嫌われ姫の最後の願いは、ただあなたの明日を守ることでした
王国評議会の議場は、勝利の熱気と不吉な静寂という、相容れない二つの空気に支配されていた。
壁に掲げられたタペストリーには、長きにわたる隣国との戦争を終結させた英雄、カイン・エル・クローバー第二王子の勇姿が描かれている。民衆の歓声はいまだ王都の空にこだましているようだったが、この議場に集う貴族たちの表情は硬く、その視線はただ一人、玉座の脇に立つ黒衣の姫へと注がれていた。
リゼット・エル・クローバー。この国の第一王女でありながら、「沈黙の魔女姫」と忌み嫌われる存在。
その弟であり、今や王国の太陽となったカインが、姉を敬うどころか憎しみを込めた瞳で壇上から彼女を睨みつけていた。
「姉上! あなたの裏切りは、もはや見過ごすことはできません!」
カインの声は若々しい張りを持ちながらも、怒りに震えていた。議場は水を打ったように静まり返り、彼の言葉だけが冷たい石壁に反響する。
「あなたは自らの呪われた力で、この私の魔力を吸い取り続けてきただけでなく、あろうことか、先の戦争で敵国の将軍にまで力を分け与えた! 我が国を裏切るその邪悪な力は、もはや王国に留めておくことは許されないのです!」
告発は、衝撃的だった。誰もが知る「魔女姫」の悪評が、国の英雄によって公に証明された瞬間だった。
リゼットの隣、婚約者として常に彼女の監視役を担ってきたレオニス・アシュフォード侯爵令息が、冷ややかに最後通告を突きつける。
「姫殿下。もはや弁解の余地はありませんな」
主君であるカインへの忠誠心と、長年抱いてきたリゼットへの嫌悪感が、彼の言葉を氷のように冷たくしていた。
しかし、糾弾されるリゼットは、いつもと何一つ変わらなかった。漆黒のドレスに身を包み、血の気のない白い顔は表情に乏しく、その黒曜石のような瞳は何の感情も映し出さない。ただ静かに、怒りに燃える弟と、軽蔑を隠さない婚約者を見つめている。
その沈黙が、彼らをさらに苛立たせた。
「やはり罪を認めているのだな! この国を裏切る魔女め!」
カインは激情のままに叫んだ。彼は信じて疑わなかった。この姉は、生まれながらにして邪悪な存在なのだと。自分の輝かしい才能を妬み、その力を奪おうとする、嫉妬に狂った魔女なのだと。
玉座の父王は、苦渋に満ちた顔でゆっくりと立ち上がった。彼の目には、息子への誇りと、娘への失望が色濃く浮かんでいる。
「リゼット…。お前を王籍から剥奪し、北の辺境にある『忘れられた谷』の修道院へ、永久幽閉とすることを命ずる」
それは、死刑に次ぐ最も重い罰だった。
リゼットは、宣告を聞いてもなお、表情を変えなかった。ただ一度だけ、その視線が揺らぎ、悲しげな色を帯びてレオニスの顔を捉えた。まるで何かを訴えかけるかのように。しかし、レオニスは冷たくその視線を逸らした。
次の瞬間、リゼットはいつもの「沈黙の魔女姫」に戻っていた。彼女は静かに、完璧な礼法で父王と評議会に一礼すると、音もなく踵を返した。衛兵に連れられ、義浄の重い扉へと向かうその小さな背中は、誰の目にも罪人のそれとして映った。
扉が閉まる直前、彼女が吐息よりも小さな声で、誰にともなく呟いた言葉を、誰も聞き取ることはできなかった。
「これで……よかった」
それは、まるで長年の重荷を下ろしたかのような、不思議な安堵を帯びた呟きだった。
扉が閉ざされると、議場は安堵の空気に満ちた。王国の厄介払いが済んだのだ。カインは英雄としての威光をさらに増し、レオニスは主君の脅威を取り除いた忠臣として評価されるだろう。誰もがそう信じていた。
リゼットという存在が、実はこの王国の、そして彼ら自身の生命を支える最後の楔であったことなど、まだ誰も知る由もなかったのである。
*
リゼットが王宮を去り、季節が一度巡った頃、王国には奇妙な不協和音が響き始めていた。
「魔女姫」という忌むべき存在がいなくなり、国は光に満ち、平和になるはずだった。しかし、現実はまるで違っていた。その変化は、王国の希望の象徴であるはずのカイン王子、彼自身から始まったのだ。
最初は些細な体調不良だった。「少し疲れが溜まっているようだ」と、誰もが英雄の激務を労った。だが、症状は日を追うごとに悪化していく。カインは些細なことで激しく消耗し、かつては意のままに操れた膨大な魔力が、まるで彼の意志に反するかのように暴走を始めたのだ。
「一体どうなっているんだ…!」
カインの執務室で、彼の指先から放たれた魔力の奔流が燭台を爆発させ、黒い煤が壁を汚した。レオニスが慌てて駆け寄ると、カインはぜいぜいと肩で息をし、その額には冷たい汗がびっしりと浮かんでいた。
「力が…、力が抑えられない…。まるで身体の内側から食い破られそうだ…」
そんな現象は日に日に頻度を増していった。彼の周囲では、理由もなく床が凍てついたり、飾られた花が一瞬で枯れたりといった不可解な出来事が頻発し、宮廷内には不穏な噂が囁かれ始めた。「カイン王子もまた、姉姫と同じ呪いにかかっているのではないか」と。
レオニスは、日に日に衰弱していく主君の姿に、焦りと共に、心の奥底で育ちつつある一つの疑念に苛まれていた。
――リゼット姫がいた頃は、こんなことはなかった。
どれほどカイン王子が無茶な魔力の使い方をしても、どれほど大きな戦いで消耗しても、彼は必ず翌日には全快していた。まるで夜の間に、誰かが彼の傷ついた魔力を丁寧に修復しているかのように。
しかし、リゼットがいなくなってから、カインの回復力は見る影もなくなった。一度消耗すれば、何日も寝込むことさえある。まるで、彼の力を常に支え、安定させていた「何か」が、根こそぎ失われてしまったかのようだった。
そんな折、レオニスの元へ一通の奇妙な手紙が届けられた。差出人は、先の戦争で敵対していた隣国の将軍、グレイヴ・フォン・シュタイン。カイン王子が最も憎んでいた男だ。
レオニスは警戒しながら封を切った。しかし、そこに書かれていたのは、敵意ではなく、不可解な感謝の言葉だった。
『カイン殿下へ。貴姉君の広大なる慈悲に、心より感謝申し上げる。我が息子は生まれつき魔力が暴走する病に苦しんでいたが、戦場で相まみえた姫君が、その苦しみを自らの御身に引き受けてくださったおかげで、一命を取り留めた。貴姉君と直接言葉を交わしたのは、あの戦場の混乱の中、ただ一度きり。にもかかわらず、彼女は我が息子の命を救ってくださった。この御恩は生涯忘れぬ』
レオニスの頭は混乱した。
リゼットが、敵将の息子を救った? 国を裏切ったのではなく? そして、戦場で一度会っただけで、どうやってそんな奇跡を起こしたというのだ。将軍の手紙は、彼女がまるで聖女であったかのように語っている。自分たちが断罪した、あの「沈黙の魔女姫」を。
矛盾。拭いきれない違和感。
レオニスは、まるでパズルのピースが一つ、とんでもない場所に嵌っているような感覚に襲われた。彼は答えを求め、ほとんど無意識のうちに、王宮の最も古く、忘れ去られた場所へと足を運んでいた。
地下書庫。
そこは、王国の禁書や、歴史の闇に葬られた古文書を保管する場所だ。埃と古いインクの匂いが立ち込める薄暗い空間で、レオニスを迎えたのは、痩せこけた老書庫番、エルリックだった。彼は何百年もこの場所にいるかのような静けさをたたえ、レオニスの訪問を予期していたかのように、動揺する様子も見せなかった。
「…姫殿下のことで、何かお探しかな、アシュフォード侯爵令息」
「なぜそれを…」
「わしは長年、この書庫で言葉の裏に隠された真実だけを見てきた。あんたの顔には、真実を知りたいと願う者の渇きが見える」
エルリックはそう言うと、震える手で棚の奥から一冊の古びた革張りの書物を取り出した。それは錠がかけられていたが、老人は慣れた手つきで鍵を開け、レオニスに差し出した。
「姫殿下の母親…先代の王妃様が残された日記じゃ。姫殿下が真にどんなお方であったか、その答えがここにあるやもしれん」
レオニスはごくりと唾を飲み込み、その日記を受け取った。羊皮紙は黄ばみ、インクは掠れていたが、そこに記された女性らしい優雅な筆跡は、紛れもなく先代の王妃のものであった。
ページを開いた瞬間、レオニスの心臓は、これから明かされるであろう真実への予感と恐怖に、大きく脈打った。
*
地下書庫の微かな灯りが、古びた日記のページを震えるように照らし出す。レオニスは息を詰め、埃っぽい空気と共に、インクに込められた母の愛と悲しみを吸い込んだ。
『王国歴八百十二年、春。私の愛しいリゼットが、五歳の誕生日を迎えた。しかし、神はこの子にあまりにも過酷な祝福をお与えになった…』
日記の冒頭から、レオニスの心臓は冷たい手で掴まれたかのように収縮した。祝福? 人々はリゼットの力を「呪い」と呼んだはずだ。
ページをめくる指が震える。そこに綴られていたのは、彼らが知る「魔女姫」とは全く異なる、少女の悲痛な物語だった。
『この子の能力は、他者の才能を吸い取るのではない。真逆です。この子は、魔力に愛されすぎた者を、その破滅の運命から救うための存在。溢れ出し、持ち主の命すら焼き尽くす「過剰な魔力」を、自らの器に移し替えることができるのです。しかし、その代償は…あまりにも、あまりにも大きい…』
王妃のインクには、涙の染みがいくつも滲んでいた。
『あの子は、愛する者を救うたびに、自らの言葉を失っていく。魔力を受け入れるたびに、全身を針で刺すような激痛が走るのです。言葉を発すること自体が、その痛みを増幅させる。あの子の沈黙は、苦痛に耐える悲鳴なのです…』
*
レオニスはハッとした。無口で冷たいと思っていたリゼット。彼女が稀に言葉を発する時、その眉間に微かな皺が寄るのを、彼は何度も見てきた。彼はそれを不機嫌の印だと決めつけていた。だが、あれは…。
日記は続く。
『カインが生まれ、その比類なき才能が明らかになった時、私の喜びは恐怖に変わった。あの子は天才すぎる。その小さな身体には、いずれ制御しきれなくなるほどの魔力が渦巻いている。医師たちは、カインは十歳を迎える前に魔力暴走で自滅するだろうと告げました…』
『その予言通り、カインが三歳の時、最初の発作が起きた。高熱に浮かされ、部屋中の物を吹き飛ばし、命の灯火が消えかけようとしたその時…リゼットが、まだ七歳のあの子が、震えるカインの手にそっと触れたのです。カインの魔力の嵐は嘘のように静まり、穏やかな寝息を立て始めた。しかし、その代償に、リゼットは三日三晩、激痛に叫び続け、それ以来、めったに笑わなくなってしまいました…』
レオニスの脳裏に、幼い頃の記憶が鮮烈に蘇る。やんちゃだったカイン王子が原因不明の高熱を出しては、数日後には何事もなかったかのように回復する。その度に、姉であるリゼット姫は決まって自室に引きこもり、「体調が優れない」という理由で誰とも会わなかった。
大人たちはそれを「気難しく、病弱な姫君」と噂した。レオニスも、カインも、そう信じて疑わなかった。だが、真実は全く違ったのだ。
『あの子の黒いドレスは、魔力を吸収する際に肌に現れる醜い痣を隠すためのものです。冷たい表情は、愛する弟に心配をかけまいとする、痛ましいほどの優しさから生まれた仮面なのです。ああ、神よ、なぜあの子がこれほどの苦しみを背負わなければならないのですか…』
日記のページは、母親の嘆きで埋め尽くされていた。幼いカインを守るため、リゼットはたった一人で秘密を抱え、痛みに耐え、周囲からの誤解に心を閉ざしていった。そして王妃が病で亡くなった後、その秘密を知る者はごくわずかとなり、彼女は完全に孤立した「魔女姫」となったのだ。
敵国の将軍の件も、これで全て繋がった。
将軍の息子を救ったのではない。あの将軍自身が、息子を救うために戦場で自らの命を犠牲にする禁術を使おうとしていたのだ。それを察知したリゼットは、禁術が発動すれば世界そのものに甚大な被害が及ぶことを危惧し、そして何より、息子のために命を投げ出そうとする一人の父親の愛に心を動かされ、自らの命を削ることを選んだのだ。
彼女は国を裏切ったのではない。誰にも知られず、たった一人で世界を救ったのだ。
「ああ……ああ……ッ!」
レオニスはその場に崩れ落ちた。膝が床の冷たい石に打ち付けられ、鈍い痛みが走ったが、心の痛みに比べれば無に等しかった。
自分が監視し、軽蔑し、嫌悪してきた「魔女姫」は、誰よりも深く、誰よりも優しい心を持った聖女だった。彼女の沈黙は耐え難い苦痛の表れであり、その冷たい仮面の下には、愛する者たちを傷つけまいとする悲痛なほどの自己犠牲の精神が隠されていた。
そして自分は。
婚約者として、誰よりも彼女の近くにいた自分が、その痛みに、その優しさに、何一つ気づいてやれなかった。それどころか、他の誰よりも鋭い言葉で彼女を傷つけ、最後には断罪の片棒を担いでしまった。
後悔が、黒い津波のように彼の全身を飲み込んでいく。なぜ、なぜ気づいてやれなかったのだ。彼女が時折見せる、あの寂しげな瞳の奥にあったSOSに。
議場を去る間際、彼女が自分に向けたあの悲しげな視線。あれは、別れの挨拶だったのだ。自分たちの未来を守るために、自らを犠牲にすることを決めた、最後の…。
「リゼット…っ! すまない…本当に…すまなかった…!」
レオニスの嗚咽は、誰にも届かない地下書庫の静寂の中に、虚しく吸い込まれていった。
レオニスは、涙で濡れた日記を握りしめ、狂ったように地下書庫から駆け出した。埃を巻き上げ、松明の明かりが揺れる。彼の頭の中は、たった一つの想いで満たされていた。
――謝らなければ。そして、彼女を連れ戻さなければ。
血の気の引いた顔でカインの執務室に転がり込むと、彼はちょうど魔力の暴走に苦しみ、侍医たちの看護を受けているところだった。レオニスは侍医たちを下がらせ、震える声で主君にすべてを告げた。先代王妃の日記に記された、痛ましいほどの真実を。
初めは信じられないといった表情で聞いていたカインだったが、レオニスの言葉が進むにつれて、その顔から血の気が引いていく。自分が生きているのは、姉の犠牲の上になりたっているという事実。自分が英雄として賞賛されるその裏で、姉が一人、誤解と激痛に耐え続けてきたという現実。
そして、自分がその姉に返してきたのは、長年にわたる嫌悪と、最後には裏切り者としての烙印だった。
「…う…ああ…ああああああッ!」
全てを理解した時、カインは子供のように声を上げて泣き崩れた。それは英雄の涙ではなく、犯した罪の重さに打ちひしがれる、ただの愚かな弟の慟哭だった。自分の存在そのものが、愛する姉を苦しめ続けてきたのだ。その事実に、彼の心は粉々に砕け散った。
罪の意識が、二人を突き動かした。
「行くぞ、レオニス!」
「はっ!」
彼らはもはや一刻の猶予もないと、王宮を飛び出した。時は冬。北の辺境はすでに深い雪に閉ざされているはずだ。それでも彼らは、ただ謝罪したい一心で、凍てつく嵐の中を馬でひた走った。
馬上で揺られながら、レオニスの脳裏にはリゼットとの過去の光景が走馬灯のように駆け巡った。
彼女の沈黙を、彼は傲慢さだと決めつけていた。しかし、今ならわかる。彼女は話せなかったのだ。
それでも、彼女はいつも、レオニスが何かを手伝った後や、気遣いの言葉をかけた後、決まって彼のそばに来て、痛みに耐えながらも唇を動かした。
『…りが…とう…』
か細く、途切れ途切れの、ほとんど音にならない感謝の言葉。それが彼女にとって、どれほどの苦痛を伴う行為だったのか。そして、どれほどの勇気を振り絞って彼に伝えようとしてくれたのか。
それに気づかず、自分はいつも冷たい返事をしていた。「結構です」と。
「…っぐ…!」
胸が張り裂けそうだった。涙が凍てつく風に乗り、頬を切りつける。たとえ赦されなくとも、もう一度会って、伝えなければならない。君は一人ではなかったのだと。
何日も走り続け、ぼろぼろになった二人が「忘れられた谷」の修道院にたどり着いた時、世界は音を失ったかのように静まり返っていた。
古い木造の修道院の一室。質素なベッドの上で、リゼットは静かに横たわっていた。彼女の身体は驚くほどに痩せ細り、かつては隠されていた黒いドレスの下から覗く肌は、魔力を受け入れた代償である醜い痣に覆い尽くされていた。もはや彼女は、言葉を発する力さえ残されていないようだった。
しかし、彼女は生きていた。
レオニスとカインの姿を認めると、その虚ろだった黒曜石の瞳に、最後の光が灯った。そして、彼女は最後の力を振り絞り、唇の端にかすかな笑みを浮かべたのだ。
「姉上…っ!」
カインはベッドの脇に崩れ落ち、ただ泣きじゃくることしかできなかった。
レオニスは震える足で彼女に歩み寄り、その冷たい手を取った。その手は、かつての記憶よりもずっと小さく、か弱く感じられた。
「リゼット…すまなかった…。私が…私が間違っていた…」
嗚咽が言葉を遮る。リゼットは弱々しく首を横に振ると、おもむろに彼の手を握り返した。力はほとんど入っていなかったが、その温もりは確かにレオニスに伝わった。
それは、声にならない「赦し」だった。あなたは悪くない、と。
彼女は満足そうに弟を見つめ、そして愛おしむようにレオニスを見つめた。
まるで、二人の未来を祝福するかのように。
そして、ふっと息を吐くと、彼女は静かに目を閉じた。
その最後の表情は、信じられないほどに穏やかで、美しかった。長年の苦しみから解放された聖女の、安らかな眠りだった。
*
あれから、十年が経った。
カインは、姉の遺志を継ぐように、賢王として国を治めていた。リゼットが命がけで安定させた彼の魔力は、二度と暴走することはなく、国と民を守るために正しく使われた。
レオニスは、宰相としてその傍らに立ち、生涯を国政に捧げた。彼が誰かと愛を語らうことは、二度となかった。
物語の終わり。雪解けの季節。
レオニスは王宮の片隅、陽当たりの良い場所に建てられたリゼットの小さな墓標の前に一人、立っていた。そこには、彼女が唯一好きだと言っていた白いスノードロップの花が、いつも誰ともなく手向けられている。
「リゼット…。見ていてくれるか。君が命を賭して守ってくれたこの国で、僕たちは…カイン陛下は、立派に明日を紡いでいる」
彼はそっと、冷たい大理石の墓標に触れた。まるで、あの日の彼女の手に触れるかのように。
「君の痛みも、その深い優しさも、僕たちは決して忘れない。……いつか、僕も君の元へ行く時が来たら、今度こそ、君が本当に伝えたかった言葉を、聞かせてほしい。君の声で…」
彼の頬を、一筋の温かい涙が伝った。
それは後悔の涙ではなく、彼女が生きた証を胸に刻み、これからも生きていくという誓いの涙だった。
空は青く澄み渡り、世界はリゼットが守った「明日」を、静かに、そして美しく映し出していた。