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ある海の辺りにて

作者: 雅 和都

大きな青い海を前に、大きな男が座っていた。座っている小さな折り畳み式の椅子が、潰れてしまうんじゃないかと思うほど大きな男だ。ごわごわの毛むくじゃらで、丸太みたいな腕の大きな男。

そんな大男の顔にはたくさんの皺が浮かんでいた。

それは年齢のせいもあるのかもしれないけれど、きっとその男が感じている気持ちが一番大きいだろう。

男は幸せなのだろうか。それとも不幸せ?

皺のある位置にもよるのかもしれないが、少なくとも男は、幸せではなかった。

残念ながら皺が一番多いのは眉間だし、貧乏ゆすりだってしていて、いつでも心に余裕がないように見える。

たまにする舌打ちが、彼の不幸せに終止符を打っていた。

なぜ彼はこんなに苛立っているのだろうか。

先天的なものなら仕方がないが、残念ながらと言うべきか、不幸中の幸いと言うべきか、彼のこの苛立ちは大人になってから身につけた。つまり後天的なもの。

ではなぜ大人になってからこんなに変わってしまうのか。

それはきっと、彼が過ごしてきた時間、その時間の過ごし方、出会った人々、経験した全て、手に入れた全てが彼をこうしたのだろう。

人は過去からできている。

未来は過去から作られる。

彼の作った未来は、苛立ちながら舌打ちと貧乏ゆすりをして皺を刻みながら大して楽しく感じられもしない釣りをして余暇を過ごす人生。

ただそれだけ。

そう、ただそれだけなのだ。

彼がどう人生を形作って、どう生きてきたのか、そんなものは全て今この瞬間に詰まっている。

過去の凝縮が未来なのだ。

それで、その凝縮した過去が彼の場合これ。

彼の人生は彼にとって幸せなものなのだろうか。

簡単なはずなのに難しいこの今と言う時間が、男の前を流れていく。

彼は今の中に、今までの過去、そしてこれからの未来を見て、そしてまた、舌打ちをしていた。

もう一人、そんな苛立ちの絶えない大男の隣に小柄な、がりがりに痩せた老人がいた。

近所の小学生に、実はもう幽霊なんじゃないかと噂されてしまうくらい、がりがりで、ボロボロの服を着ている。

ものすごく彼を不健康に見せているがりがりに痩せこけた頬をたまにさすりながらじっと、釣竿の先の海のもっと奥を見つめていた。

隣の男の三分の一ほどの細さの身体を風に乗せてじっと座っている。

見た目だけでは大男の方が、経済的にも幸せなのかと思ってしまうかもしれないけれど、よくよく痩せこけた顔を覗いてみると、隣の大男にはない穏やかな表情をしていた。

きっとこの男のことを幽霊なんじゃないかと噂している小学生も、この表情を見たら人間なんだと思うだろう。

この表情もまた、この男が今までの人生で体験したもの、時間、人々、その全てによって作り出されたもの。

彼は、幸せだったのだろうか。

それは彼にしかわからないが、少なくとも、不幸せではなかった。

もちろん、彼の長い人生の中に不幸せな時間がなかったわけではない。

なぜだか泣きたくなる夜だってあったし、大切な人を失った悲しみや虚しさに涙した日だって、一生懸命やったことが報われなくて絶望した日だって、他人を羨み、妬んだ時だって、あった。

でもそういう時間をひっくるめて、彼は彼の人生を不幸せではなかったと思っている。なんなら、世界で誰より幸せな人生だったとも。

もちろん彼は世界中の全ての人の幸せを知っている訳がないので、あくまで彼なりの指標だが、そう言い切れてしまうくらい、彼は人生が幸せだったと思っていた。

そんな彼の人生の凝縮、つまり今が、この穏やかな表情だ。

彼の幸せは証明されている。

彼自身によって。

隣では大男が釣れない魚と不幸せだと思ってしまった人生に貧乏ゆすりと舌打ちを添えていた。

いつまでたっても釣れない魚、ずっと同じように繰り返し流れる波、一定のリズムを刻む海。

そして流れる、みんな同じだけどみんな違う今という時間。

それら全てに大男は苛立ち、痩せこけた男は笑っていた。

ふと大男が口を開いた。

「釣れないのになんで笑ってるんだ」

やはり苛立ちながら聞く。

「釣れないということは私を想像されてくれるからね」

穏やかな顔をして楽しそうに答えた。

「想像?」

「私が釣れないということは、他の誰かが魚を釣っているのかもしれない。だとしたらその人は今日魚を食べることができるかもしれない。幸せな気持ちになることができるかもしれない。もしかしたらその人は家族と幸せを共有できるかもしれない。すごいことじゃないか?一匹の魚が、家族みんなを幸せにするんだ。一匹が三人、四人、五人、それ以上かもしれない、そんな人数を。そう思ったら自分が釣れなくても、幸せをお裾分けしてもらったような気持ちになるんだ」

「でもそんな奴いないだろう」

「わからないじゃないか。わからないということは悪いことばかりじゃない」

「でももしいなかったらどうするんだ」

「その時はその時で釣られて死ぬはずだった魚が生きてるということに喜びを覚えるよ。それは確実だろう」

「お前なんのために釣りしてるんだ」

大男は呆れたように言った。

身体中から溜めた息を吐く間も、貧乏ゆすりは止まらなかった。

「他の誰かの幸せを感じて自分も幸せになるためさ。まあ、言ってしまうならエゴだね」

「でも結局お前だって釣るんじゃないか」

「私は釣れたことないよ」

「釣れたことが、ない?」

大男はまるで見たこともないようなものを見たと言うふうに目をかっぴらいた。

大男はいつも自分の釣れた数を気にして、気にしているくせに、多く釣れた時だった日だって満足したことはなかった。

それなのにこの男は、一匹も釣れないのに幸せを感じられるというのか。大男はそれが信じられなかった。

「うん、よっぽど運がないのか、あると言うのか、一匹も釣れたことがないんだ。もしかしたら魚に嫌われてるのかもね」

付いている笑い皺をさらに深くしてはははと笑った。

大男はふっと鼻で笑う。

呆れた男だ、そう思った。

でも、なぜこの男の方が自分よりもはるかに幸せに見えるのだろうか。

大男は劣等感にも似た感情を覚えた。

それは大男にとっては新しいものではなくて、むしろいつも彼に付きまとう感情だったはずなのに今、男は新しい感情を覚えたような気持ちになった。

ーーー幸せとは。

「幸せって、自分の見方次第なのかもしれないねぇ」

自分自身に対して呟いたような老人の言葉に、大男は今までの自分の人生、今を振り返っていた。

自然と、貧乏ゆすりは止まっていた。

釣れない魚と揺れ続ける海、そして幸せそうに笑う老人を前に、彼は彼にとっての幸せを考え続けていた。

大男は、人生で初めて、幸せな気持ちになった。

そして、彼は初めて、彼の人生を幸せな人生だったと思った。

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