40 人道
反撃に出てくるかもしれない。
想定済みだ。被害はさほど大きくはないだろう。
駆除するかどうかについては慎重に検討したのだ。
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百合葉が予想したとおり、その日の午後には新しい厚労大臣が庁舎にやってきた。
「厚労大臣に任命されました蟾蜍貞道と申します。」
名前とは裏腹に秀麗な顔つきをしている。
しゅっとした瓜実の小顔に長いまつ毛の細い目を持ち、鼻筋は高く、掛け値なしのイケメンと言っていい。
ただ、その薄い唇と目の中の光だけが酷薄な印象を与える。
肩幅は広く筋肉質の体つきで、いかにも自衛隊で鍛えられたという感じだ。
それだけである種の威圧感があり、男性にとっては劣等感を抱かせ、女性にとってはある種のアピールがあるように思えた。
「これまで厳しい中での公務、ご苦労様です。この先も非常事態は続きますが、皆さんと共に国家のために乗り切っていく所存ですので、よろしくお願いします。」
挨拶としては一応、型どおりだ。
威丈高には出てきていない。
が、スタッフたちの視線は冷たい。‥‥というより、敵意をはらんでいる。
「百合葉くんもこれまでご苦労様でした。以後は、私付きということでいろいろサポートをお願いしたい。」
それはつまり、自分の管理下に置いて一切の権限を持たせない——という意味だ。
「さて、ここまでの報告と引き継ぎを受けましょう。」
そう言って蟾蜍は窓側の椅子を無造作に引いて座り、足を組んだ。筋肉質の体が逆光になって、黒々と威圧感を増す。
対面する椅子を手で示して、百合葉に座るよう促した。
百合葉は椅子の背もたれに手をかけたが、座らない。
新しい大臣に遠慮しているようにも見える。
「感染拡大の防止に関しては、一定の効果のある方法が確立しつつあります。」
「ああ、入り口にあったあのちゃちな布のことかね?」
「ちゃちに見えるかもしれませんが、あれが胞子を屋内に持ち込ませない最も効果的な方法です。それで庁舎内ではマスクが必要ないのです。」
「ふむ。確かにその効果はありそうだ。しかしあれは、屋内に胞子を持ち込まない単なる防御策だ。感染拡大防止の方策はどうなっているのかね?」
「民間では治療法の研究も進んでいます。」
「ほう。どのような?」
「まだ厚労省として推奨できるような段階ではありませんが。安全性に問題があって‥‥死亡するケースもありますので。」
蟾蜍はじろりと百合葉を睨んだ。
「総理にはそれを報告したのかね?」
「聞かれませんでしたので。総理は患者を焼き殺すことに執着しておられましたので。」
百合葉の目に初めて怒りの炎が見えた。
「患者は、人間ですよ?」
「しかし胞子を放出する。」
「それの拡散を防ぐ方法もあります。」
蟾蜍は哀れなものを見るような目つきをした。
「管理できればな。患者は自分で管理することができない。管理できる健常者はどのくらい残っている? 管理しなければならない患者数は? 数字を把握しているのかね?」
百合葉は言い淀んだ。
数字など、把握できる状況ではない。
「君が言っているのは観念的な理想論だ。青臭い。現実を見たまえ。健常者の数が一定規模を下回ってしまえば、国家機能は維持できなくなる。我々はイープスの侵略に屈することになるのだ。」
「あなたの親兄弟が感染していても同じことが言えるのですか?」
後ろで職員の1人が声を上げた。
蟾蜍は、その声の主をハエでも見るような目つきで見る。
「政府の方針は感染拡大の防止だ。厚労省は感染していない健常者を守るためにデータをそろえることを第一業務とする。リソースは限られているのだ。
従えないなら、どうぞここから出ていってください。仕事をする気のない人間は必要ない。ただし、解雇する人間に政府の備品である防護服とマスクは渡せない。そのまま出ていっていただく。」
誰も動けない。
佐藤を中心とする防衛族一派は、あくまでも『国民』は非感染者のみ——と決めてかかっている。
感染者は駆除する。という方針に則ってのみデータをそろえよというのだ。
もし感染すれば、それは『国民』ではなくなることを意味する。
「あなた方には人道という概念がないのか? 患者も同じ人間として救おうという考えは全くないのか?」
百合葉が低く静かに言った。敬語を全く使っていない。
蟾蜍の顔から薄ら笑いが消えた。
「青臭いな。青臭いが、君は解雇しない。ここにいてもらう。」
百合葉を野に放ってしまえば人を束ねて動かしてしまいかねない、と危惧しているのであろう。
逆にいえば、敬語を使わなかった百合葉の意思と覚悟をその程度——と見くびったのだろう。蟾蜍は百合葉の次の行動を全く予想できていなかった。
百合葉は言葉では応じなかった。
手元の椅子を持って振り上げたのだ。
蟾蜍はとっさに腕を上げて防御の姿勢をとった。
このあたりは、さすがに自衛隊で訓練された男である。
が、百合葉が椅子を振り下ろしたのは蟾蜍に対してではなく、すぐ脇の窓ガラスに対してだった。
ガシャン!
とガラスが割れ、外の風がびゅうと吹き込んできた。
「なにを‥‥?」
「これで‥‥」
百合葉が狂気を孕んだ目で蟾蜍を見る。
「誰もが感染するリスクを負った。」
蟾蜍の秀麗な顔がひきつった。
この男は‥‥、百合葉が椅子に手をかけて立ったままでいたのは、最初からこれをやる気だったのか?
正気じゃない!
「さあ大臣、あなたも焼き殺されますか?」




