12・心の支え
アリアの生活は、柚子がいなくなる前の穏やかな日々に戻ったように見えた。
だが、アリアの心中には少なからずさざ波が立っていた。
昇は旭川から帰ってきて以来、朝食を横取りしに来なくなり、アリアと会っても態度がよそよそしく、アリアは少し寂しく感じていた。
おまけに、ヒロからは全く連絡のない状態が続き、気になって落ち着かなかった。
そして、柚子の言葉がずっと喉に引っかかっていた。
『それは、嫉妬じゃないの?』
そんなふうに微塵も思っていなかったアリアには、衝撃発言だった。
血は繋がっていなくても家族だから、兄妹なのだから当たり前なのだと、アリアは思い続けていた。
ヒロの行き過ぎた愛情表現を、アリアは兄妹の枠を越えているとは思っていなかった。いや、今まで思わないようにしていたのだ。
だが、柚子に指摘されてアリアは気づいてしまった。ヒロに甘えて気持ちをもてあそび、利用していたのは自分のほうではないかと。
アリアはそんなことを考えては、頭の中でまた打ち消すことを繰り返していた。
「また今日も一日中そうやってヒロのことを考えていたでしょ。いいかげんしゃんとしてよね、ヒロなんて傍にいないほうがアリアにはいいの」
アリアがソファに横になって昼間からジンライムを飲んでいると、学校から帰宅した柚子が、開口一番うんざりしたようにそう言った。
「柚子にはわからない」
「わかりませんよ、わかりたくもないわ」
「ヒロは唯一の家族、二人で生きてきたんだ」
アリアはソファから起き上がり、ジンライムをがぶりと勢いよく飲んだ。
「そうですか、じゃあ私は一体何よ」
隣に座った柚子は、アリアの手元からグラスを横取りしてごくんと飲んだ。
「こら、未成年が飲んじゃ駄目」
「飲みたくもなるわ」
柚子はキッとアリアを睨んだ。
「あ、ごめん。柚子は多分、妹だから家族だね」
はっとしてアリアは慌てて訂正し、そっと柚子からグラスを取り戻した。
「で、私が急にいなくなったときもそんなに苛々した?」
「苛々なんてしていない。今だって」
「そう?」
「ただ心配なだけ。柚子が急にいなくなったときもすごく心配で、不安だった」
「不安?」
「私は必要とされていないのかなって」
「アリアって寂しがり屋なのね」
「そうかな。一人でいるのは平気だけれど」
「その感じわかる気がするけれど、頼る相手を間違えていると思う」
「ヒロを頼っているつもりはないけれど……」
「自覚していないのね。十無や昇はどうなの。そのほうがずっといいと思うけれど」
「今は柚子がいて少し落ち着いていられる、それでいい」
そう言って、アリアは柚子にもたれかかった。
「私は別でしょう? 私が言っているのは、彼氏のことで……もういいわ。アリアにそんな話し無理かもね」
柚子が呆れたようにそう言いながらも、悪い気はしていないようだった。
アリアは何も考えたくなかった。
「よお、アリア」
昼下がり、昇がやや緊張した面持ちで、マンションを訪ねてきた。
最後に会ってから三週間ほど経っていた。
「何か用事があるの?」
玄関先に出たアリアは、女性の姿で落ち着いた感じの紺色のスーツを着ていた。
「用っていうほどじゃないけれど……これから出かけるのか?」
別人のように見えるアリアの姿に、昇は視線を合わせない。少し戸惑っているようだった。
「柚子の学校で面談だ。来なくていいといわれたけれど、そうもいかないからね」
「おいおい、その言葉遣い、何とかしろ」
外見と言葉遣いがちぐはぐで、昇が吹き出した。
「学校ではうまくやるから良いんだ」
アリアはむっとした。
「車で送ってやる。少し話したいことがあるから」
「そう、ありがとう」
アリアは何かあるのではと疑ったが、素直にお礼を言った。
髪をアップにしてまとめ、出かける用意を終えたアリアが、昇の車に乗り込んだ。
微かに化粧の香りが、昇の鼻をかすめた。
「OLか秘書って感じだな」
昇がハンドルを握りながら、助手席に座っているアリアをちらりと見た。
「ちょっと堅苦しい感じがするかな、変だろうか」
「いや、変じゃないけれど……お前、女にしか見えない。本当に男か」
昇の視線は、アリアの細い首筋辺りにいっている。
「お褒めの言葉、ありがとう。で、話しって何?」
アリアはそんなことどうでもいいというように、さらりと受け流した。
「ここの所ずっと調べていた。柚子のこと、おまえのこと」
「で、何かわかった?」
動じずにアリアは淡々と訊いた。
「いや、正直言ってさっぱりだ。ただ、柚子の父親の矢萩孝介は事故死ではない」
「柚子もそう言っていたけれど」
「矢萩を下請けとして使っていた美原博一が何か絡んでいるようだが、動機がわからなかった。だが、少しつながりを見つけた。ななと言う女だ」
その名前を昇が口にした時、アリアは一瞬青ざめた。
「どうかしたのか」
「いいや、別に。それで、その女がどうかしたの」
「美原は以前、ななと短期間だが結婚していた。そして、二人は突然離婚し、ななは矢萩孝介と同棲し、再婚する直前に矢萩が事故死している。逮捕暦はないが、どうやらななは結婚詐欺師だったようだ。そして、ななは何故かまた美原と復縁している」
「よく調べたね」
「知っていたような言い方だな」
運転している昇は、アリアの表情を観察しようとしているようだった。アリアは窓の方を向いて動揺を悟られないようにした。
「で、美原が何かしたという証拠でも掴めた?」
「いや、残念ながら。かなり古い事故だから立証するのは難しいだろう。でも動機はわかった。多分、ななが矢萩と不倫関係になったことに腹を立て、美原が何か車に細工をしたんだろう。あるいは、そこまでしなかったとしても、毎夜のように仕事だといって呼びつけ、遅くまで接待させていたことを考えれば、過労になるよう追い詰めて、死に至らしめたのだと推測できる」
「……」
美原博一が柚子の父、矢萩孝介を死に追いやったのだろうと、アリアはなんとなく予想していたのだが、改めて聞くと、胸が締め付けられた。
柚子にこの辛い事実を話せるだろうか。
「それでだ、美原には前妻との息子がいる。行方不明らしいが……他にななとの間にも一人子供がいた。その子は離婚時にななが引き取ったが、その子も現在、行方不明ということだ」
そこまで話し、昇は車を歩道に寄せてとめた。
窓の方をずっと向いていたアリアは突然両肩を掴まれ、昇の方に無理に向かせられた。
「その子は『そうちゃん』と呼ばれていたらしい。名前からすると男の子だが、よくわからない。おかしな話しだが、その子は周囲の人の記憶にほとんどなく、影が薄い」
「……」
「美原の息子と言うのはヒロのことじゃないのか? 本名は美原弘文。そしてもう一人の行方不明の子供はお前だろう、アリア」
「痛い、手を離して」
「答えろ、どうなんだ」
「違う。何でも都合よくこじつけないで。学校に遅れるから、早く車を出して」
「俺はお前が男だろうと……でも、女であったらと……ごめん訳のわからないことを」
悲しげなアリアの表情を見て、昇は動揺し、肩から手を放した。
昇は黙って車を発進させた。
重い沈黙のまま、柚子の学校に到着したのだった。