28 無音の海
艦長のジェームス・アシモフは決断を迫られていた。
任務はまだ33日も残ってはいる。
しかし、司令部との定時連絡が途絶えてすでに4日。状況が全くわからないまま、原潜セイレーンは海中に潜み続けていた。
5日前まで、定時連絡の際に入ってくる情報で良いものは1つもなかった。
イープスの急激な感染拡大によって、我が国はその国家機能を急速に弱らせているようだった。いや、失っていくと言った方が実際に近い。
世界中のあらゆる国々が同様であるらしいことも情報として伝わってきていたが、しかしその情報を入手する機関そのものがほぼマヒ状態に陥ったということだった。
アシモフとその部下たちは海中にいる。
それが核弾頭搭載弾道ミサイルの発射プラットフォームとしての戦略原潜の任務だからだ。
陸上の核サイロは衛星画像などで場所が特定されているからそれを先制攻撃で破壊してしまえば、核による報復攻撃はできなくなる。
だが、それでもSLBMを搭載した原潜はどこかに潜んでいるのだ。
核搭載の戦略原潜が海のどこかにいる限り、先制攻撃を行えば核報復を必ず受ける。つまり核先制攻撃の抑止力となる——というわけだ。
それが、彼らが何十日もの長きにわたって海中に潜み続ける理由であった。
逆に言えば、敵の戦略原潜の位置を把握し、いざという時には真っ先にそれを沈めてしまえば戦局は極めて有利になる。
戦略原潜は弾道ミサイルを搭載しているため、図体がデカく、動きも遅い。
攻撃型原潜から攻撃を受ければ、到底互角に戦えるシロモノではない。
しかし、それを護衛するために攻撃型原潜が近くを守るような船団を形成すると発見されやすくなり、潜水艦の「秘匿性」という長所が失われる。
だから常に単独で行動し、司令部ですらその正確な位置は知らされない。
抑止力であるということは、最終的には弾道ミサイルを発射して何百万という人間を核の炎で焼き殺すか、その前に敵攻撃型原潜の魚雷を受けて逃げる場のない海中でその残骸と共に死ぬか、のどちらかなのである。
それが、最終の任務である。
もちろん、この最終任務をやりたいと思って乗っている乗組員はいないだろう。
あえて彼らは、それを考えないようにしている。
そんなことが起こらないように、上の方や政治家たちはうまくやってくれるはずだ。
通常任務は、ただ海に存在することであり、そのミッション期間が終われば家族のもとに帰ることができる。
そう思えばこそ、この狭い空間の中で耐えることもできているのだろう。
もちろん、アシモフの乗るセイレーンも例外ではない。
何度も仮想敵の攻撃型原潜に付きまとわれ、そしてそれを撒いては位置を変え、潜み続ける‥‥。
大国どうしの戦略原潜と攻撃型原潜のかくれんぼ。
平時であればそれは一種のゲームのようなものだろう。
だが、ひとたび緊張が高まれば乗組員全員の命のかかった死のゲームとなる。
そして今、イープスによってその緊張は極度に高まっていた。
4日前から、あらゆる情報が入ってこなくなった。
何が起こっている?
我々の国は崩壊したのか?
何によって?
イープスか?
それともトチ狂ったどこかの独裁者の放った核攻撃によってか?
後者なら報復攻撃の長波通信が入るはずだが、それもない。
ここ数日、敵味方を問わず、近くに潜水艦の気配もない。
定時連絡のためにブイを上げる以外、セイレーンは静かな暗闇の中に潜み続けていた。
この状況下で‥‥。
とアシモフは考える。
自分が攻撃型原潜の艦長だったら、何を考えるだろう?
もし、国家の上層部のほとんどがイープスに感染してしまって、何の指令も入らないようになったなら‥‥。
万が一のことを考えたら‥‥。
敵の戦略原潜だけでも先制攻撃で沈めておけば‥‥。偶発的な全面核戦争という最悪の事態のリスクを減らせるのではないか。
海中に潜んでいる戦略原潜は、最終兵器発射の意思ありと見るべきだろう。
国家上層部が機能不全になったのなら、その判断はセイレーンと同じように艦長に任されているはずだ。
どうするべきか?
このまま抑止力であり続けるのか?
そもそも、この状況で抑止力という概念は通用するのか?