38 閣議決定
ピロン。
小さな音で、百合葉は目覚めた。
隣に素肌のままの葵が眠っている。
音は百合葉のスマホの音だった。
サイドテーブルから手に取って見てみると、揚羽からのショートメールだった。
念の為、通信手段の複数化を図る目的で交換しておいたプライベートの電話番号である。
「なんだ? こんな時間に‥‥。」
百合葉が開いてみると、メールには目を疑うようなことが書かれていた。
「感染閣僚たちを焼き殺した‥‥だと?」
そこには、慌てたような文章で自衛隊が危機管理室の中のお歴々(といってもイープス菌の塊だったが)を火炎放射器で焼いた、という内容のことが書かれていた。
文字の間から揚羽の恐怖が伝わってくるようだった。
『あの人は感染者を人間とみなしていない』
続けて送られてきたメッセージに書かれていたのは、佐藤は首都圏からイープス菌を排除するつもりだ——という内容だった。
こんな時間にプライベートの携帯番号にメールしてくるのは、知らせたことを佐藤に知られたくないからだろう。
その一事で佐藤政権がどういう性質のものであるかが想像できるようだった。
「何かあったの?」
葵が目をこすりながら聞いた。
「起きたのか。まだ夜中だ。もう少し寝ておけよ。明日は忙しくなる。」
翌朝早くに登庁してみると、事務室のパソコンに官邸からのメールが届いていた。
今日の10時にオンライン閣議を開く——というものだった。
「閣議?」
百合葉はいやな予感がした。
「何の閣議でしょうね?」
スタッフの1人が訊く。
今、厚労省の業務に当たれているスタッフは、葵も含めて32人しかいない。
それで厚労行政を回しているのだから、かなりキツイ。
「気になるなら写らない場所で画面を見てたらいい。」
百合葉はスタッフたちにそう言った。
「ああ、あと、現在連絡を取り合っている拠点病院などのリストはパスワードをかけて見えなくしておいてくれ。パスワードは菅野が決めて1人で管理してくれ。」
スタッフが怪訝な顔をする。
「いいから。個人の端末には残すな。」
10時になって閣議が始まった。
『各大臣代行には、日々の激務ご苦労様です。』
佐藤総理が話し始めた。
最初こそおとなしめの話し出しだったが、佐藤はすぐに本題に入った。
「グダグダした修辞は省く。皆知ってのとおり、今は国家の緊急事態だ。存亡の危機と言ってもいい。」
佐藤は画面に映る閣僚の顔を見回しているようだった。「閣僚」といっても佐藤が勝手に任命しただけの代行に過ぎない。
ほとんどの閣僚がやや伏目がちにして目を合わさないようにしている。
百合葉は努めて表情を消した。
「このままでは日本という国そのものが無くなってしまいかねない。防衛しているだけではジリ貧になるばかりだ。」
佐藤は1人1人の閣僚の表情を見ているようだった。
「私は非常の覚悟を持ってイープス菌の駆除に乗り出す決意を固めた。」
なんだと?
イープスの菌糸に効く薬はない。今のところ——。
その開発をしようにも、その人材がいない。おそらくそうしたトップエリートたちの大半が感染してしまっているのだろう。
AI による創薬は可能性があるが、問題はシステムのメンテナンス要員が足りないのか各社の提供するAI がまともに機能していない。
創薬について訊いてくるかと思ったが、佐藤は訊いてこない。
すると‥‥。彼の頭にあるのは‥‥‥。
「まず、首都圏からイープスを一掃する。」
これは!
さすがに黙っているわけにはいかない。
「患者を焼き殺すと言うんですか?」
佐藤がジロリと中空を睨んだ。
おそらく、画面の中の百合葉が映っている部分を睨んだんだろう。
「なぜ、焼くと思ったんだね?」
しまった!
揚羽から内々に連絡を受けていたから、つい‥‥。
まずい。
揚羽が危ない。
「百合葉くんといったな。君も厚労省で戦っていて、駆除にはそれしかないと思ったかね?」
佐藤は探るような目をする。
「そのとおりだ、百合葉くん。胞子の放出を止めねば我々は負ける。」
佐藤は気づかなかったのか‥‥。
いや、ここは助け舟を出したつもりか?
しかし‥‥。
治療もせず、焼き殺すなど‥‥。
どうやってこの男を止める?
「治療法がないという現実を考えれば、子実体を作らせないという以外の手段はない。誰か異論はあるかね?」
佐藤が全員の画像を見回しているのだろう。目だけが鋭く動いている。
誰も何も言わない。
「昨日、私はこの官邸からイープス菌を駆除した。この先、首都圏と自衛隊基地のある地域をゼロイープスのエリアにする。その閣議決定をしたい。」




