52 みどりなる森
「ただいま。」
啓介はそう言って、瑠奈の体をブナの幹ごと抱きしめた。
瑠奈も両腕を啓介の背中に回してくる。
「おかえりなさい。」
それから啓介の胸に埋めていた顔を上げ、啓介の目を見る。
「カッコよかったよ。」
瑠奈は病院の前庭に根付いていた感染者たちの目を通して、啓介の活躍を見ていた。彼らの口を通して、自衛隊の動きを啓介に伝えていた。
「啓介が無事に帰ってきてくれて、よかった。」
「まだこれからだよ。自衛隊はあれだけじゃないだろう。」
「ううん。たぶん、もう大丈夫。」
「?」
「総理を名乗ってこの作戦を指示した佐藤という男が、感染した。こっち側に来たんだよ。」
目を見開いた啓介に、瑠奈が笑顔で説明する。
「百合葉さんがやったんだ。あの人も遊走子だったんだよ。」
「そんなやつでも受け入れるのか、森は——。」
そんなやつとは佐藤のことだ。感染した——ということは‥‥。
「本人の脳が拒絶しなければ——。イープスは人体の神経と接続するんだ。脳が拒絶しちゃうと、栄養を送ることができなくなるから、結果としてその脳は死んじゃうけど。‥‥で、そうなると死んじゃった脳や体は、イープス菌の栄養になるだけ。」
「なんだか扱いが極端だな。」
啓介は苦笑いする。
「そう? 普通のことだよ? 生命としては——。」
瑠奈はイープスとつながってから、知識も意識も飛躍的に拡大したようだった。
「須々木原先生が言ってた。人類はイープスという共生者を得て、個々の脳から『群脳』へと進化したんだって——。これまで以上にいい形で文明を築いてゆける知的生命体になるだろう、って。」
「瑠奈も、その群脳の1つになったわけか‥‥。」
瑠奈が微笑む。
「なかなか悪くないよ。メッセンジャーでない他の人たちはわたしみたいに外と話すのは難しいみたいだけど、自我が消えるわけじゃないんだ。純恋も渡辺くんたちも、みんないるよ。」
啓介がふと寂しそうな顔をする。
「俺は、そっちに入れないんだな。」
瑠奈の腕に力が入って、啓介をぎゅっと抱きしめる。
「ごめんね。新しい知的生命体には、どうしても遊走子が必要なの。文明を技術や形にするためには、自由に動ける動物としての人間が——。」
瑠奈は啓介の顔を両手ではさんで、まっすぐに啓介の顔を見た。
「啓介が会いに来てさえくれれば、わたしはずっとここにいるよ。啓介の奥さんにだってなれる。子どもだって産める。——ってか、啓介の子ども、産みたいな。」
瑠奈が少しだけ頬を染めた。
いや‥‥それは‥‥。
「筒抜けなんだろ? イープスを通して‥‥。」
「恥ずかしいことじゃないよ? 生物なら‥‥っていうか、生物の最も基本的な営みだもの。」
やっぱり少し、意識が変わっている。
「啓介が恥ずかしいなら、伝達は絞り込むことが可能だから‥‥。」
* * *
吾朗は病院の庭に座っていた。
なぜ、治療を受けず、ここに出てこようと思ったのか——。自分の気持ちがよくわからない。
患者の藪を焼き続けた罪の償いのつもりだったのか‥‥。もっと他の何かだったのか‥‥。
ただ、自分の体から植物が生えて育つにつれ、いいしれぬ感動の波に何度も涙がこぼれた。
あんな酷いことをしたのに‥‥。
こんな俺なのに‥‥。
森は受け入れてくれるんだ‥‥‥。
* * *
「人間はイープスで森とつながったけど‥‥森に吸収されてしまうわけじゃない。それは森の木々が種を超えて溶け合ってしまうわけではないのと同じ。——って、これも須々木原先生の受け売り。」
そう言って瑠奈は、ちろっとかわいく舌を出して笑った。
「須々木原先生はこんなふうにも言ってた。」
言ってた——というのは、どうやら考えたことをイープスネットワークの中で発信してたということらしい。
ここでの人間の脳は、情報の発信も受信もそれなりにコントロールはできるらしいのだ。
「地球生命が人類という知的生命体を生み出したのは、いずれ宇宙に出ていくためだ——って。森はそのことを期待したのだけれど、人類が余計な破壊活動の方にそのエネルギーの多くを割いてしまったために今回のことが起こったんだって。」
地球生命が宇宙へ出る。
それは地球生命が他の惑星に生命の種子を飛ばす——ということらしい。
地球の環境もいつまでも生命に適したものであり続けるわけではない。いずれ、地球も生命の住めない星になるだろう。
森はそのことに備えようとしている。
生命とは、生き延びることを目的としたシステムだ。
「その方法は大きく3通りあるだろう。って先生は言ってた。」
1つはアミノ酸として小さな岩石などにくっついて宇宙空間を彷徨っていくこと。
2つ目は結晶化できるウイルスや、小さく単純な生命体として相応しい環境にたどり着くまでスリープして漂っていくこと。
そして3つ目が、丈夫な外骨格の中に地球型の環境ごと多様な生命種を包み込んで、意図を持って新天地を探しにいくこと。つまり、宇宙船の建造だ。
「森は人類にこの3つ目の可能性を期待してたの。」
人類の脳は、森のネットワークに取り込まれた。
そのことによって地球生命の思考はさらに速く、さらに深くなるだろう。
しかし宇宙船を建造するには、技術を持ち、手を使ってモノを作り上げることのできる動物——高い知能を持った遊走子が必要だ。
それが、啓介のような存在を残した理由。
「先生はこんなふうに言ってた。——森と人類は、イープスを介して新たな知的生命体へと進化した。我々は新たな智をもって、生命の本来の期待に応えるべきだ——。 って。」
その須々木原先生を啓介が訪ねてみると、先生は自宅の庭のデッキチェアに座って立て髪のような緑に覆われていた。
「やあ、双葉くん。大活躍だったね。」
話し方は少しゆっくりだったがそう言って微笑んだ先生は、まるでゲームの中の森の王のような風情だった。
先生もまたメッセンジャーなのかもしれない。
人新世が終わって、新たな生命史が始まる。
了
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
*参考文献:スザンヌ・シマード著『マザーツリー』




