27 動物型組織
状況はおおむね予測どおりに進んでいるようだ。
だが彼らは動きが速い。想定外の動きを起こすやもしれぬ。
起こしたとしても、長い目で見れば影響は大きくなかろう。最悪の事態の可能性は計算してあるのだ。
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曲がりなりにも日本社会が機能を取り戻してから1週間が経った。
その間に起こった胞子噴出は、須々木原の提案した対策でやり過ごすことができ、被害の拡大を最小限に抑えることができた。
さらに長田医師や飯沼医師が考案し、自ら実験台になったマウスの免疫細胞を直接イープス菌糸に注入するという手法も情報として流した。『安全性については一切の責任が持てない』ことと『患者の救済を目的とする限り法的な責任を問わない』という法務大臣の声明とを添付して。
日本社会は、最低限のインフラは維持することができるようになっていた。
ネットワークが機能するようになるにつれて(当然といえば当然だが)いつしか百合葉そのものが政府であるような状況になっていったが、百合葉自身は気づいていない。
ただ、やらねばならぬと思うことをやっているに過ぎない。
そんな百合葉にとって、菅野葵はいい助手になってくれていた。
ウマが合う、というのか、タイミングがいい、というのか。そのきらきらした瞳と、上手くいったときの笑顔が百合葉の新たな活力の元になっているようだった。
最近は2人とも仮眠室ではなく、近くのホテルの部屋で眠るようにしている。仮眠室はまだしも、床で寝ていたのでは疲れが取れない。
もちろん部屋は別々だ。
百合葉は恐れている。
疲れがたまると、どうも子孫を残そうという本能が働くらしいのだ。
しかし、もし迂闊な行動におよんで菅野葵との間に妙な亀裂でも入ってしまったら‥‥。今ギリギリで回っているこのシステムの崩壊すら招きかねない。
百合葉はそれを恐れた。
「菅野さん。」と百合葉はことさらに名前の方で呼ぶことを避けている。
オスの身体が求める欲求を虚しくホテルの部屋のトイレで処理して、また明日に備える。
ちゃんと全体が回るようになってきたら‥‥。
その時にはきちんと葵を食事にでも誘いたい。
もっとも今どき営業しているレストランなどないから百合葉が自分で調理することになるが、長い独り身生活で料理の腕にはいささか自信があった。
空っぽになってる一流ホテルの厨房を借りるくらいは、バチは当たるまい。
「外務省の南木曽さんからメール来てます。」
百合葉は菅野に連絡メールのチェックを頼んである。
「ああ、なんて?」
「アメリカの原潜が北海道沖を浮上して航行しているそうです。」
百合葉は椅子をスライドさせて自分でその画面をのぞき込んだ。
自衛隊のレーダーで捕捉したが防衛省にも外務省にも何の連絡もないという。
同盟国とはいえその意図がわからないので、今アメリカ大使館と在日米軍に問い合わせをしているという内容だった。
「大使館は3日前から連絡がつかなくなったんじゃなかったっけ?」
どの国ともまともな連絡がつかなくなった今、同盟国とはいえ何の通告もないまま本来は隠れているべき原潜が姿を現したというのは不気味だ。
事故ならば、何らかの連絡があってもよさそうなものだ。
『防衛省、または自衛隊で現場レベルの意思疎通がないかどうか確認してみてください』
百合葉は南木曽にメールを送った。
直接防衛官僚に送らないのは、あくまでも百合葉の立場は厚労官僚に過ぎないからだ。
防衛省の連中は、百合葉が新たなネットワークシステム構築の中心になっていることを快く思っていないようだった。
百合葉自身も、それは敏感に感じとっている。
中枢があって、その指令通り全てが動く。あいつらはまさに「動物型組織」の権化だものな‥‥。
指示を出しているのが(百合葉は指示ではなく連絡のつもりだが)総理や防衛大臣ではなく、実質的に厚労官僚の下っ端であることに違和感があるのだ。
総理官邸を押さえている無事な事務方の面々が、百合葉の提唱するネットワーク政府の賛成派であることも気に入らないのだろう。
ともすれば「防衛機密」を盾に情報を出し渋った。
軍というものがどこも似たような感覚だとすれば‥‥
コントロールの効かないまま、どこかの国の軍が現場だけで戦争を始めなければいいが‥‥。
世界には、始末に負えないほどの核兵器があるのだ。
それを管理している責任者が、もしもイープスに感染していて誰かの言いなりになってしまっているとしたら‥‥。
感染していない者たちが、真の意味で正気を保っていてくれればいいが‥‥。
百合葉は祈るように思った。