パンジー
目を覚ますと庭からはパンジーの香りがした。
私は同居人のパンセの煙草の吸殻を片付け、脱ぎ散らかった彼女の下着を一通り洗濯機に入れた。
彼女は3時間以上前にオフィスに向かっているらしく、私は急いで昨日作った温泉卵を割って殻に乗せ、キスをするように中身をすすった。
洗面所の鏡を見て口のまわりの白身をティッシュで拭きとり顔を洗った。
鏡を見ると特徴的と良く言われる垂れた目に細い眉、小さい鼻と膨れた下唇がいつものように映った。
化粧はしなくてよいとパンセからはよく言われる。
私は特にその理由を聞かなかったし、他人がしなくてよいと言うのだからする必要がないと感じた。
顔の水分をタオルでよく拭き取り衣装掛けから紺色のダッフルコートと淡い水色のネルシャツを取り素早く着た。
私は履いていたスウェットパンツを脱いでタンスから出したストッキングに足を通し先日パンセから貰った赤と白のボーダーが入ったスカートを履いた。
私が着る服は大半が彼女からの貰いものであった。
彼女は三日に一度のペースで服を買い、すぐに飽きると私に渡した。
私は家の中の一通りの電気系統のスイッチをオフにし家を出た。
車はパンセが乗っていったようで庭の駐車場にはなかった。
オフィスには電車で行くことにした。
オフィスは都内の中心部に位置しており最寄駅からだと約40分はかかる。
私は最寄駅まで冬の準備をすすめる風景を横目に歩いた。
高級住宅街を抜けすでに葉が落ちた木々が園内の主役のように感じる公園に入る。
人影のない公園は悲壮が漂いぽつんとサッカーボールをリフティングをしている少年が暗い風景をより濃いものにしていた。
少年は青いアディダスのシューズでボールを浮かし落とすことなく非常にシステマッチックにボールを操っていた。
足の甲や側面や踵の使い方が機械的に美しく私は急いでいた足を止めしばらく少年に見入った。
私は人間が行う無機質で機械的な動作が美しいと感じとても好きだった。
そのきっかけとなったのは小学校の時に見たパンセが出場した極真空手の大会である。
極真空手は防具を使用せず顔面への打撃など急所への攻撃以外はたいてい認められていた。
パンセは恐らく(私の記憶が正しければ)空手を習ったりはしていなかったし他の格闘技の経験も無いはずだったが彼女はその大会で優勝をした。
しかも彼女はすべての試合を一本勝ちで優勝した。
両手を前に出し直立するだけの彼女の構えは素人目から見てもとても空手からかけ離れたものを感じた。
試合時間の大半を彼女はその構えとも呼べない体勢で相手を眺めていた。
相手が少しでも間合いに入ると鋭利な前蹴りを飛ばし相手との距離を調整して彼女は自分の空間を守った。
試合中の彼女は日が差した中庭のバルコニーで砂糖の濃いコーヒーを飲みながら午後の休憩をとっている淑女のようだった。
労働からは退き家を支える身になり、午前中で大半の家事を終わらせる。
午後は趣味のガーデニングやエアロビクスに没頭し少し疲れると海外の庭園のように洗練された庭を眺めながらときおり吹く風の声に耳を傾け、庭の植物から発せられる揺らぎを感じながらゆっくりと過ぎる時間を過ごす。
淑女は優雅さで余暇をより濃いものへ例えとして適切かどうかはわからないがウローン茶に焼酎を徐々に注ぎ足していき濃い目のウーロンハイを作るバーの店員のように濃密な余暇を作っていく。
濃密な余暇。
淑女に与えられた命題はある程度の余暇をいかにして濃密にしていくかにある。
今日の彼女たち(淑女たち)の余暇の過ごし方は他人に評価されるべきものでなければ自分自身が今日の余暇の過ごし方はちょっとした庭の栽培を失敗したから点数にして70点ぐらいの過ごし方をしただのと評価をするものではない。
淑女にとっての重要な事柄は余暇を濃密にすることの作業工程にある。
結果は重要ではない。むしろ過程や方法がより重要とされる。
決められた時間をいかにして工夫を施し洗練されているものにしていくか。また決められた時間の中で自分達の新しい余暇の過ごし方を輝かしい宝石を鉱山から発掘するように見つけていくかということにあり彼女たちは遠い昔から同じベクトルでそれにあたっている。
重要視する点を見失うことなく彼女たちは広い意義での余暇の過ごし方について研究しその濃さを増すよう努力を続けている。
試合中のパンセを見ていると彼女にとっての試合は動揺や緊張とはかけはなれた安息の時間で空間として普段の生活の中となんら変りないように感じた。
彼女は過程に比重を置き勝利とはかけ離れたものを目指していた。
すべての試合の終盤に彼女は瞬間移動したように間合いを詰め体を畳に沈みこますようにして低い姿勢から上段蹴りを放った。
この日は6試合彼女は闘ったのだが6試合とも同じ動作で間合いを詰め上段蹴りを放っていた。
まるで同じビデオを繰り返し再生するように彼女は同じ動作を無機質に数ミリの狂いも無く同じ上段蹴りを相手の側頭部に当てた。
彼女の上段蹴りは初動から足をふり終わらすまで全ての呼吸や間合いが統率され事細かに足の振り方、角度が決まっていた。
まるで彼女が上段蹴りを作成しているかのように非常にシステマチックで機械的な動作だった。
そしてなにより、彼女とアディダスの青いシューズを履いた少年と共通している事項は二つあり一つ目は二人とも無表情で動作を行うことであった。
二人とも感情がなく作業的でなおかつ無感動である。
リフティングが100回続くことや相手をKOすることは二人にとって非常にどうでもいいことであり
それはその動作や競技が目指すものと逆行している。
他愛もないことをただひたすらと感情をこめず興味を持たず続けている。
二人のことを見ている人間は色の無い光景が延々とスライドショーされているように感じ彼女たちにある意味で興味を持ち共通した感情でもう一度彼女たちを見たいと思うようになる。
そしてもう一つ共通しているのは二人とも同じ動作を反復的に行っているということであった。
すなわちそれはミスが無い完璧な事柄の進め方であった。
二人は無理に自分のフォームや体の使い方(腰の捻り、足の角度、顔の向き、体全体における力の入れ方)を変えることなく変動のないパフォーマンスを演出し続けた。
決して変わることのない決められた動きは二人の筋肉に電子パネルが埋め込まれておりどこかでそれを操作する人間がいると言われても不思議さを感じないぐらいだった。
二人は精密な動作を繰り返し続けた。
誰の評価を気にすることなく自分の慣れ親しんだ空間で精密動作という名の一線を越えたダンスを踊りつづけた。
アディダスの青いシューズを履いた少年は結局私が彼を眺めている間ボールを地面に落とさなかった。
無表情にそして無機質な色の公園で坦々とボールを浮かし続けた。
私はまたこのリフティングを見に来ようとこの公園を訪れようと思った。
公園を後にし北西からの冷えた風が吹きつけてきたので私は少し足早に駅を目指した。
最後に少年の青いアディダスのシューズの紐が彼の動きと風により大きく舞い上がるようにほどけていったのを確認した。