17 抗う人
長田輝彦は疲れた険しい表情でシャーレの中を眺めていた。
その顔にはいたる所に小さな絆創膏が貼ってある。
「一応、この実験では上手くいっている。」
飯沼結衣が目の下にクマを作った顔で言った。
結衣はスッピンのままで、その顔にも絆創膏がいくつも貼ってある。メイクなどしている時間が惜しいのだ。
「うん。」
輝彦がうなずく。
「本当にやるの?」
結衣が普段見せたことのない泣き出しそうな目で、輝彦を見た。
「失敗して俺がおかしくなったら、あとを頼む。」
輝彦がひきつったような笑いを見せた。
人体実験をしようとしている。
抗真菌薬は、ほぼ全て効き目がないことがわかった。いや、全くないわけではなく、抗生物質と同じように患部に直接注射してやれば部分的に殺したり成長を止めたりはできたが、菌糸そのものを根絶することはできなかった。
輝彦たちの顔にある注射痕はそれである。
患者はイープスの菌糸に一定以上成長されると、急速に精神に異常をきたすようだった。
異常、といっても錯乱したりするわけではなく、能動性を失う——平たくいえば素直で従順になるのである。
イープスのなすがまま、植物に身体を乗っ取られていく。
厚労省や学会からの少ない情報によれば、どうやらそういうことらしいのだ。
そうやって動く気力を失ってしまった患者が、その場で座り込んだりして、アフリカのあの村のように薮になってしまったのだろう。
輝彦と結衣の命題は、自らがそうした精神状態に陥る前にこの病いに抵抗するすべを見出すことだった。
2日前から連絡の取れなくなった院長の木見田は、院長室の椅子に座ったまま恍惚の表情を浮かべていた。
顔や首から伸びた植物の芽が、かなりの大きさにまで成長していた。
引きちぎろうか、とも思ったが輝彦はやめた。
このまま経過を観察してみよう。
治療しなければどうなるのか——。
これも人体実験であろう。
それがどうした?
こうなれば医療倫理もへったくれもあるか。
これは人類 vs イープスの最前線での戦いなんだ。
病院のスタッフで感染していない者は、今は誰も出勤していない。
感染が確認されたスタッフたちの半数ほどが、自分たちの生き残りを賭けて輝彦や結衣と共闘していた。
彼らは皆、顔中に絆創膏を貼り付けている。
それが、戦士の証だった。
「君は研究者に向いていたな。」
輝彦がそう言うと、結衣は少しだけ口の端を上げた。
「大学に枠がなかった。」
結衣は突拍子もないことを思いついて、それを検査室のシャーレの中で実験してみたのだ。
イープスはなぜ、人間以外に感染しないのか?
大学のツテで入手した実験用マウスにイープスの菌糸を移植してみても、それは全く成長しないどころかいとも簡単にマウスの免疫にやられてしまった。
そこからが結衣の飛躍だった。
マウスの免疫細胞を培養して、菌糸に直接投与したら?
シャーレの中の実験では、1日かからずに全ての菌糸が死に絶えた。
‥‥‥‥‥‥
輝彦はそれを自分の患部に直接注射しようとしている。
めちゃくちゃな人体実験だった。
溶血を起こすかもしれない。
マウスの細胞を異物と認識した輝彦の免疫系が激しい反応を起こすのではないか?
それは、対イープス戦として吉と出るのか凶と出るのか?
未知のウイルスだって潜んでいるかもしれない。
安全性の確認もへったくれもない無謀な試みだった。
しかし、イープスが人間にだけしか感染しない真菌類である以上、他の動物での実験はできないのだ。
このまま進行すれば、輝彦もやがて気力を失ってイープスのなすがままになってしまう。
そうなる前に‥‥‥
「他の患者で試してみて!」
そう言いそうになる言葉を、結衣は喉元で呑み込んだ。
それは結衣の倫理観も許さないし、それ以上に輝彦のそれが許さないだろう。それを口に出すことは輝彦への侮辱だ——と、結衣にはわかっていた。
「上手くいったら、スタッフの中から希望者を募ろう。リスクは十分に説明した上で‥‥。」
「わたしが希望者になる。」
輝彦は自分の顔に向けた注射器の手を止めて、結衣を見た。
その目が結衣とベッドルームにいた時みたいに優しい。
「君は最後にしたい。俺のわがままだけど‥‥。」