台所の水【夏のホラー2025】
【台所の水】ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
八月の夜。湿った熱気に眠れず、律子は小さな水音に目を覚ました。
台所の蛇口から、「ちょろ、ちょろ」と水が落ちている。寝る前に固く閉めたはずなのに。
喉が渇いて仕方がなかった。
冷蔵庫は空。ペットボトルもない。仕方なく、ガラスのコップを取り、暗闇の中で水を注ぐ。
――冷たいはずの水面に、黒い髪の毛が漂っている。
気づかなかったふりをして、律子は渇きに負け、口へと運んだ。
水は舌の上で生温かく蠢いた。
「舌だ」
確かに水の中で、誰かの舌が彼女の舌に絡みついてきた。
鉄錆と泥の味が喉を焼き、吐き出そうとしても、喉は勝手に飲み込んでしまう。
腹の奥で冷たい何かが広がり、律子の体の内側に根を張った。
翌朝、鏡に映ったのは律子ではなかった。
裂けた口元から黒い水が滴り、鏡の奥では知らない女が同じ笑みを浮かべている。
夜ごと水音は止まらない。
台所の床には裸足の濡れた足跡が続き、律子の背後でぬめる呼吸が重なった。
そして律子はもう律子ではなくなった。
◆
……ここまで読んだあなたへ。
今、あなたの部屋の静けさに耳を澄ませてほしい。
空調の音、外の虫の声、その合間に「ちょろ、ちょろ」という音が混じってはいないか。
それは、あなたの台所から聞こえている。
そして、もっとよく耳を澄ませてみてほしい。
――呼吸の音が聞こえないか。
自分のものではない、湿った吐息が背後から重なってはいないか。
振り向きたいだろう。だが、振り向いてはいけない。
そこにいる。
もう、あなたの真後ろに。
どうしてわかるのかって?
今、この文章を読み進める指先を、誰かがじっと見ているからだ。
◆
喉が渇くだろう。今、もう渇いているはずだ。
冷蔵庫に飲み物がなければ、あなたは必ず立ち上がる。
廊下を歩き、暗い台所へ向かう。蛇口の下で水が待っている。
水面に映る顔は、あなたではない。
それが笑った瞬間――舌が押し込まれる。
そして次に鏡を覗いた時、笑っているのはもう「あなた」ではない。
この物語を最後まで読んでしまった時点で、もう遅い。
水音は必ず聞こえる。
背後には必ず吐息がある。
あなたは必ず台所へ行き――そして、あの女に振り向かされる。
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