29 決断の海
「原潜の推進音捕捉。深度40 。距離4000 。R国SLBM搭載の最新型と推定。」
ソナーマンの報告に発令所に緊張が走る。
仮想敵国の戦略原潜だ。
「特別無音潜航。静かにやり過ごす。」
アシモフは小声で命令した。
かの国はどうなっている?
やはり同じように情報がない状態だろうか?
「敵は無音潜航か?」
「通常潜航の模様。」
まだ気づかれていないのなら、こちらが有利だ。
戦略原潜同士なら、動きのスピードは五分。
今なら‥‥。仕留められるのでは。
この状況下で‥‥。
我が国の安全のために。
リスクを1つ、取り除くべきでは‥‥?
「無音潜航に入ったようです。拾える音が減りました。距離3500。」
気づかれた!?
アシモフの背中に冷たい汗が吹き出す。
だが、こちらは特別無音潜航の体制で、しかもほとんど静止している状態だぞ。
なぜ探知された?
もし向こうも同じようなことを考えているとしたら‥‥。
「距離7500に攻撃型原潜の推進音。95%の確率で味方のものです。敵戦略原潜を追尾している模様。」
敵原潜の無音潜航は、それが原因か。
ならば、その扱いは味方の攻撃型原潜に任せよう。
セイレーンが発見されるリスクを冒すことはない。
その味方の原潜の艦長も、自分と同じようなことを考えているだろうか?
敵の戦略原潜の艦長も、われわれのように怯えているだろうか?
おそらくイープスによって、本国からも司令部からも連絡が途絶えてしまったこの状況下で‥‥。
もしかしたら——。
イープスから無事なのは‥‥、すでに我々のような潜水艦の乗組員だけかもしれないではないか。
決して胞子にさらされることのない潜水艦の乗組員。
それが、最後の非感染人類だとしたら‥‥。
我々は、どうすべきなのか?
「距離3000。敵原潜はゆっくりとセイレーンの前を横切ってゆきます。」
ソナーマンのその報告に、アシモフの中に迷いが生じる。
前方ならば‥‥今、魚雷を撃てば仕留められる‥‥。
アシモフの額に汗がにじむ。
‥‥いや、撃つべきではない。
このまま、やり過ごす。
戦術的に考えても、こちらから攻撃することはリスクが大きすぎる。
突然起こった攻撃に驚いた味方の攻撃型原潜が、こちらを味方の戦略原潜だとすぐに認識するとは限らない。
お互い、ギリギリの精神状態の中では、確認より先に攻撃してくる可能性さえある。
やがて、2つの原潜は遠ざかっていった。
おそらく味方の攻撃型原潜は、攻撃命令があるまで敵戦略原潜の追尾——という軍令を律儀に守っているのだろう。
その命令は、永遠に来ないかもしれないのに——。
どうすべきか?
連絡がつかないのなら、任務期間は残っているが一旦基地まで帰還するか?
そうするとしても、その基地さえ機能しているかどうか今はわからない。基地が守備力を失っていれば、その海域ですら安全とは言い切れないのだ。
漆黒の海は沈黙している。
アシモフは、全ての責任をその両肩に乗せて懸命に考える。
もしも、無事な人類が潜水艦乗りだけだとするなら‥‥。
アシモフが背負っているのは、この艦の乗組員の生命だけではない。
人類に対する責任まで背負っていることになる。
このまま何の命令も来ない国家のために、生命の危険を賭して「抑止力」であり続けるべきか?
さらにチャンスがあれば、国家のためにリスクを減らすべく敵戦略原潜(核兵器のプラットフォーム)を沈めるべきか?
それとも‥‥‥。
アシモフがその考えを持った以上、他にも同じ考えを持った潜水艦は存在するだろう。
そういう敵に出くわしてしまえば、互いに意思疎通のできない潜水艦同士。命令なき戦闘が始まってしまうかもしれない。
この、不信と疑念の海の中では‥‥。
アシモフはゆっくり顔を上げた。
その瞳に静かな底光りが戻る。
一切の連絡が途絶えた今、このまま機能しているかどうかわからない国家のための抑止力でいることより、生き残ることを考えるべきだ。
まずは、この乗組員たちを無事に陸に帰す。
なんとなれば、彼らだけが最後の人類かもしれないのだ。
「周囲に潜水艦の気配はあるか?」
「ありません。」
艦長の問いに、ソナーマンが答える。
極めてリスキーな賭けであることを承知の上で‥‥アシモフは艦長として重大な決断を下した。
無害であることを示す。
ジェームス・アシモフ艦長は静かな声で、しかし毅然として命令を下した。
「浮上航行する。」