50 森の戦士
百合葉は焦っていた。
最も連絡がとりたい理科医大病院の長田医師に連絡がつかない。
蟾蜍はすでに言いなりだったが、佐藤総理を説得するためのデータが足りない。マウスの血清の作り方の細部が、今ひとつわからないのだ。
あの百合葉の捨て身の行動で、スタッフたちは8割がたが感染していた。
抗生物質で進行を遅らせていても、感染したスタッフたちのパフォーマンスは徐々に落ちてきている。
ただでさえ人手が足りないのに、このままではついてきてくれたスタッフたちも守れなくなってしまう。
百合葉は焦っていた。
不思議なことに最も窓に近いところにいた百合葉は感染しなかった。その後ろめたさが、百合葉の焦りをさらに大きくしている。
早く血清治療を実現しなくては——。
「葵。もう一度‥‥」
長田への催促を頼もうと資料室の扉を開けて、百合葉は言葉を呑んだ。
菅野葵がいない。
手洗いか? と一瞬思ったが、それならハンカチなどの入った手持ちのバッグを持っていくはずだ。
そもそも、マスクも机の上に置いてある。
百合葉は嫌な感じがした。
スタッフが仕事をしている会議室に戻ってみたが、そこにもいない。
「あお‥‥菅野を見てないか?」
「みーてーないーですー。」
おかしい。どこへ行った?
何気なく窓の外を眺め下ろして、百合葉は驚愕した。
向かいの日比谷公園に葵らしき人影が見える。
間違いなく、葵だ。
何か大きな木にもたれかかるように立っている。遠目に見てもマスクをしているようには見えない。
「何をやってるんだ、あいつ?」
百合葉はマスクとゴーグルを着けてエレベーターで1階に下り、須々木原先生指導による原始的だが効果的な防除室を通ってビルの外へと飛び出した。
車の全く通らなくなった301号線を駆け抜けて横断する。
その先の椋の古木の幹に、葵はもたれかかるように立っていた。
マスクもしていない。
その頬や首から、若緑色の植物が生え始めていた。
「何やってるんだ? 葵! いつ感染したんだ?」
肩をつかもうとした百合葉を葵は片手を伸ばして制止した。
微笑んでいる。
「引きちぎっちゃダメ! わたしはメッセンジャー。あなたは遊走子なのよ。そんなマスク取っちゃって。あなたは感染しない。」
「なんだって?」
「佐藤を排除して。今、それに必要な情報をあなたに伝達するから。」
* * *
手製の爆弾は、啓介の指示で様々な形になった。
「これはモンロー効果を期待したものです。」
「あの歴史的ヒロインが何か関係があるのかい?」
鈴木さんが変な顔で聞いてくる。
「関係ありませんよ。」
と啓介が笑う。
「チャールズ・モンローという科学者が19世紀に発見した爆発の効果で、炸裂に方向性を持たせることができます。散弾銃みたいな感じですね。」
そんな雑談を交わしながら、双葉圭介は病院の周囲のあちこちにトラップと爆弾を仕掛けてゆく。
鈴木から見ると、そんなとこ踏む奴はいないだろう、と思うような場所に踏むと近くの爆弾が破裂するような仕掛けを施していた。
駐車場もイープスの藪が点在し、それらが張り巡らせた根で今やボコボコになっている。
たしかに、そういう場所は車では走りにくいし、仕掛けも目立たなく作りやすい。
ただ、こんな素人みたいな手作り罠に、プロの自衛隊員が引っかかるのだろうか——と鈴木には思えて仕方がなかった。
トラップの仕掛けは双葉啓介がひとりでやると言うので、邪魔にならないよう鈴木たちは途中から病院の室内に入ってそこからこの少年の作業を眺めていた。
少年は時々、イープスの薮になった患者と何かを話しているような様子もあった。
全ての仕掛けが終わったのは、西の空の夕焼けが茜色を失い始める頃になった。
「お疲れさん。1人に全部やらせてすまないな。」
鈴木が啓介にそんな声をかける。
それにしても、この少年は短時間の間にどこで何を知ったというのだろう?
「君がマスクなしで感染しないというのは‥‥」
「そういう遺伝子なんだそうです。」
「え? 遺伝子‥‥?」
「僕は今日は外で寝ます。」
「え?」
「イープスの茂みを通じて自衛隊の動きを把握しておきたいんです。彼らは見ていて、そして連絡を取り合っています。」
「え? どういうこと? 彼らって、薮になったイープス患者のことか?」
そう聞いた長田先生に、啓介は軽く微笑んでみせた。
「詳しくは、戦いが終わってから話します。今は自衛隊にこれ以上の殺戮をさせないように、備えないと‥‥。」
双葉圭介は寝袋を1つ持って外へ出ていった。
長田と鈴木が窓から見ると、少年はイープスの茂みの1つに抱かれるようにして寝袋にくるまろうとしている。




