第35話 「妹ムムルとの約束」
少年は今に至るまで呪縛となっていた過去を、ようやく鮮明に思い出した。
***
山の麓、緑あふれる農村に少年は厄介になっていた。そこは大規模な畑や果樹園が殆どを占めている村だった。
「おまえが悪いんだよ。早く謝って返しに行きなさい」
マーサおばさんは厳しい声で少年をしかりつけた。顔は丸くひょうたんのようで、大きな茶色の目がしわしわの瞼の下で鋭く光っていた。少年はふんぞり返って、全く従おうとしない。
悪いとは思っていなかった。村の住民が育てているおひさまピーチは今が収穫の時期で、陽光のような黄色い桃が沢山生るのである。それを見たら、一つくらい盗ってもいいだろうと思えてくるし、いままでも、こっそり盗って食べていた。なんせ、それで困る村の人々は誰もいなかった。
「俺が取ったんだから俺の物だ」
「それは奪ったっていうんだよ。泥棒なの」
おばさんはがみがみとしかってくる。妹のムムルはその様子を傍で静かに見ていた。
言い争いは、どちらも折れずしばらく続いた。そうこうしていると村の建物群の方から一人の中年女性が歩いて来た。おひさまピーチを育てている村人だった。少年は叱責されると思い、顔を逸らした。けれど、かけてきた言葉は温かいものだった。
「おひさまピーチが食べたいのなら、私が少しゆずりましょうか?」
「えっ、いいんですか?」
マーサおばさんは、驚いて訊き返した。
「はい、少し余ってるので。それに、以前にも収穫時など助けていただいてるので」
「だったら貰うぜ」
少年はしめたとという表情で反応した。
「こら、そこはありがとうございますでしょ」
おばさんはしかりつけるように強くたしなめた。
「何だよそれ」
「いいから、言いなさい」
マーサおばさんがそう言うと、皆少年が口を開くのを待っていた。少年は逃れられない場の空気になって、渋々(しぶしぶ)ぎこちなく呟いた。
「……ありがとう」
しかめっ面だった。それでもピーチの女性は気を悪くすることなく返してきた。
「いえいえ」
ピーチの女性は踵を返して家に戻った後、数十個のおひさまピーチを持ってきてくれた。
「いいかい、『ありがとう』の気持ちを忘れちゃいけないよ」
マーサおばさんは少年と妹に言い聞かせるように話し始めた。
「人がその気持ちを忘れてしまった時、この世界でどんなに利を貪って生きようとも勿体ない人生になるんだよ。どんなに裕福であっても、そうでななくても、感謝という意思は普遍的で尊い価値なんだから」
「へいへい。なんだよ、世界って……大袈裟だな」
少年は面倒くさそうに受け流した。ところがムムルは大きな関心を寄せて聞いていた。ただ二人ともマーサおばさんが言った話の意味は理解していなかった。
ようやく説教が終わると、ピーチの女性が持って来てくれたおひさまピーチを編みザルから掴み取った。
「ほら、ムムル」
少年は傍にいた妹に一つ手渡した。
「お兄ちゃん、ありがとう」
妹はニコッとして感謝した。
「お、おう」
少年は照れ臭そうに答える。
それからというもの、二人は感謝の言葉を当たり前のように使い始めた。
そしてそれは『ありがとう』が馴染んできた頃だった。少年は家の中でムムルの衣服を修復し、新しい畑用の案山子作りをしていた。マーサおばさんの手伝いである。
「お兄ちゃん、持ってきたよ」
ムムルの手には、案山子の材料となる一束の藁が携えられていた。衣服を縫合していた少年は、振り向いて答えた。
「ありがとう、ムムル」
ムムルのおかげで少年も自然と口からお礼を言えるようになっていた。ムムルは傍らまで藁を運び、邪魔にならない場所に置いてから口を開いた。
「お兄ちゃんも、服直してくれてありがとう」
「ああ」
少年は穏やかに答えた。ムムルは横に座って、覗き込むように黙って眺めていたが、出し抜けに言い出した。
「お兄ちゃん、どんなことがあっても『ありがとう』の気持ちは忘れないようにしようね」
満面の笑みだった。少年は突然の提案に面食らった。マーサおばさんの言う通りにするのに不満があり、気が進まなかったがムムルの笑顔に負けてしまった。
「そうだな」
少年は照れ臭そうに答える。
「約束だよ」
「約束だ」
*
妹と約束した過去の会話を完全に思い出した。少年は思いとどまり、盗みをやめた。かわりに、役所の正面口から出て来た精悍な部隊の男にある者の行方を訊いた。
「白い小さい……竜? 何処かで見ませんでした?」
ここまで歩いて来ても、見かけなかったので気になった。少年にとっては真っ先に感謝を伝えておきたかった。
「ああ、彼なら今頃この街を発ってるかもしれないな」
それを聞いた少年は気持ちが落ち着かなくなった。急がないと会えないかもしれない。命の恩人なのに感謝を伝えられていない。たまらず、少年はムムルの方を見て告げた。
「人探し……竜探してくるから家で待っててくれないか」
「私もいくよ。その人……竜? にしっかりありがとうって伝えないと」
少年はムムルと一緒に白い竜を探しに駆けだした。
焚火通りの外門や、気まぐれ市場の外門の辺りを走り回って探した。周辺の外も見てみた。しかし白い小さな竜はいなかった。街の大きな通りにも市場にもいなかった。あれだけ、唐突に幾度となく目の前に現れていた竜だったのに、いざ自分から会おうとすると中々見つけられなかった。焦った少年は最後に一度も通った記憶がない、上位地区の門の方へと急いで向かった。
するとようやく、外門の内側に白い小さな竜を見つけた。
「ちょっと待ってくれ!」
息を切らしながら声の限り叫んだ。白い小さな竜は気づいて振り向く。
少年はやっとの思いで会うことが出来た。ムムルも息を切らしながら追いついてきた。




