25 動き出す人たち
百合葉は眠った。
厚労省のビルに缶詰めになったままだが、その床で身体を丸めるようにして眠った。
疲れを取ることだ。
まずは体力の回復こそが最優先事項だ。
やるべき事が見えた以上、無駄な動きは捨て、今あるリソースだけでこの国の人々を守る最大のパフォーマンス体制を構築しなければならない。
それにはまず、百合葉自身の頭脳のパフォーマンスを回復しなければならない。
目標さえ見えれば、百合葉は決して無能な男ではなかった。
こんな時、家庭を気にしなくていい独り身はそれだけでも助かると思った。
「百合葉さん! 百合葉さん!」
金属を叩くような声で意識が呼び戻される。
「う‥‥‥」
頭の芯に鉛が入ったような鈍痛を覚えながら目を開けると、半泣きになったような女の顔が見えた。
誰だっけ? こいつ‥‥。
いや‥‥えっと‥‥。
そうか、庁舎の床で寝てたんだっけ。
こいつは福祉課の‥‥たしか、菅野葵ってやつだったな。数少ない非感染者の1人‥‥。
「よかった‥‥。死んでるかと思っちゃいました。」
まだ1年目の新人であんまり有能でもないが、とりあえず今は貴重な人数の1人だ。
「今‥‥何時だ?」
「7時25分です。」
8時間半も眠ってたのか。
夢も見なかったな‥‥。
体の節々は痛むが、百合葉の頭はみずみずしいエネルギーを回復して動き始めた。
こいつ、この時間にここにいるということは‥‥。
「菅野も泊まってるのか?」
名前を知っててもらえたことが嬉しかったのか、菅野葵はぱっと顔を輝かせた。
それから、キリッとした表情を作る。
「仮眠室で——。通勤する方が怖いですから。」
その初々しさがかわいいと思えて、百合葉はふっと微笑をもらした。
笑ったのなんて、何日ぶりだろう。
「手伝ってくれ。国家機能を立て直すぞ。何課だろうが関係ない。」
百合葉は、むくりと起き上がった。
「はい!」
そのきらきらした目を見て、百合葉はふと自分の息が臭くないか気になった。
* * *
「るーなー。ひさしぶりー。元気そうー。」
「純恋も。」
瑠奈が弾んだ声で応える。
須々木原先生が提案してくれた「連絡網」で、瑠奈たちはまた宮迫純恋や峯岸亨、渡辺宏之らの級友のオンラインお見舞いができるようになった。
理科医大病院の長田先生が病院内でスマホが使えるように計らってくれたのだ。
ただし、スマホで話ができる程度の状態を維持できている患者に限ってのことだったが。
驚いたことに、長田先生をはじめスタッフ全員が感染者だったが、彼らは人体実験とも呼べる無茶な治療法を自らに試してその結果として正気を保っていた。
「同じ方法を患者さんに施すことには躊躇いがあります。安全が確認されていませんし、場合によっては命の危険さえあるからです。」
純恋たちにもその治療をできないのか——と聞いた啓介に、長田先生はそう答えた。
「これは到底、医療と呼べるようなものではないです。治験としたって、認可も許可もないまま、しかも患者本人の意思の確認もとれない‥‥。」
現時点で純恋たちに行われている治療は、抗菌剤を菌糸に沿って注射してゆくことで進行を止めるだけであること。その薬も在庫が乏しくなってきていること——などを長田先生は話してくれた。
「製薬会社から直接手に入れたいが、ルートがないんです。」
長田先生は政府のサポートを欲しがっていたが‥‥‥
「どの機関に電話をかけても自動音声が流れるだけで、問い合わせメールには返事がない。」
「あの‥‥。僕の両親はこの前感染してしまったんですが、入院させてもらうことはできますか?」
啓介は思いきって聞いてみた。
「申し訳ないが、病床はありますが抗菌薬が足りない。」
「あの、そちらではなく、先生方が試された方の治療ですが‥‥」
「本人の意思が確認できますか?」
「それは‥‥。息子の僕が承認したんではダメでしょうか?」
長田先生はしばらく沈黙したのち、申し訳なさそうに言った。
「スタッフは皆、発症前に自ら進んで実験台になったんです。すでに発症した人の意思は確認のしようがありません。」
本人の意思確認がとれなければ、長田先生たちが場合によっては殺人罪に問われる可能性すらある——と言われれば、啓介としてもそれ以上は頼みようがなかった。
他にも何人も同じような人がいるだろう。
そんな頃だったのだ。
須々木原先生のところに厚労省の人から連絡が入ったのは——。