10 パンデミック
理科医大病院東棟での胞子拡散事件から3日。
病院は、当時東棟にいた職員全員のMRI検査を行った。
結果は最悪のものだった。誰一人として、胞子の侵食を免れたものはいなかったのだ。
上半身を中心に、びっしりと菌糸の網が侵食しているのが画像から見てとれた。
直後から投与した抗生物質は、あまり効いていないようだった。
「なんてことだ‥‥。」
輝彦は隔離された東棟の中で頭を抱えた。
「俺の想像力が足りなかったのか?」
それにしても、わずか3日でここまで成長されるとは‥‥。
自覚症状はまだ何もない。
胞子の噴出は理科医大病院だけではなかったらしい。
全国の医療機関でほぼ同時に同様のことが起こり、理科医大病院のようにそこそこ封じ込めに成功した医療機関はわずかだったらしい。
「とんでもないことになるぞ、これは‥‥。」
輝彦は机に肘をついたままで、独りつぶやいた。その頬のあたりに、小さな緑色の何かがくっついている。
そんなふうに言いながら、輝彦はなぜか言葉ほどには深刻な気分にならない。
しばらくぼんやりした後、ふと輝彦は顔を上げた。
「そうだ。結衣に‥‥」
飯沼結衣。
検査部のエース。
サラリーマンとしてはやや難ありな性格だが、その意表をついたアイデアで常に新しい検査手法を編み出しては成果を上げている。
「あいつなら、これを殺す方法を何か思いつくかも‥‥。」
輝彦が内線電話の受話器に手を伸ばしたとき、部屋の入り口で聞き慣れた声がした。
「輝彦‥‥。」
ふり向くと、そこに飯沼結衣が立っていた。
奇妙な表情で顔を歪めている。
職場ではその呼び方はするな、って言ってるのに‥‥。
「あ、どうしておまえ、ここにいるんだ?」
東病棟にはイープス感染者しかいないはず‥‥。
結衣は何か思い詰めた表情で、部屋の扉を閉めて内側から鍵をかけた。
「抱いて。」
「え?」
「首まわりに‥‥」
結衣が両手で自分の首を絞めるみたいな仕草をする。
「わたし‥‥首まわりに菌糸に侵食られた。」
結衣の目から大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ出す。
「抱いて、輝彦! わたしがわたしじゃなくなる前に!」
輝彦は困惑した。
結衣は‥‥。結衣だけは守りたかったのに‥‥。
* * *
「瑠奈。そっち行っていいか?」
「うん。」
啓介が電話すると、瑠奈は二つ返事で了解してきた。
「純恋とは連絡つかないし‥‥。ひとりでいると落ち込みそう。」
「瑠奈ン家、行ってくる。」
啓介は奥に声をかけて、自転車に乗って瑠奈の家に向かう。
ほとんどの仕事がオンラインになったから、両親も家にいるはず——とも思うが、親じゃ話し相手にならない部分というのはけっこうあるだろう。
学校はあれから休校になった。
あれからとは、理科医大病院で胞子の放出騒ぎがあった日のことだ。
厚労省は「暫定的」としながらも、イープスの病原体が新種の菌類であるらしいこと、胞子によって感染が拡大する可能性があることを公表した。
時を同じくして、世界中でイープスの患者が爆発的に増えているというニュースが流れていた。
「感染者で死亡例はありません。現在、世界中の研究機関で治療法の研究が行われています。落ち着いて正しく恐れてください。
感染された方は、吹き出物ができましたら濡れたタオルなどで患部を包んでください。これ以上感染を拡げないために‥‥」
メディアは懸命な呼びかけを行っているが、あまり功を奏しない。
そもそもイープス患者は、危機管理能力が極端に低下してしまう(ノーテンキになる)という症状を示すらしい。
近くに感染していない人がいて処置を行わない限り、胞子は放出し放題という状況のようだった。
瑠奈の家のインターホンを押すと「はあい」という声がして、瑠奈が顔を出した。
マスクをしている。
「啓介! なんでマスクしてないの!」
「え?」
「どこに胞子飛んでるかわかんないでしょ!」