第55話 「外壁際の惨劇」
風が街に吹いてきている。そんなのは今までに無かった。
セロンは気になり、街の外壁が見える方向を見上げる。
「風の壁が消えてる……」
つい、独り言が漏れてしまう。
セロンの目線の先、街の外で、陽が出ている時は存在した風壁がきれいさっぱり見当たらなかった。そして、吹いて来る自然な風からは、ざわめくような唸り声と血生臭いにおいが運ばれて来ていた。
嫌な予感がする。
セロンは、確認しておかなければいけない、という気持ちから、再び外壁に向かって走り出した。もう日が沈みかけていて黄昏時を迎えている。すでに宿舎に帰らなければならない時間帯だが、セロンの脚は止まらなかった。
一気に外壁の方まで突き進んで行く。次第に、唸り声や血生臭さも強くなってくる。
外壁まで辿り着くと、外に出るための階段がある大通りまで、壁沿いを走って行く。外壁は、外側から見ると、黒い土壁がむき出しなのが明らかだが、内側から見ると、灰色の石垣になっていた。外壁の裏から、無数の獣の気配を感じる。威嚇の声や爪が硬いものに触れる鈍い音、荒い息遣いも聞こえてくる。
セロンは、石階段まで辿り着くと、そこから慎重に階段を登り始める。一段、また一段と階段を上がっていき、壁の上部に達すると、セロンは思はず息を飲んだ。
目の前に広がる光景は無数の猛獣の群れだった。狼種から、ハイエナ種、大型の猫種やクマ種まで入り乱れている。互いを傷つけることなどお構いなしに、黒い土壁に押し寄せてきている。ひと際多く群がっている中心には、爛れて腐敗色になった肉塊が、錆びた鎖によって、土壁に括りつけられていた。
セロンは、顔を顰めて、不快感を示した。肉の腐った匂いと獣臭さが鼻につき、吐き気を催してくる。
一体、これは何をやっているのか。何故、猛獣たちを外壁に呼び寄せているのか意味が分からなかった。とにかく臭く、汚らしかった。自分の手前の壁元を見ると、石の階段は、一段一段取り外され、すぐ横に投げ出されていた。どうやら、街の中に入ってこないようにしているらしかった。
ふと、目線を前の方に向ける。森と手前の平地の間付近に複数の人影が見えた。背を向けて対峙しているのは、長クロークと仮面後ろの覆い布が視認できることから、グロウ族だと分かった。そしてその対面に対峙している人影を見た時、セロンは、あっと声を漏らし、目を見開いていた。
対峙していた者達は、治安維持部隊だった。
壁近辺で猛獣が盛んに舌鼓を打っているというのに、両者は、突っ立って対話をしている風に見えた。セロンは、この事態を早くあっくんに伝えないと、と思い、足を運びかけた。ふと、遠くの外壁の上部に人が立っているのが目に入った。セロンは、よく目を凝らして見た。白竜であるセロンは、人よりもずっと遠くまで子細に見通せるのである。
壁の縁に立っていたのは、平民だと分かった。平民の男性が、細長い棒状の物を壁元に向けている。セロンは良く見ようとするあまり、引き寄せられるように、足が動いた。外壁は、街を取り囲むように円形になっているため、遠くなればなるほど、屈曲し、壁の外側は隠れて見えなくなる。セロンは、その男性が立っている壁元が見える位置まで行きたいと思った。しかし、壁元が見えた瞬間、反応的に身を固くして立ち止まる。
男性は、細長い棒のようなもので、炎を噴射し、壁元にいる猛獣を攻撃していたのである。猛獣は、炎に包まれると焦げ爛れ、息絶えている。それでも、溢れんばかりの猛獣は、焼かれた死体に食らいつき、壁元に固定された、人の成りをした肉塊にかぶりつこうとしている。男性は、その上から、次々と炎を浴びせ、無慈悲に猛獣を丸焼きにしていく。焦げ臭いにおいが鼻に刺さる。一体これは何事なのかと、セロンは、当惑した。
そして、猛獣の一体が黒土の外壁に倒れ込んだ時だった。セロンは、目を疑うような光景を目の当たりにした。
猛獣の死体が土壁に飲み込まれてく。頭から背中、胴体、足、尻尾と順にゆっくりとまるで底なし沼に沈んでいくように、吸い込まれていく。セロンは、奇怪な現象に恐れおののき、身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
さらに追い打ちをかけるように、状況は急転する。森林際の木立の影から、明らかに規模の違う躯体の獣が姿を露にした。全身がどす黒く、四肢が黄ばみがかった、赤爪のクマ型獣である。
そのクマは、開けた外壁前の土地まで来て、立ち止まると、壁の上にいる男性を凝視した。
胸の奥がざわつくのを感じた。
セロンは危険知らせようと声を張り上げた。しかし、それと同時に、鋭利な岩塊が男性目掛けて撃たれる。男性は気づくのが遅れた。岩塊に胸を貫かれ、勢いのまま、壁下の道に吹き飛ぶ。血しぶきが、宙を舞い、沈みかけの陽に照らされる。
戦慄が走った。同時に、本能的な危機感を感じた。咄嗟に、セロンは、背を向けて走り出した。
怖い。
クマの死角になる位置まで必死に逃げる。
恐ろしい。
クマが見えなくなる位置まで外壁を駆け抜けていく。
セロンは、惨めな気持ちになった。心底自分は弱く、情けない竜だと思い知らされた。白竜なのに、たとえ魔法を使える魔獣であったとしても、クマごときに臆した。尻尾を巻いて逃げたのである。
街の中に行く階段まで辿り着き、走るのをやめて、ゆっくりと歩き出す。息を整えて、気持ちを落ち着かせようとした。少し経つと、緊張は和らいだ。しかし、後を追って、心の底から湧きだすように、ひどい虚無感と罪悪感が押し寄せてきた。
僕は目の前で人が殺されようとしているのに何もできなかった。何もできない能無しだった。それに、ランデールを懲らしめると宣言しておきながら、いざ、自分よりも強いと感じる者を前にすると、足が竦んで、立ち向かえなかった。やっぱり、僕は、白竜の落ちこぼれなのかもしれない。
セロンは泣きそうになりながら、階段を降りた。胸が押しつぶされそうになる。
「あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝!」
突然、影から野太い悲鳴が聞こえて来る。セロンは身が強張った。
感情がぐちゃぐちゃになった。先から立て続けに起こる出来事に頭の理解が追い付かない。また、誰かが、危険な目にあっている。
助けに行ってもどうせ、自分じゃあ、どうすることもできないと怖気づいた。相手を見たら、また怖くて逃げだしてしまうと。だけど、心の底では、それではいけないと、分かっていた。また、逃げるのかと自問自答していた。
やるべきことは分かっていた。たとえ、力が無くても、強くなくても、立ち向かわないと後悔する。
逃げたらだめだ。逃げたらだめだ。
セロンは勇気を振り絞った。
人を助ける為に、悲鳴が聞こえた方へ、走り出して行った。




