に一台のタクシーがとまった。
「乗れ」
「急ぐの?」
アリアが助手席に乗ったと同時にタクシーは乱暴に発進した。
ヒロは顔を隠すための帽子をかぶらず、肩より長い癖毛の髪を無造作にひとつに束ねているだけだった。サングラスをかけていたが、背丈百八十センチほどのヒロが、街中を歩くには目立つ格好だった。
「つけられてはいなかったか?」
「刑事はいなかったし、大丈夫だと思う」
宛てもなく、ヒロはただ闇雲に車を走らせているようだった。
「用心してくれ。……まずこの男に会って家に上がりこめ。そして俺を誘導しろ」
ヒロは運転しながら、唐突に『仕事』の話しを切り出して一枚の写真をアリアに渡した。
アリアはそこに写っている若い男に目をやりながら「盗むの?」と聞き、不安な気持ちでヒロを見つめた。
「大丈夫だ、通報はされない。そういう金だ」
「そう」
今回も嫌だとは言えなかった。ヒロの指示はアリアにとっていつも絶対だ。
ずっと、ヒロの気に入るようにしてきた。反発しようなどと考えたこともない。
だが、この頃はこの生活がいつまで続くのかと不安になる。
「柚子はまだいるのか?」
「うん、ちゃんと学校にも行っている」
「早くあのマンションを出ろ。柚子がいると厄介だ」
「別に差し支えないし、いい娘だよ」
「騙されるな。あいつはあのDの獲物を簡単にピンはねしていたんだぞ」
「この前のダイヤだけじゃないの?」
「高校生が一人で渡り歩ける世界じゃないが、柚子はやっている。どういうことかわかるな? あいつは普通じゃない。それに……」
「何?」
「いや何でもない。とにかくこのままでは危険だ」
「でも」
アリアは反論したかったがうまく言えずに言葉を濁した。
午後五時に帰宅したが、柚子はまだ帰っていなかった。アリアは余計な心配をさせないですんだことにほっとした。
今夜、ターゲットである柏木充と会い、自宅へ一緒に行くように仕向けなければならない。
アリアは昼間とは違う少し濃い化粧に、ヘアウイッグもロングに変えてタイトスカートをはいた。
時間には少し早かったが、遅くなるからと言うメモを残してフェイクファーのついたコートに身を包み、マンションを出た。
「ねえ、俺達だけ違う店に行かないか? いい店を知っているからさ」
ヒロの調べ通り、柏木充は軽い奴だった。結婚式の二次会にもぐりこみ、席を隣にするだけで向こうから誘ってきた。
「そうね、私もここには知っている人があまりいないし、どうしようかな」
「絶対気に入るって。夜景が綺麗でさぁ」
「じゃあ、行こうかな」
柏木は親の会社を継ぐべき立場にあるが、付き合いだと言っては遊び歩いていた。
親も半分諦めているようで、二十代で遊ばせておけばそのうち落ち着くだろうなどと甘い考えを持っているとヒロが言っていた。
「でもなんだか酔ったみたい、もうきっと飲めないわ」
「えっ、もう帰るの?」
「少し休んだら大丈夫かも」
居酒屋を出てからアリアはよろけて柏木にもたれかかり、上目使いで顔を見上げた。
「じゃ、じゃあこの近くで休んでいこうか」
「ホテルは嫌いなの、あなた一人暮らし? あなたのうちに行きたいな」
「で、でも」
「彼女とか誰かいるの?」
「い、いやいるわけがないじゃないか。親と住んでいて、でも今日はいないから」
柏木には親公認のフィアンセがいて、結婚式の日取りも既に決まっている。勿論、ヒロからこのことは聞いていた。
二人はタクシーを拾い、柏木宅へ向かった。
「あら、素敵なおうちね」
柏木と腕を組んだまま前庭を歩く。都心なのに、郊外に建っていると錯覚しそうなくらい、和風の家を木々が囲んでいた。
「なんだか冷たい風に当たったら酔いが醒めたわ、もう少し飲みたいな」
二十畳はありそうなリビングだった。
アリアは革張りのソファに座って足を組み、柏木に甘えた声でお願いした。
「はいはい、お姫様。水割りでいいかな」
ルックスはそう悪くはない男だったが、言うことがいちいち鼻についた。
「君に乾杯」
「ありがとう」
「古い映画の決め台詞だよな」
「物知りね」
それを言うなら君の瞳にだろう! とアリアは心の中で突っ込みを入れた。
お酒が強い男の人が好きと言うアリアの言葉に乗せられて、柏木は何杯目かの水割りを飲み干した。
「なあ、いいだろう」
柏木はアリアに段々と体を寄せてきて、ソファの端まで追い詰められたアリアは、もう逃げ場がなかった。
とうとうアリアの腰に腕を回してキスを迫ってきた。
「ん、なんだか体が重いな」
柏木が突然額に手を当ててそう言ったかと思うと、そのままどさりとソファに倒れこんだ。
「ふう、薬がなかなか効かないんだもん、どうなるかと思った」
柏木は高いびきをかいて熟睡していた。
水割りに睡眠薬をそっと混ぜて飲ませたのだった。
アリアは用心深く部屋を出て人がいないのを確認した。目的の寝室を探すと、部屋は難なく見つけることができた。
居間に戻って防犯カメラのスイッチをオフにした。足早に玄関へ行きながら携帯を鳴らして直ぐに切り、ヒロに合図した。
「サンキュー」
アリアが玄関を開けると、ダークブルーのスーツにコートを着て伊達眼鏡をかけた、会社員風のいでたちをしたヒロが立っていた。
「大丈夫だったか」
ヒロは自分の家の様に、臆することなく廊下を歩いていった。
「うん、ヒロの調べ通り誰もいなかったよ」
「そうじゃなくて、キスくらいされたか?」
「ヒロ!」
アリアの顔がカーッと赤くなった。
「何かされたのか」
ヒロの顔が曇り、アリアの片腕をぐいっと掴んだ。
「何もされないよ」
酒を飲んでいるアリアは、その拍子によろけてヒロに体を支えられた。
「嫌なことをさせて悪かった」
ヒロはそのままアリアをぎゅっと抱きしめた。
「離してよ、急がないと」
そう言って、アリアはヒロの腕を離れた。
こんなときに! ヒロって何を考えているのだろう。
アリアは動揺を抑えてヒロの前に立って足早に歩いた。
「冷たいな」
ヒロは文句を言いながら、アリアについてきた。
「多分あの部屋が寝室だと思うけれど」
二人はさっきまでアリアがいた居間を通り抜け、奥にある寝室へ向かった。
明かりをつけて寝室に忍び込んだ。ダブルベッドと化粧台、ウオークインクロゼットのドアが目に付く。ヒロは迷わずそのドアへ進んだ。
「セキュリティとか大丈夫なの?」
あまり用心していない素振りのヒロを見て、アリアは不安になった。
「多分な」
「そんな……」
ヒロは計算づくなのか? 時折見せる無鉄砲さがアリアは怖かった。
クロゼットの奥にはブランド品などの鞄がぎっしり並んでいた。
「この鞄のどれかに入っているはずだ」
「って、これ全部確認するの? 二十位はあるよ」
「これ以上の情報はない、探すしかないな」
ヒロは端にある鞄から中を確認し始めた。アリアもそれに習った。
「時間かかるね」
「今日は柏木夫妻が戻る心配はないはずだから安心しろ」
「柏木充も今頃、いい夢でも見ているのかな」
アリアも少し安心して冗談を言った。
「あった」
ヒロが開けた、かなり痛んだスポーツバックに『それ』は入っていた。二千万円位はありそうだ。
ヒロは持参してきた鞄に札束を手際よく詰め始めた。
ピンポーン。
インターホンが鳴り、二人はぎょっとした。
「私の靴、玄関に置いたままだ」
アリアはこわばった表情で言った。
いったい誰がこんな時間に。
時計は零時を回っていた。
ヒロはどう対応しようか迷っているようだった。アリアは瞬時に落ち着きを取り戻し「隙を見て家を出て」と言い捨てて居間へ行った。
再びインターホンが鳴った。
アリアが居間のモニターを確認すると、若い女性が映っていた。
「どちら様ですか」
アリアは家人のように対応した。
「あなた誰? 充がいるんでしょ、ドアを開けなさいよ! 女といるって電話がきたんだから!」
どうやら柏木のフィアンセのようだ。アリアは玄関に行ってドアを開けた。
「泥棒ネコ! 充を誘惑したのね!」
彼女はアリアを見るや否や、凄い剣幕で怒鳴った。
「あら、彼女いたの。充さんはそんなのいないと言っていたわ。でもちょうどよかった、困っていたの。お酒飲みすぎてダウンしているから介抱してあげて」
アリアはふてぶてしい態度でそう言った。その女は肩を震わせて今にも泣きそうだった。
だが、アリアをキッと睨みつけてから何も言わずに居間へと走っていった。
「酷いわ、充! 起きなさいよ。なんなの、あの女!」
そう言って泣きじゃくり、彼女は寝ている柏木を揺さぶっているようだった。
「柏木にはいい薬かな」
アリアは悠々と柏木邸を後にしたのだった。