16 芽吹く人
ジャ———‥‥‥たぱたぱたぱ‥‥‥。
玄関先で水を流す音が聞こえる。
ああ、親父が帰ってきたのか‥‥。と啓介は自室で思ってから、いつもとは違う違和感を覚えた。
いつまで経っても水音が止まない。
「?」
「お父さん! 何してるの?」
母親の甲高い声に、啓介も異常を感じて2階の窓から外をのぞいた。
猫の額ほどの「庭」に設けられた庭園灯の灯りが父親を照らし、半身だけが陰になっている。
父親は駐車スペース脇の散水栓につながれたホースを持って、頭から水をかぶっていた。
いつもなら、そこでびしょ濡れになってからすぐ玄関に入ってきて、風呂場に直行するはずだが‥‥。
父親はいつまで経っても水をかぶり続けたまま、そこに突っ立っている。
どうしたんだ?
「あー‥‥。きもちいいー。」
——っ!
そのしゃべり方は!
純恋と同じ‥‥?
「親父!」
思わず叫んだ啓介の方に、父親は水を浴びたままゆっくりと顔を向ける。
窓からの明かりに照らされて、影になっていた父親の顔がはっきりと見えた。ゆるんだようなその表情——。
その両頬に、まるで髭か何かのように何かのつる植物の芽が生えている。
「いやあああ! お父さん!」
母親の絶叫が夜の住宅街に響いた。
近所の家の明かりがいくつか点く。
しかし、誰も出てはこない。おそらくはカーテンの隙間から覗き見しながら、啓介の家の前の様子を窺っているに違いない。
このご時世だ。何があったのか、おおよそ見当はついているだろう。
ならば、なおのこと関わりたくはないのだ。
啓介は走って階段を下りる。
「近寄っちゃダメぇ!」
玄関で母親が啓介を制止する。
「胞子が出てるわけじゃねーだろ。水かぶってんだし。」
啓介はサンダルを履いて、父親の方に向かった。
「おー。けいすけかぁー。いい子にしてたかー?」
啓介は散水栓の蛇口を閉めて、父親の頬に垂れ下がったつる植物を無言で引きちぎる。
父親はされるがままだった。
「中に入って風呂に入れ、親父。」
ホースを父親の手からはぎ取り、背中を押して玄関に向かわせる。
父親は素直に言うことを聞いた。
「吹き出物はできてねーよ。」
啓介は玄関を通る時に、少しだけ母親を睨んだ。
なに避けてんだよ? あんたの夫だろうが——。
風呂場で作業着を脱がせて洗濯機に放り込む。
裸にした父親に啓介がシャワーをかけている間に、母親が着替えを用意してきた。少し気まずい表情をしている。
父親をバスタオルで拭いて、そのタオルも洗濯機に放り込んで回した。
これではまるで認知症の老人だ。
いつから感染していたんだ?
植物が生えてくるまで自覚症状もないというが‥‥。
啓介は不安になる。
自分も母親も、すでに感染しているんじゃないか‥‥?
親父も、昨日までは普通だった。‥‥ような気がする。
瑠奈のことにばかり気を取られていて、家族の様子までちゃんと見ていなかった。ひょっとしたら‥‥何かの兆候はあったのかもしれないが‥‥。
今は医者にかかるというわけにもいかない。
病院はどこに電話を入れても、イープス患者を受け入れる余裕はないと自動音声を返してくるだけだった。
町のクリニックは臨時休診が多く、開いているところはどこも「イープス患者の受け入れはできません」「新規患者の受付はしておりません」という張り紙がしてあるということだった。
‥‥いうことだった——というのは、啓介自身が見て回ったわけではないからだ。外に出ている父親の情報だった。
それも、昨日までの——。
ニュースも自動音声。保健所への連絡も自動音声の対応で、症状についてテンキーで選ぶだけのことだ。返事があるわけでもない。
政府の発表によれば、それでも社会機能はオンラインなどで維持されているというのだが‥‥。
どうすればいいんだ? この先‥‥。
翌日、啓介は父親の会社に欠勤の連絡のために電話を入れたが、誰も出なかった。
会社のホームページの問い合わせフォームに、メールで父親の感染と会社の現在の状況の問い合わせを打ち込んで送った。
返事はわりにすぐきたが、父親を含め複数が発症したために、この先業務を続けられるかどうかわからないということだった。
「労災になるのかしら?」
と母親は言うが、認定の手続きすらまともに進むかどうかわからない。
それ以前に‥‥
「今月の給料、ちゃんと振り込まれるのかな?」
父親は、ぼーっとテレビを見ている。
「もう行かないで」と言った母親の言葉に素直に従ったのだ。
以前は「俺たちの仕事は必要な仕事なんだ」と使命感を口にしていた父親だったが、今は子どものように素直に従っている。
テレビでは、AI 音声のニュースとオンラインのコメンテーターの発言が繰り返されている。
父親の顔や首には、また緑色の何かの芽が伸び始めていた。
その成長が、早い。