14 情報
厚労省の1室で、百合葉一郎は顔をしかめたまま小さく唸り続けていた。
医療体制のためのデータを作れと言われても‥‥。
そもそもの情報が不均衡で混乱している。信憑性のある数字なんか出るわけがない。
日に日に感染者数を更新してくる自治体もあれば、全くデータを提出できない自治体も多い。
何が現在の状況かわからないのだ。
病原体が真菌類であるらしい——という報告はいくつか上がってきているが、それだって確認がとれたものではないのだ。
全国の医療機関で大混乱が起きていて、医師会も全体が把握できていないらしい。
保健所もパンク状態で、感染を恐れて出勤を拒否する職員も出てきているということだった。
しかし、政治家である彼らとしては「何もわかりません」で済ませられる状況ではすでにないのだ。
そういう立場である——ということは、百合葉にもわからないわけではない。
だが、であればこそ、いい加減なデータや根拠の薄い話で回答したのでは、最終的に恥をかくのは大臣ということになる。
そしてそれは、巡り巡って百合葉が無能呼ばわりされることにつながるのだ。
どの方向でもいい。何らかの暫定的な答えを用意しなくては‥‥。
百合葉は菌類は専門外だ。
その方面の専門的意見を聞こうにも、人脈がない。
菌類に関する専門家はどこにいる? 信頼できる学者は、どこの大学にいるんだ?
百合葉やその周りには、そういう系統の人脈を持っている人物はいなかった。
厚労省のキャリアとしてやってきた百合葉には文科省へのパイプもほとんどなかった。そういうパイプを持っていそうな人物は、百合葉とは別の派閥に属していた。
そういう人物に接触するにも気を使う。百合葉の属する主流派閥の長の頭越しに接触すれば、あとでどういう扱いを受けるかわかったもんではない。
派閥の長である次官に話を通そうにも、その次官は官邸に呼ばれたまま帰ってこない。
提出期限は、明日の朝8時だと言っておきながら。
くそったれ!
これを「国難」だと言うなら、せめて省庁横断的な連絡体制くらい作れよ。
百合葉はその不満を唇の内側だけに留めて、ネット上の情報を検索し続けた。
上がってきている情報だけでは信頼性のあるデータなんか作れないことがわかっているから、その補足のためにネット内を探し回っているのだ。
あわよくば、有力な専門家の投稿に出くわすかもしれない。
テレビの報道番組などはあまり役には立たなかった。
オンラインで出演している「専門家」と称する連中は、およそピンボケたコメントしかしておらず、「抗真菌薬では根治できない」といった既にわかっていることしかしゃべっていない。
テレビの取材能力も極端に落ちている。海外情報はさらに入りにくくなっていた。
むしろディープな現場情報は、危険を顧みない個人のネットメディアなどによってもたらされている。
だがそれには、少なからずフェイクやデマが混じっている。
何も有力な情報が得られなければ‥‥最悪、東京都だけのデータで作文を作ればいいんじゃないか? するべき仕事してないやつが、後で恥をかいたって知るもんか。
投げやりになりそうな自分を何度も押しとどめながら、百合葉は充血した目でパソコンのモニターを追い続けた。
そして・・・。
百合葉のその努力は、1つの奇妙なブログ記事へと彼を導くことになる。
* * *
「先生。それ、発信するべきじゃないでしょうか。」
瑠奈が発言すると、須々木原先生は急に表情を萎ませた。
「これは‥‥ただの仮説ですし‥‥。何の肩書きもないただの中学校教師が言うことなんかに、誰も見向きもしないよ‥‥。」
「そんなことないですよ。これは、今起きてることを全部説明できてるじゃないですか。」
啓介も瑠奈を援護する。
「何もしなければゼロです。誰か1人でも読んでくれれば、その仮説をもとに何かの対策や行動につなげられる人も現れるかもしれないじゃないですか。」
それは、瑠奈が社会の問題に関わるときのスタンスでもあった。
できることをやる。
それがどれほど微力であっても。
「う——ん‥‥‥」
須々木原先生は、しばらく弱々しい表情で目を伏せるようにしていたが、やがて諦めたみたいな口調で言った。
「昼休みに、一応ブログに書いてみますよ。たぶん、何にもならないとは思うけど‥‥。」
* * *
百合葉は唸った。
これは‥‥。この仮説は、今起きているイープスの症状を全てきれいに説明できている。(自身で、あくまでも仮説とことわってはいるが)
何者だ?
しかし、ブログは匿名のハンドルネームで、どこの誰ともわからない人物のものだった。
肩書きや連絡先だけでもわかれば‥‥‥。
そのほかの記事は、旅行先で撮った植物の写真とその解説だった。植物には詳しい人物らしい。
せめて大学教授とか肩書きのある人物に、この仮説についての意見でも求められれば‥‥。
この時間に連絡の取れるそんな人物にコネクションがない。
無理か‥‥。
今の時点では‥‥。
百合葉はこの仮説に惹かれながらも、報告書に入れることは諦めた。
とりあえず、東京都のデータだけで作文することにしよう‥‥。