1・朝の訪問
「さあ、できたわよ」
柚子は焼きたてのトーストを、アリアの目の前にある皿にのせた。
朝食を楽しそうに作る柚子を目で追いながら、アリアは食卓椅子に座って紅茶を口に含み、ぼんやりしていた。
まだ外は寒く、人恋しくなる季節。
いつもなら、ヒロからの連絡をじっと待つだけの孤独な日々が、こうも生活ががらりと変わるとはアリア自身、思いも寄らなかった。
柚子が来てから、この一ヵ月足らずの間に、以前には考えられないほどアリアは規則正しい生活になった。
朝は午前中に起きられるようになり、朝食もしっかり食べている。温かい食事を作ってもらい、一緒に食べられる相手がいる。そんなことがアリアにはとても嬉しかった。
他人と生活を共にすることによって、気を使ってしまい、生活は窮屈になると思っていたが、予想外に居心地が良いのだ。
あまり使用していなかったこの古ぼけたマンションで、柚子と二人、人並みの生活を送っていた。
「これは柚子のおかげかな」
アリアはトーストをかじりながら、ぽつりと独り言を呟いた。
一人の時意外は必ずかけていたサングラスも、柚子の前ではいつの間にかはずすようになっていた。
苦笑しているアリアを見て、柚子が首をかしげた。
「なあに笑っているの」
「いや、なんでもない」
柚子のペースに乗って気を許してしまった部分もあるが、まだ必要最小限の会話しか交わさないように用心はしていた。
『何を考えているのかわからない、危険な子よ』
アリアは女怪盗Dが言っていたその言葉がずっと引っかかっていた。
短期間であるが、柚子と生活していたことのあるDの言葉は重い。
泥棒の弟子になりたいといっていたが、柚子は他に何か目的があって近づいてきたのだろうか。
だが、柚子は今のところおとなしく、高校にも休まず登校し、平穏な日々が続いていた。
ただ一つ、例の双子が気軽にマンションへ出入りするようになってしまったことがアリアの悩みの種だった。
「ねえ、サングラスをはずしたんだから、私の前では男の姿じゃなくてもいいんじゃないの?」
柚子は、洗いざらしの白いシャツにパンツスタイルのアリアを眺めて言った。
柚子が来る前から一人でいる時もこんな服装だった。アリアは男として長く生活してきた。もうそれは自分でも違和感がなくなっていた。
「別にこれが普通だから。それに、訪問者がいるでしょう。厄介な……」
「来たぞ」
噂をすれば、今日もコートを着たままどかどかと東昇が部屋に入ってきた。
「昇! 勝手に上がりこむな」
アリアはそう言って、慌ててサングラスをかけた。
「良いことだろう、こうやって未然に犯罪を防ぎにきているんだから」
昇はわけのわからない理屈を言うと、食卓テーブルの椅子に座り、アリアからトーストを横取りした。
「あっ、また! ただ朝食をたかりに来たんでしょう!」
アリアは仕方なく柚子から別のトーストをもらった。
「硬いこと言うな」
昇は紅茶までもらい飲んでいた。
「ここのところ毎日ここへ『出勤』してくるじゃない。暇なのね、探偵って。あ、昇が暇なだけか。それともさぼり? 刑事さんは忙しいのね、十無は滅多に来ないもの」
「柚子まで俺達を呼び捨てか」
昇は柚子の嫌味には動じず、目上の者を呼び捨てにしているということにこだわって、ぶつぶつ文句を言っている。
「そんなこと言うなら、もう鍵は開けてあげない」
「いいじゃないか、賑やかな方が食事も美味しいだろう?」
昇はまた無茶苦茶な論理だ。
「そうねえ、昇がいると確かに賑やかだわ。アリアって無口で、外出しない時は自室に閉じこもっていることが多いから」
柚子は妙に納得している。
「へえ、お前って根暗だな」
昇が興味深そうに言った。
「柚子、余計なことは言わない」
アリアは柚子といるとつい何でも話してしまいそうで怖かった。柚子は人の話しを聞き出すのがうまい。
だからアリアは極力、自分の部屋にいるようにしていたのだ。
「だって本当だもん。ねえ、昇が来たらアリアも楽しそうよね」
「そんなことはない、毎日煩わしい!」
慌てて否定したが、柚子にそう見られていたのかと思うと、アリアは何故かどきりとした。
毎日がこんな調子で穏やかだった。
が、そんな平穏な日々は長くは続かなかった。
真夜中、午前二時過ぎ。ベッドサイドに置いていたアリアの携帯電話が鳴った。
「俺だ、明日の十三時に会いたい」
「ヒロ、何かあったの?」
「いや、これからことが起こる。手伝いを頼む」
「……わかった」
アリアは電話を切ると、ため息をついた。
いつだろうと有無を言わさずヒロが指示を出すのだ。
真夜中の電話も、もう慣れてしまい、アリアは寝ぼけることもなかった。それはいつものことだったが今回は何かが違っていた。
アリアの胸の中に冷たい風が吹き抜けていく感覚が沸き起こった。
柚子とはたいした会話はなかったが、それでも誰かと一緒に生活しているという安堵感があり、居心地が良く、アリアは徐々にこの環境に慣れつつあった。
平穏な生活に暖かい食事。そのありがたみをアリアは改めて知ったのだった。
「健康的な生活にバイバイかな」
そう諦めたように呟くと、アリアはガウンをはおってキッチンへ行き、戸棚の中を物色した。
「確かヒロが前に置いていったウイスキーがあったはず」
目当てのものを戸棚の奥から見つけ、ロックグラスに半分ほど注いで、半分ほど一気に飲んだ。
「アリア?」
眠い目をこすりながら柚子が部屋から出てきた。
「ああ、ごめん起こしてしまったか」
「どうかしたの?」
「別になんでもない。目が覚めてしまって。寒くて眠れなくなっただけ」
ウイスキーを一口飲んでから、居間のソファに座った。
「それ、ストレート?」
「そのほうが眠れそうで」
アリアはグラスを持った手で眉間を押さえた。
「止めなよ、そんなにお酒に強くないんでしょ?」
柚子が隣に座って心配そうにアリアの顔を覗き込んだ。
「前はすぐ眠れたのに。この不安な気持ちは何だろう」
柚子の優しく見つめる瞳に包み込まれるような安らぎを感じ、酔いも手伝ってか、アリアはつい弱音を吐いてしまった。
「不安?」
「そう、今までにない落ち着いた毎日に慣れてしまったからかな」
「どういう意味?」
そう問われて、アリアは少しためらったが、気がつくと、自分のことを話し始めていた。
「ずっと、安らげる家というものに無縁の生活だった。……物心ついたときから両親は私の存在を否定しているようで、私はずっと一人だった。私は誰からも必要とされてないと感じていた」
「私はてっきりアリアって何不自由なく過ごしてきたんだと……」
「どうして? そんなふうに見えた?」
「なんとなく」
柚子が口ごもった。
「……そんな中でヒロだけが私を支えてくれた。母が離婚後、私を連れて家を出たけれど酷い生活で……ヒロが私を母のところから連れ出してくれて一緒に生活するようになり、やっと精神的に安定できた。でも、ヒロは突然いなくなって暫く帰らないことがよくあって」
「何処へ行っちゃうの?」
「多分、女の人のところ。そんな時は、もう私は必要なくなって置き去りにされたのか、私が何か気に障ることをしたからではないかと自分をよく責めていた」
「ヒロって酷い」
「ヒロは悪くない。私が勝手に頼っているだけだから。最近は別々に住んでいるし。でも、そんな生活に戻りそうで怖い。ヒロの顔色を伺って振り回される生活。……変なことを話したね。聞いてくれて有難う。少し気持ちが落ち着いた。柚子といると、なんていうか……休まる」
アリアは一気に話し、照れくさくなったのをごまかすように笑った。
今までヒロ以外に心を許したことはない。だが、柚子に見つめられると穏やかな気分になった。それは丁度、教会の神父に懺悔を聞いてもらうような感覚に似ていた。
不思議な存在の柚子。彼女はアリアにとって特別な存在になりつつあった。
「実は……Dに柚子のことを警戒しろと言われていて当たり障りのないこと以外話さないようにしていた」
柚子の反応を見ながら、アリアは少し話しづらそうに打ち明けた。
「それで今まで無口だったのね」
「……柚子のこと話してくれないかな」
「アリアみたいに打ち明けるような過去はないわ」
「私に近づいたのには何か目的があるんでしょ?」
「だから、お弟子さんにしてって言ったじゃない」
「ほんとにそれだけ? ヒロが多分、柚子のことを調べている」
「何を?」
柚子の顔が一瞬険しくなった。
「まだ聞いていないからよくは分からないけれど」
アリアはウイスキーを一口飲んだ。
柚子は足元に目を落とし寂しそうに「そっか」と呟いた。やはりヒロが言うように、何か目的がありそうだ。
「悪い娘じゃないよね、少なくとも私はそう思っている」
時期が来たら柚子はきっと打ち明けてくれる。そう信じてアリアはそれ以上深く問いたださなかった。
「ありがとう。でもそんなに簡単に人を信じちゃだめ」
柚子はくすっと笑ってアリアを見た。
「何がおかしいの?」
「だって、そんなこと言われると思っていなかったから、嫌われているのかなって」
「ごめん、誤解させたね」
「やさしいね、アリアは。あの……ヒロとは縁を切ったほうが良いよ」
「なに? 柚子まで」
「他の誰かにも言われたことあるの?」
「昇に言われた」
「探偵に? 相当アリアにまいってるのね」
「そんなんじゃない」
アリアは慌てて否定した。
「ふうん、あの二人に女だって言ったら?」
「別にどっちでも良いじゃない」
「きっと、十無と昇には重大なことだと思うけれど」
柚子はニヤニヤしている。
「からかわないで」
「ほんとのことだもん」
「そんなの、別に重大なことじゃない……」
アリアは自分の動揺している気持ちを悟られまいと、残りのウイスキーを飲み干した。
結局、二人は朝方近くまでたわいのないことを話しこみ、いつの間にかそのままソファに座ったまま眠りについたのだった。
「ア、アリア、お前達何を……」
翌朝、いつものように昇が来たのだが、二人がソファで互いに寄りかかったまま眠っているのを見て、その場に立ち尽くした。
「あれっ、昇?」
アリアは昇の声で飛び起きて慌ててサングラスをした。
「ああ、おはよう昇。今日はまだ朝食を作っていないの」
欠伸をしながら立ち上がって柚子がだるそうに言った。
「お前、高校生と……」
「あーっ! 昇、今やらしーこと想像したでしょ」
柚子は昇に近づき、じっと顔を覗き込んでニヤニヤした。
「いや、その」
昇はしどろもどろだ。柚子は昇のそばに行き、アリアには聞こえないように耳元で囁いた。
「でも、アリアとだったら私は別にかまわないけれどね」
「馬鹿を言うな!」
昇は動揺したのか声が大きくなった。
柚子が余計なおせっかいをしたのではと思ったアリアは、「なにを言った?」と、柚子を睨んだのだが、柚子はアリアに意味ありげにウインクをして、今度はアリアに近づいて耳打ちした。
「わざと玄関の鍵を開けておいたの」
「どうして?」
「昇がどんな反応をするのかアリアに見せてあげようかなーと思って。これで分かったでしょ」
「何が?」
「鈍いわねー」
「おまえら随分仲が良いな」
昇は面白くなさそうだ。
「そうかな?」と、アリアと柚子は口を揃えて言った。