31 新しい日常
瑠奈のお父さんと2人で配給された食料や生活物資を車に詰め込み、瑠奈の家の玄関までたどり着いて中に入る前に庭の散水栓で水をかぶる。
2人とも無骨なスキー用のゴーグルと市販の防塵マスクだけの装備で、そのまま頭から水をかぶるからマスクごと濡れて呼吸がしづらくなる。
息を止めるようにしてドアを開けて玄関の中に入ると、瑠奈が新しいマスクを用意して待っていた。
「おかえりなさい。」
泣きそうな声で言う。
びしょ濡れのまま車から樹神家の分を玄関内に運ぶ。
残りは瑠奈のお父さんがまた、啓介を乗せて啓介の家まで運んでくれることになっている。
「啓介くん。風呂場まで行ってシャワーを浴びて着替えよう。お茶でも飲んでいかないか。」
「あ、着替え持ってきてないんで。俺、ここで待ってますから。」
「私のでよければ、用意するから使ってくれ。それに‥‥」
とお父さんは笑顔を見せる。
「車のシートがびしょ濡れになるし。」
「あ‥‥。」
啓介はそこまで考えて準備をしていなかった自分の迂闊さに、思わず顔を赤らめた。
「オヤジくさいのが嫌だったら、わたしのジャージとかもあるよ?」
いや‥‥それは‥‥。嬉しいような気もするけど‥‥。
「お父さんの、借りていくよ。」
お父さんの手前もあるし‥‥。
食料はいつまで手に入るのだろう?
誰がそれを作っているのだろうか?
農業は無事なのか? それとも自然に近い分、とっくにやられてしまっているのだろうか?
最低限のインフラは守る——。
と政府は言っているが、ガソリンだっていつまで手に入るか。
そもそも車が故障したら、修理なんてできる状態じゃない‥‥。今は‥‥。
閉鎖されていないガソリンスタンドでは機動隊のような人が何人も警備についていた——と、瑠奈のお父さんが話していた。
政府はそれなりに動いてはいるらしい。
啓介は思う。
僕たちは日常を取り戻すことができるだろうか?
それは、どんな日常だろうか?
* * *
百合葉一郎はシャワーを浴びたあと、部屋干ししてあるバスタオルの1枚で体を拭く。
下着を身に着け、シャツとスーツのズボンだけをはく。
1日中、防護服を着たままになるのだから、上着まで着たら暑くて仕方がない。
須々木原氏の提案を受けてビルそのものを胞子からの防御シェルターに仕立てつつあるが、万が一にもこれ以上政府機能を失うわけにはいかない。
だから、防護服は二重の安全策なのだ。
傍らでは、先にシャワーを浴びた葵がライティングデスクに立てかけた鏡の前でメイクをしている。
どうせマスク付きの防護服を着るのだから、ほぼ見えなくなるのに——と可笑しくなりかけてから、百合葉はそれが自分のためのものかもしれない、と思い至った。
見せる相手は彼以外にないではないか。
あるいは、そのメイクが葵にとっての戦闘服なのかもしれない。
数日前から、2人はホテルの部屋を分けることをやめ、1つの部屋で眠るようになった。
上司と部下から、もうひとつ踏み込んだ関係へと‥‥。
いつの間にか百合葉にとって、国を守ることは葵を守ることと地続きになっている。
「行こう、葵。」
「はい。百合葉さん!」
「2人だけの時は一郎でいいって言ってるのに。」
「職場で、出ちゃいそうですから。」
葵はひまわりみたいな笑顔を見せてから、防護服のマスクを着けた。
この件が終わったら、葵と正式に式を挙げたい。
一郎にとって、葵はもういなくてはならない存在になっていた。
この件が終わったら‥‥。
どうなったら、この件は終わったことになるのだ——?