42 机上の知識
須々木原のスマホに、樹神父娘が感染した——と生徒の双葉くんから連絡が入ったのは、手に入りにくくなったマスクを自前で作る工夫を考えていた時だった。
『食料を届けることができなくなるかもしれません』
メールの文面はそれだけの短いもので、しかも、どこかで迷子になっていたのかサーバーの不具合か、日付は2日前のものだった。
あの子が‥‥?
と須々木原はその顔を思い浮かべる。
いつも前向きで、須々木原にこの状況下での社会との関わりを持つように背中を推してくれたのもあの子だった。
あの子が‥‥
感染した‥‥?
藪になってしまうのか?
須々木原は自分がなぜこんなにもショックを受けているのか、しばらく理解できないでいた。
床にぺたんと座り込んだまま、ぼーっと宙空を眺めている。
やがてその意味が、少しずつ言葉になってくる。
俺は、子どもの頃から知識欲ばかりが旺盛だった。
友達と遊ぶより、虫や植物を観察し、その知識を増やすことにばかり興味がいっていた。
かといって、研究者になるにはひとつ事に集中できず、興味の対象は常に移り変わっていく。向いていない。
知りたい。
という欲求ばかりが次から次へと湧き上がってきて、人や社会と関わるのが煩わしかった。
そんな俺にとっては、担任を持たない理科の高校教師という立場はうってつけで、居心地のいい場所でもあったんだろう。
そこから出ようという気が全く起きなかった。
そんなある種の引きこもり状態の中で、イープス災禍は起こった。
俺を、高校の理科教師という場所から一歩踏み出した場所に連れ出してくれたのが、樹神瑠奈という生徒だった。
あの子たちは、俺の知識が必要だと言ってくれた。
本気で言ってくれたのだ。
俺はたぶん、それが嬉しかったんだ。
俺は‥‥本当は‥‥人と関わりたかった‥‥。たぶん‥‥。
誰かに、この蓄えてきた知識を‥‥必要だと言ってほしかったんだ。
その、人との、社会との関わりの窓口が‥‥樹神さんであり、双葉くんだった‥‥。
その1人、樹神瑠奈さんが‥‥お父さんもろとも、植物界に行ってしまった‥‥。
須々木原はのろのろと立ち上がった。
食料を‥‥。自分で入手しなければならない‥‥。
猫の額ほどの庭に出てみる。
ずっと手入れをしていないので、草が生え放題に生えていた。
食料になるような草はほとんどない。近くにそんなものが手に入りそうな緑地も思い当たらなかった。
主食だって、ない。
栽培法は知っていても、モトとなる種籾も芋もない。
食べるものはスーパーで買っていて、イープス禍が始まってからは樹神さんたちにほとんど頼っていた。
自分で病院まで取りに行かなければならないが‥‥。車のガソリンはどのくらい残っている?
今でもガソリンを入れられるガソリンスタンドは‥‥どこにある‥‥?
何も、わからない。
今を、生きるための知識が‥‥ない。
「ははは‥‥‥」
須々木原の喉から力のない笑いが漏れた。
俺には‥‥俺の知識には‥‥‥
それを利用して、生き生きと活動してくれる誰かが必要だったんだ‥‥。
須々木原の顔に小さな緑色の何かが生えたのは、それからわずか2日後のことだった。
「早くなっているな。」
須々木原はポツリとつぶやく。
「真菌類でも、こんなに早く変異株が現れるものなのか?」
ふと庭に出てみたくなり、須々木原はテラスのサッシをからりと開けた。
マスクをつける必要も、もうない。
久しぶりの陽光が心地よかった。
長らく利用したことのない鋳鉄製のデッキチェアに腰を下ろす。
光合成が始まっても‥‥ハラは減るのかな‥‥?




