表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

台所の水【夏のホラー2025】

作者: 江渡由太郎
掲載日:2025/08/20

【台所の水】ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 八月の夜。湿った熱気に眠れず、律子は小さな水音に目を覚ました。

 台所の蛇口から、「ちょろ、ちょろ」と水が落ちている。寝る前に固く閉めたはずなのに。


 喉が渇いて仕方がなかった。

 冷蔵庫は空。ペットボトルもない。仕方なく、ガラスのコップを取り、暗闇の中で水を注ぐ。


 ――冷たいはずの水面に、黒い髪の毛が漂っている。

 気づかなかったふりをして、律子は渇きに負け、口へと運んだ。


 水は舌の上で生温かく蠢いた。

 「舌だ」

 確かに水の中で、誰かの舌が彼女の舌に絡みついてきた。

 鉄錆と泥の味が喉を焼き、吐き出そうとしても、喉は勝手に飲み込んでしまう。

 腹の奥で冷たい何かが広がり、律子の体の内側に根を張った。


 翌朝、鏡に映ったのは律子ではなかった。

 裂けた口元から黒い水が滴り、鏡の奥では知らない女が同じ笑みを浮かべている。


 夜ごと水音は止まらない。

 台所の床には裸足の濡れた足跡が続き、律子の背後でぬめる呼吸が重なった。

 そして律子はもう律子ではなくなった。






 ……ここまで読んだあなたへ。

 今、あなたの部屋の静けさに耳を澄ませてほしい。

 空調の音、外の虫の声、その合間に「ちょろ、ちょろ」という音が混じってはいないか。

 それは、あなたの台所から聞こえている。


 そして、もっとよく耳を澄ませてみてほしい。

 ――呼吸の音が聞こえないか。

 自分のものではない、湿った吐息が背後から重なってはいないか。


 振り向きたいだろう。だが、振り向いてはいけない。

 そこにいる。

 もう、あなたの真後ろに。


 どうしてわかるのかって?

 今、この文章を読み進める指先を、誰かがじっと見ているからだ。





 喉が渇くだろう。今、もう渇いているはずだ。

 冷蔵庫に飲み物がなければ、あなたは必ず立ち上がる。

 廊下を歩き、暗い台所へ向かう。蛇口の下で水が待っている。


 水面に映る顔は、あなたではない。

 それが笑った瞬間――舌が押し込まれる。

 そして次に鏡を覗いた時、笑っているのはもう「あなた」ではない。





この物語を最後まで読んでしまった時点で、もう遅い。

水音は必ず聞こえる。

背後には必ず吐息がある。

あなたは必ず台所へ行き――そして、あの女に振り向かされる。




#短編ホラー小説

#ホラー小説

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ