7 イープス
原種の選び方が間違っていたかもしれない。
これほど急速に変化して、リスクが増大するとは。想定外だった。
一度リセットした方がいいのではないか。
いやいや、それは惜しくはないか。
= = = = =
6時限目が終わると瑠奈のおなかが「きゅうぅ」と鳴いた。
「お弁当、食べそびれたもんねー。ごめんね、啓介まで付き合わせちゃって。」
啓介も苦笑いする。腹が減り過ぎて、逆に減ったかどうかわからなくなっている。
「屋上、行こうか? 今ならたぶん暑くもないし、誰もいないよ。」
「そだね。」
屋上は予想したとおり、誰もいなかった。
西に傾いた陽が、東屋の長い影をビオトープに落としている。
シジミチョウだろうか、2匹の蝶が草の上をひらひらと舞っていた。
ここにある草も、人間に取り憑くようなことがあるんだろうか?
ふとそんなことを考えながら、啓介は昼に食べ損ねた弁当に箸をつける。
「美味いな。瑠奈の作る弁当は‥‥。」
瑠奈が口をもぐもぐさせながら、目だけで弱々しい笑顔を見せた。
「ありがと。おなか減ってるからでしょ。」
「食べ終わったら、純恋に連絡してみる。おばさんたち、直接病院に行くかもしれないもん。そうだったら、お菓子、病院のロビーに持ってった方がいいよね?」
「そうだな。そこで話が聞ければ、その方が‥‥」
瑠奈がその件を純恋にメッセージで送ると、純恋からもすぐに返信が来た。
『うん お母さんもお父さんも来る ここ10時までいてもいいから』
そのあとスタンプが1つ送られてきて、それからまた言葉のメッセージが続いた。
『お菓子 期待してる!』
クスッと瑠奈が笑った。
それから10日間ほどの間は、特に新しい展開もなかった。
イープスの患者は全国で数百人が確認されたということだったが、それ以上は増えることもなかった。
海外でも多くの患者が確認されたが、日本と同じく増えることも減ることもなかった。死亡例もない。
とりあえず、抗生物質で根の成長は止められるということはわかったので、現時点ではそれが唯一の治療法ということだった。
ただ、抗生物質は使い続けると、危険もある。しかし、止めれば根が伸び始める。
現時点では、進行を遅らせることしかできないらしかった。
ニュースでは詳しいことはわからないが、医療現場は混乱しているようだった。
なぜ、この病気は突然現れたのか? 感染するのか、しないのか?
原因も何もわからないまま時間だけが過ぎてゆく。
そんな中、病院にも行かず、草の伸びる様子を生中継してフォロワー数を稼いでいたユーチューバーが拘束され、強制入院させられるという事件も起きた。
ニュース番組やバラエティに呼ばれた専門家は、異口同音に起こり得ないことが起きていると言うだけだった。
唯一新しい情報は、根のように見えたものは生えている植物の根ではなく、それに絡みついた菌糸だった——ということがわかったくらいだ。
血管内にステントを入れる技術を応用して根本のところで根を切断、除去しようという手術を試みた病院があったのだ。根本を一定程度除去してしまえばその先の根は死ぬだろう、という考えに基づくものだった。
取り出した「根」の生検の結果、それが植物の根ではなく根に絡みついた菌糸であることがわかったというのだ。
松茸などがそうだが、植物の根と菌糸が共生状態にあるという例は多いという。
菌糸から切断された植物は枯れたが、患者の体内に残った菌糸の方はそのまま生き続けた。
この菌糸が病原体なのではないか? という疑いが出てきたとテレビで専門家は話していた。
「しかし、それらに対してなぜ人体の免疫作用が働かないのか‥‥。」
瑠奈は毎日、純恋とビデオ通話している。
純恋の顔に蔓延った根は、頭蓋骨の中にまでは侵入していないということだった。
「変わりないよー。元気だよー。毎日看護師さんが草取りにくるだけー。畑かよ!って、あはは。たいくつー。ゲーム、コンプリートしちゃったしー。がっこ行きたいなー。」
一緒に聞いている啓介にもこれはわかった。
「おかしいよ、あの子。子どもみたいになってる‥‥。」
通話を切ってから瑠奈が涙目で言った。
いくらなんでも、純恋は高校生なのだ。以前はあんな話し方ではなかったし、もう少し自己主張の強いところのある子だった。
しかし、MRIの画像では根(菌糸)は脳には達していないという。
そんなある日だった。ニュースでとんでもない映像が流れたのは。
それは、WHOの職員がアフリカの内陸部で撮影したというものだった。
一見、それはただの点在する「藪」に見えた。
しかし、その茂みの中に人の顔があるのだ。手や足らしきものも見えた。
しかも驚くことに、雑多な植物の苗床のようになった人体は、しかし死んではいなかったのだ。表情は乏しいが、その目はゆっくりと動いてカメラや人の動きを追っている。
動画は一気にNETの中に拡散した。
* * *
「何だ、これは?」
輝彦はニュース映像の動画に釘付けになった。
午前の診察中に看護師が慌ただしく情報を伝えにきて、輝彦も次の患者を待たせたままスマホを取り出して電源を入れた。
普段なら絶対にしない行動だ。
テレビが備え付けてある待合ロビーでは、ちょっとした騒ぎになっているという。
それは、アフリカ内陸部の村でWHOの調査隊によって撮影された映像だということだった。
一見すると、人っ子ひとりいない村の中に藪が点在しているように見えた。しかし、その藪の1つひとつの中に、人の顔や手足が見える。
しかも彼らは、死んではいなかった。
地面に向かって根が生えて動けなくはなっているが、ぎょろりぎょろりとゆっくり目が動いて、調査隊の動きを追っている。
「これは! イープスの患者なのか?」
ニュースの解説では、多少の会話ができる患者もいたという。
画面の隅に映る調査隊のメンバーは、白い防護服を着ていた。
「‥‥ってことは、感染するのか? やっぱり‥‥」
その点についてのWHOの発表はまだない。