9 パンデミック
看護師からの連絡を受けて、輝彦は午前中の患者をまだ残したまま東病棟へと走った。
ニキビが爆発——だと?
何の話だ?
「患者の容態は? 意識はあるのか?」
輝彦はエレベーターを降りたところで待ち受けていた看護師に聞いた。
「ベッドに座っています。呆然とした感じで‥‥。意識はありますが、反応はさらに鈍くなっています。」
イープスの患者は総じて精神の働きが鈍くなってくるという症状が見られるようだった。従順になる、というか、子どもみたいになる、というか。
初め4人ほどの患者だった頃、輝彦はそれを患者の性格だと思っていたが、どうやら「症状」であるらしかった。
輝彦が病室に入ると、看護師が言ったように宮迫純恋はぼんやりした表情でベッドに座っていた。
傍らにスマホが投げ出され、その上にだらりと放り出された患者の手の指が引っかかっている。
スマホの画面は黒い。
「宮迫さん?」
輝彦が声をかけると、患者はゆっくりと照彦の方を見た。
「あ、せんせー‥‥。」
その顔のあちこちに妙な吹き出物があり、その先端がはじけたようにめくれ上がっている。
めくれた吹き出物の内部は気味の悪い紫色をしていた。
「なんだ、これは?」
「他の患者は? 同様の症状は出ていないのか?」
輝彦はふり向いて看護師を見る。
「ま‥‥まだ確認していません。」
輝彦は立ち上がり、隣の病室へと向かった。
病室を回って他の患者も確認すると、全ての患者の患部周辺で同じことが起きているようだった。
そうして確認して回る途中で、輝彦はある恐ろしい可能性に気づいた。
まさか‥‥。
検査部の飯沼結衣は自分の血液を採取して、その中にこの菌糸の切れ端を入れて顕微鏡で観察するということをやっていた。
その結果、この菌糸こそがイープスの病原体である可能性があると指摘したのだ。血液の中で、菌糸は一切の免疫細胞の攻撃を受けなかった——と。
まさか‥‥‥!
輝彦はイープス患者の診察を途中で切り上げ、ナースステーションに戻ると院内線の受話器を手に取った。
内線番号を押す。
言うべきか?
一瞬迷ったが、すぐに意を決した。
間違っていたら、責任を取ればいい。
いや間違っていてほしい!
「東館全体の空調を直ちに切ってくれ! 空気感染の恐れのある細菌が放出された!」
あれが‥‥。
あの菌糸が病原体だ。あれは何らかの方法で人間の免疫を無化している。
あの吹き出物は、その子実体=キノコに違いない。
そして‥‥。
破裂して煙のようなものが出た——というならば‥‥。
すでに胞子はまき散らされたということだ。
手遅れか?
自分も、スタッフも‥‥?
ビル管理の担当者に「細菌」と言ったのは、「胞子」と言ってもすぐには理解されないと思ったからだ。
輝彦は続いて院長室の内線番号を押した。
初め、木見田院長は理解できないようだった。
2度目の説明でようやく事態を理解した院長の指令で、東病棟は閉鎖された。
皮膚科の午前中の残りの診療は、緊急事態のためできなくなったことをアナウンスしてもらった。
「我々は、ここから出るわけにはいかなくなった。皆さんには申し訳ないが、他の誰とも接触することは許されない。」
輝彦は腹の奥底からこみ上げてくる恐怖と闘いながら、東棟のスタッフにそう宣言した。
若い看護師が泣き出した。
「全員ただちにうがいをして目を洗い、着衣ごとシャワーを浴びてください! 胞子の発芽前に洗い落とせれば、最悪の事態は避けられるかもしれません。」
全員が、わっとシャワー室へと走った。
それを見送りながら、輝彦は顔を歪める。
吸い込んだものはどうなるんだ?