32 政府分裂
いったい他国はどうなっているのか?
百合葉は知りたいと思うが、彼だけではどうにもしようがない。外務省の情報収集能力も極端に落ちていた。
NETのインフラも壊れ始めた。
誤作動や通信障害が多発するようになり、それが復旧しないのである。どのプラットフォームもまともに機能するところがなくなった。
特に海外との通信がほとんど不可能になっている。
おそらく、感染者の増大に伴ってメンテナンスが回らなくなっているのだろう。
そこにチャンスとばかりにつけ込んだハッカーがシステムの隙をついて資産などを奪い取ろうと試み、そのハッカーまでが感染した結果、システムがまともに機能しなくなった——ということではないか。
百合葉はそんなふうに想像した。
人類がほとんど何の手立ても打てないでいる間に胞子は半月ごとに無数に空気中に拡散し、人々の呼吸と共に吸い込まれ、発芽したに違いない。
どれほどの人が須々木原先生のような対処法に気がつき、どれほどの人が胞子を侵入させない安全エリアに閉じこもっているのだろう?
今のところ、それを知る術がない。
互いに連絡の取れる国はほとんどなくなり、最大の同盟国であるアメリカでさえ現状がどうなっているのかはほとんどわからないのだ。
横須賀にアメリカの原潜が寄港したらしい——という情報は外務省の担当者からもたらされたが、そうした情報が最も入るはずの防衛省は沈黙している。
日本国内にいる在日米軍でさえ、何をしているのかもわからないのだ。
官邸の事務方にそちら方面からの報告が入っていないか聞いてみても、なんとなく歯切れが悪い。
百合葉は少し嫌な感じを覚え始めた。
どうも‥‥
疫病対応を優先する厚労グループと、軍事的安全保障を優先する防衛グループとの間で、総理(ありていに言えば官邸の事務方)の取り合いが起こっているようなのだ。
政府が1つにならなければならないこの緊急事態に、なお権力闘争をするか。
腹が立つが、百合葉にはどうすることもできない。
防衛省にはかなり上の方の幹部が非感染者として生き残っており、こちらの大臣はただの言いなりの感染者なのだ。
その足元を見られているのか?
* * *
「そんなことは不可能です。」
官邸にまで乗り込んできた佐藤陸佐に、官邸を実質的に仕切るハメになっていた揚羽陽一郎は怯みながらも抵抗した。
「一般職のくせに、何を言っとる。」
佐藤陸佐は化学戦用の防護服にガスマスクという出で立ちで、マスク越しなので表情がよくわからない。
ただ、オンラインで会話するその声から、揚羽には今目の前に立っているのが佐藤陸佐だとわかるのみだ。
他に2人の銃を持った兵士を従えている。
「さ‥‥佐藤陸佐。シビリアンコントロールということを‥‥」
「その権限のあるシビリアンがどこにおる? 危機管理室はどうなっておる? 誰がおるのだ?」
「そ‥‥それは‥‥」
佐藤陸佐は、今にも銃を突きつけそうな気迫を見せた。
「地下のセンターを見せてもらおう。」
「そ‥‥それはなりません! いかに陸佐といえども‥‥」
揚羽は背中に冷たい汗を感じながらも、官邸の権威を見せようとした。
「おまえにそれを言う権限はない。官邸内電話の1本で済むだろう。私より上の階級の者から直接に命令があれば、私はそれに従う。」
揚羽は1ヶ月前に見た危機管理センターの悍ましい光景を思い浮かべた。
頭や顔から植物を生やしたお歴々が、円卓に座ったまま、正面の何も映っていないスクリーンをぼーっと眺めていた光景を。
あれ以来、センターは封鎖してある。
厚労省の百合葉さんの情報と助言に従って‥‥。
お歴々の前に何本ものペットボトルを置き、最低限の光合成はできるように照明は点けたままにして、入り口に鍵をかけた。
もし、光合成量が足りなければ‥‥。
それ以上は、考えたくもない。
「危機管理センターは‥‥封鎖されました。」
揚羽は観念して、佐藤陸佐に事実を告げた。
「ならば、階級からして危機管理の方針を決められるのは、私ということになるな?」
それは‥‥クーデターだ。
と、揚羽は思ったが、銃を持った2人の兵士を前に口は閉ざされた。