36 国家
「正しくは、総理代行ということになります。」
揚羽がきまり悪そうな顔で百合葉に言った。総理だと紹介された佐藤という名の軍服姿の男のやや後ろに、隠れるようにして百合葉を見ている。
「何の法的根拠で——。」
百合葉は抵抗した。
これはクーデターではないか。
「ならば聞こう。お前たち下っ端がこれまで出していた政府の命令には、何の法的根拠があったのだ?」
そう言われてしまえば、百合葉たちの行動にも法的根拠は怪しい。
しかし、百合葉は自ら厚労大臣を名乗るようなことはしなかった。
「命令など出していたつもりはありません。官僚として最低限の政府機能を維持していただけです。この非常事態に‥‥」
「そのとおり、非常事態だ。」
佐藤は我が意を得たりといった顔で言う。
「国家を守るには、指揮命令系統の再構築が必要だ。」
だが、正当性がない。
「シビリアンコントロールと、この若造も言っておったが‥‥」
佐藤は顎だけで揚羽を指す。
「コントロールできるシビリアンがどこにおる?」
「百合葉くんとやら、大臣連中が今どうなってるか知っておるか? 見せてやれ。」
佐藤に言われて、揚羽がタブレットに危機管理室を撮影した動画を百合葉に見せた。
そこに写っていたものは、もはや人の姿をしていなかった。
「国会はどうなっておるか見たかね?」
百合葉は首を振らざるを得ない。
庁舎とホテルの間を、防護服を着けて移動するだけの生活だったのだ。
「議事堂の庭にいくつもの薮があるだけだよ。水と光を求めて外へ出てきて、そのまま藪になってしまったんだろう。なあ、百合葉くん。」
佐藤が百合葉の目を正面から捉えた。
「こうなった以上、意思決定を行うのは次席トップの位置にいる者の責任だとは思わんかね?」
それから佐藤は姿勢を正して胸を張った。
「百合葉くん。きみを正式に厚生労働大臣代行に任命する。」
百合葉はさすがにカチンときた。
「あなたにその権限があるのですか?」
「百合葉さん。百合葉さん。」
揚羽が手で抑えるような仕草をする。
「佐藤総理は天皇の任命を受けておられます。オンラインですが。」
この騒ぎになって以来、宮内庁は陛下の感染を防ぐためとして一切の対人面会を拒絶していると聞いている。
皇室がどうなっているかの情報など、全くない。
その任命映像、AI によるフェイク動画じゃないだろうな——。
「わかりました。謹んでお受けいたします。」
しかしそこは百合葉も官僚の悲しいサガ、面従腹背が咄嗟に出た。
「総理。お尋ねしたいことがあるのですが。」
「ふむ?」
総理と呼ばれたことに佐藤は満足そうな表情を浮かべた。
「諸外国はどうなっています?」
「在外大使館は機能していない。外務省の情報はそちらにも行っているのだろう?」
どうやら、他国も日本とあまり変わらない様子らしい。在日の諸国大使館も、ほぼ連絡のつくところはない。
このあたりの情報は防衛省でも同じらしい。
「在日米軍はどんな様子なんです?」
百合葉がその質問をした途端、佐藤総理の表情が不機嫌になった。
揚羽が背後で手を上下に振って、抑えろ、とサインを送っている。
「きみごときが知る必要はない。在日米軍とは緊密に連絡をとっておる。」
ごとき——ときたか。
「我々は国家を守らねばならん。外国の侵略からも、植物の侵略からもだ。」
そのとおりではあるが‥‥。
軍と政権トップの兼任。
それは独裁の始まりではないか。
「きみは引き続き、防疫体制の構築に力を注いでくれ。物流は経産省にやらせる。手分けすることが大事だ。」
古い上位下達の国家システムの再構築。そのトップに自分が座る。
それがどうやら、この佐藤という軍人上がりの頭の中身らしかった。
佐藤は百合葉たちが曲がりなりにも作り上げてきた新しい植物的システムを排して、再び動物的システムに戻そうとしているように見える。
そのためには、そうした変革の中心と見られた百合葉を落とすか、あるいは自分に忠誠を誓う別の人物にすげ替えるかしなければならない——と考えたのだろう。
百合葉はこの一瞬で、そこまで読んだ。
「承知いたしました、総理。」
今逆らったところで、百合葉には何の準備もない。
おそらく、この佐藤という男はこのクーデターをある程度の準備のもとに決行したに違いないのだ。
逆らうにしろ従うにしろ、何らかの情報がほしい。それを集める時間がほしい。
百合葉は、さも納得した、という表情を作って官邸をあとにした。
だがその頭の中は目まぐるしく動いている。




