10・穏やかな夜
その夜、ヒロから連絡が来たのは二十一時をとうに過ぎてからだった。
告げられた待ち合わせの場所は、三・六街にある光屋と言うカクテルバーだった。
目的のビル前でタクシーを降りると、雪こそ降っていなかったが、冷たい風が頬を刺すように吹いていた。
かなり寒く感じられたが、土曜日ということもあり飲み屋街は賑わっていた。
ビルの最上階の六階へつき、店のドアを開けると、若いバーテンが、にこやかに迎えてくれた。
「あの、待ち合わせているんですが」
アリアはそう言いながら店の中を見回すと、奥の方でヒロが手をあげた。コートをバーテンダーに預けて、アリアはヒロの隣に座った。
客席は対面式のカウンターと窓に向いたカウンター席、その他に二テーブルほどあり、店は二十人も客が入れば満席になりそうだった。ヒロがいる席は窓側だったが、そこだけ奥まっており、カウンターからは死角になっていた。
客は十人程が静かに談笑している。ダウンライトと水槽の明かりが、静かで落ち着いた雰囲気を演出していた。
「女の格好で来いと言ったのに」
白い綿のシャツに濃いブラウンのパンツスタイル、いつものサングラスをしてきたアリアを見て、ヒロは顔をしかめた。
「どちらでもいいじゃない」
アリアは柚子の言葉がいくらか引っかかり、女性の姿でヒロに会うことに抵抗があったのだ。
ヒロはバーテンダーに、アリアには甘めのカクテルを、自分にはギムレットを頼んだ。
「……昨日は、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺も悪いから」
アリアは昨夜言い過ぎたことを後悔し、俯いて謝ると、ヒロは優しく微笑んだ。
アリアはほっとして笑顔になった。
「今までの時間、何をしていたの?」
「仕事だ」
「何の?」
「……」
「教えてくれないの?」
「知ってどうする。それより、ななには夏頃には会わせてやる」
ヒロがぶっきらぼうに言い捨てた。
「どうして夏なの?」
「会わせないわけじゃない、そのくらい待て」
ヒロに威圧的にそう言われると、アリアはいつものようにただ黙るしかなかった。
窓から見えるビルの煙突から、寒そうに風になびいている白い煙を眺めた。
今夜はこれ以上、何も聞くことはできない。もう言い争いはしたくない。
アリアは早々に諦めて所在なげに手拭タオルを弄んだ。
二人が気まずい感じで沈黙していると、タイミングよくバーテンダーがカクテルを運んできた。
フレッシュ苺を使用した、鮮やかな赤いフローズンカクテルがアリアの前に置かれた。
蘭の花が挿され、ストローもついていて南国風を思わせるカクテルだった。
「女の子が好みそうだね」
「そうだな」
ヒロは白濁色のギムレットを飲んだ。
「美味しいけれど、アルコールがかなり少ないかな」
カクテルに口をつけ、アリアは少し物足りなさそうな顔をした。
「お子様だからそのくらいでいい」
「またそういうことを言う。もう二十歳を過ぎているのに、いつまでも同じ扱いなんだから」
「大人か、そうは見えないな」
フッとヒロの表情が穏やかになった。
「小馬鹿にしてるでしょ」
「俺がななのところから連れ出した時と、変わりないようだが」
「そんな何年も前と同じわけがないでしょ」
文句を言いながら、アリアはカクテルを飲み干した。
アリアはこんな時のヒロが好きだった。安心して頼り切ってしまえる、優しいヒロ。
いつもこうだったらいいのに。
「次は辛口。えーと、ジンベースで……マティーニ、ドライマティーニにする」
「飲めないからやめておけ」
「飲める」
アリアは駄々っ子のように譲らず、ヒロは苦笑しながら言うとおりに注文した。
「じゃ、ドライマティーニを。ドライベルモットは一滴で、レモンピールは入れなくていい」
「かしこまりました」
「それと……」
ヒロはバーテンダーに、アリアには聞こえないようにもう一つ頼んだ。
「何を頼んだの?」
「内緒、きたらわかる」
少しすると、よく冷えてカクテルグラスに水滴が光っているドライマティーニが運ばれてきた。
「ヒロが頼んだのは?」
「後でくる、先にどうぞ」
ヒロは微笑みながら、楽しそうにアリアをじっと観察している。
アリアはマティーニを少し口に含んだが、辛すぎてむせ込んでしまった。
「これ、マティーニだけど、かなり辛口にしたでしょ!」
「無理をするな、自分に合うものを飲んだらいい」
ヒロは笑いを堪えながら、自分の前にマティーニを寄せた。
「お待たせしました、どうぞ」
バーテンダーがもう一つカクテルを運んできた。
ワイングラスに、濃い琥珀色の液体が入っている。その上には生クリ―ムが注がれて、カクテル・ピンにチェリーを刺したものがグラスに渡して飾ってあった。
「お前にはオリーブは似合わない、エンジェル・チップの甘いチェリーがぴったりだ」
ヒロはそう言って悪戯っぽく微笑んだ。
「明日、東京へ帰ろうと思う」
アリアは何杯目かの甘いカクテルで酔いが回った頃、緊張しながらようやくそう切り出した。
ヒロは少し間をおいてから、寂しそうに、「そうか」とだけ言い、反対もしなかった。
アリアは拍子抜けしてしまった。
ヒロの態度は普段より紳士的で優しかった。というより、なんだか元気がないようにアリアには思えた。
「今夜は楽しかった。久しぶりにゆっくりお前と飲めた……先に帰って寝ていろ、俺はもう少し飲んで帰る」
バーを出てエレベーターで階下へ降りる途中、ヒロは微笑みながらそう言った。五、六杯のカクテルを飲んでいたはずのヒロは、顔色も変わらず、全く酔っていなかった。
「私も一緒に行ってはだめなの?」
「女の子のいる店だ」
ヒロは悪戯っぽくそう言ってアリアをタクシーに乗せた後、一人飲み屋街へ姿を消した。
結局、ヒロからは母親のことを詳しく聞くタイミングを逃してしまった。
だが、今はそれよりも、ヒロの静かに笑みを浮かべた表情が焼きついて、アリアの心に引っかかっていた。
いつもなら、アリアが男の格好でいようが、お構いなしに肩を抱き寄せることなど平気なヒロだが、今夜はアリアに指一本触れることもなかった。
考えすぎだろうか、昼間に何かあったのだろうか……このまま旭川を離れていいのだろうか。
タクシーの中、アリアは酔ってぼうっとしている頭で考えた。
不安げなアリアを乗せたタクシーは、さらさらな雪が降る中、凍ってつるつるな路面を滑るように走り、マンションへと向かった。
その夜、ヒロのことが気になってアリアはベッドに入ってもなかなか眠つけず、本を読みながら帰りを待っていたが、ヒロはとうとう帰宅しなかった
そればかりか、夕方になり旭川空港へ行く時刻になっても、ヒロはアリアの前に現れることはなかった。
アリアは嫌な胸騒ぎがした。
ひょっとして、このままずっとヒロとは会えないのでは……そんな考えまでもが一瞬頭をよぎった。ヒロは自分の携帯電話を持っていない。あとは連絡がくるのを待つしかないのだ。
搭乗手続きを終え、ラウンジで待っている間も、アリアの目はヒロの姿を無意識に探していた。
昨日の昼間、ヒロに何かがあったに違いない。アリアはそう確信していた。
血の繋がりはないが、たった二人の兄妹。家族と呼べる唯一の人だった。
今までも、離れて過ごすことのほうが多かったが、こんなに不安な気持ちになることはなかった。
搭乗のぎりぎりまでヒロを待ったが無駄だった。諦めてゲートに入ろうとした時、アリアの携帯電話が鳴った。
「ヒロ? どうして帰って来なかったの、今何処にいるの?」
「ヒロじゃなくてごめんなさい、アリアちゃん。連絡するなって言われたけれど、きっと心配していると思って。手短に話すわ、ヒロはちょっと冷静になる時間が必要なの。暫くは会えないけれど、必ずアリアちゃんの所へ帰すから心配しないで」
ハスキーなよく響く声、それはDだった。
「どういうこと? 暫くって」
「夏にはあなたのお母さんに……あっ、ヒロだめよ切らないで」
「D? もしもし」
ヒロに気づかれ、電話を途中で切られてしまったようだ。
Dが一緒にいる。私には言えなくてもDには相談できることなのか。
アリアはぽっかりと胸に隙間ができたような感じがした。
自分はヒロにとってそれだけの存在なのかと思うと、アリアは急に切なくなってきた。
また置き去りにされた。孤独感がどっしりとアリアの心の中に重く鎮座した。
何処をどう帰ったのか、東京のマンションへ着くと、着替えもせずに、アリアはそのまま眠りについた。
「ねえ、アリア起きて。一体いつ帰ってきたの」
柚子の甲高い声が、アリアの耳元で目覚まし代わりに響いたが、アリアは体を起こさず、目だけ開けた。
「おはよう」
「おはようじゃないわよ、心配していたのに。ヒロはどうしたの? 何かあったの?」
アリアが間の抜けた暢気な挨拶をしたため、柚子は一層キンキン声でまくし立てた。
アリアは上の空だった。
また、ヒロに置いていかれた。
アリアはベッドに横になったまま、頬づえをついてぼーっとしていた。
「柚子はずっとここにいるよね?」
不意に真剣な表情でアリアは柚子を見つめた。
「どうしたの、急に。……いるわよ?」
「そう。柚子、ありがとう」
そう言って起き上がると、アリアは柚子をぎゅっと抱きしめた。
無性に人恋しかったのだ。
「変なの、照れるじゃない」
柚子は戸惑いながらも小さな子供にするように、アリアの背中を優しく撫ぜた。
「ヒロと何かあったの?」
「少しの間こうしていていい?」
「いいけれど、そこのドアのところで十無と昇が硬直しているわよ」
昨夜のうちに、柚子は十無と昇にアリアが帰ってきたことを連絡していたらしい。
早速、二人そろって来たのだった。
「インターホンを鳴らしたけれど、誰も出てこないから……」
十無はばつが悪そうにぼそぼそとそう言い、横にいた昇も「昨日、帰ってきたって聞いて。その……また来る」と言ってそそくさと帰ってしまった。
「いつもタイミングが悪いんだから。アリアもむやみに抱きついちゃだめよ、また勘違いされたわ」
「でも、人恋しくて」
アリアは寂しそうに呟き、柚子をじっと見つめた。
「アリア、男の格好で……なんだか変な気持ちになっちゃったじゃない。もう、自覚してよね」
柚子は冗談交じりにそう言って離れようとした。顔を少し赤らめて、柚子はリビングへ行ってしまった。
「じゃ、女の格好だったらいいのか」
アリアはわかっていなかった。
昨夜そのまま寝てしまってよれよれになっていた服を着替えてから、アリアはキッチンへ行った。
柚子が濃いミルクティーを淹れてくれた。
甘い香りが、キッチンに漂う。
アリアは食卓椅子に座り、両肘をついて熱々の紅茶を冷ましながらゆっくりと口に含んだ。
体が温まり、アリアは少し落ち着いた。
トーストをセットしている柚子の後姿を、アリアはぼんやり眺めた。
柚子がいてよかった。アリアは心からそう思った。
普通のお母さんは、こんな感じなのだろうか。柚子だったらきっと、いい母親になるだろうな等と、アリアはつい想像してしまった。
ほっとしたところで、アリアは双子のことが気にかかった。
「ところで、刑事さんたち、さっきは何しに来たのかな」
柚子は学校へ行く時間を気にして時計を見ながら、トーストをほおばっていた。
アリアの質問に、柚子は早口で答えた。
「アリアの顔を見に来たんじゃないの? そう言えば、この前来たときに矢萩孝介の事故は美原博一が関与しているようだと言っていたけれど」
「まだ調べているのか」
「きっとアリアとも何かつながりがあるのではって」
「そこまでわかったのか」
「アリアのことも時間の問題ね」
「昇に矢萩孝介の調査なんて頼まなければよかった」
「ねえ、私とアリアは本当に異母姉妹なの?」
「ヒロからは何も聞けなかった、ただ夏に母に会わせてやるって」
「夏って、今はだめなの?」
「わからない。きっと、その時までヒロにも会えない」
「ヒロは何処にいるの?」
「Dと、一緒にいるようだ」
アリアがポツリと言った。
「ヒロから離れるいい機会じゃない」
「そんなこと言っても、兄妹だから……」
「義理のでしょ、血なんて繋がっていないじゃない。それにヒロは妹だなんて思っていないわ。前にも言ったけれどアリアのこと好きなの。アリアはどう思っているの?」
「好きとかそういうことじゃなくて、大切な人だと思ってる」
「もう、煮え切らないわね。はっきりしないと辛い思いをするわよ、きっと」
「だって、他に言いようがない」
「じゃ、Dと一緒にいるってわかってどんな気持ち?」
「ちょっと、嫌な気持ちだけれど」
「それは、嫉妬でしょう」
「嫉妬?」
その言葉がしっくり来ない気がして、アリアは首をひねった。
「違うなら何よ。あーっ、もうこんな時間。学校に遅れちゃう、じゃあいってきます」
まだ聞きたかったが、柚子は慌てて玄関を飛び出した。
アリアは目で送りながら、まだぼうっとしていた。
「嫉妬……なのかな」
アリアは自分の気持ちがよくわからなかった。