探偵
探偵が、余命いくばくもない老人から、ある女への伝言を依頼される。依頼の真の目的は、女の現住所を知ること。女の住所を知った老人は、電動車椅子で公道を行き、自力で女の住居に行こうとする。探偵は、老人が無事に女の家に行けるのか気になり、電動車椅子で移動する老人を密かに車で尾行する。夜を徹しての奇妙な追跡劇の末、夜明けとなり、ようやく老人は女の家の前にたどり着いたのだが。
登場人物の過去に何があったかの説明はない。
ただ、最期を迎えた老人の一途の行動を描く小品。
探偵
1.
雨上がりの路地裏。水溜まりを避けながら、独り、男が歩いている。その男は、背が高く、胴回りも太い。体重はあるはずだが、気球に似ていて、身軽に見える。
鉛色の空の下、灰色の壁と壁の間を、軽快な足取りで、その男が、歩く、歩く、歩く。
「おっと」蹴つまずき、男の歩調が乱れる。この狭い路地は、所々、舗装が剥がれていたりして、がれきなども転がっている。
どこからか、ギターの音色が聴こえる。
エキゾティックなメロディーで、テンポが速い。
なぜだか、男の軽やかな足の運びに曲のリズムが合う。
男は、大きめのアタッシュケースを手にしているが、彼が持つと、ひどく小さく見える。
立ち止まった。
ポケットからメモを取り出し、周囲を見回している。そして、再び歩き出す。
どうやら、道が間違っていないか確認したようだ。
上機嫌に、身体を揺すり、かすかに鼻歌など歌いながら、その男は、歩く、歩く、歩く。
2.
廃屋めいた平屋建ての建物の前で男は足を止める。
朽ちかけた灰色のドアの前に立ち、錆びの浮いたノブを握る。鍵はかかっていない。湿った音をたてて、扉は開いた。
男は、一歩室内に足を踏み入れて、中の様子を窺う。
暗い。
かび臭い。
床板のきしむ音が、耳に厭に響く。
男は、床が自らの体重に耐えられるのか、不安を感じながら室内に入る。
間違えたのか? 誰もいない? いや、居た。部屋の奥の隅。暗がりの中に、廃品同様のベッドが一つ。その上に、ボロ切れのような布団が敷かれ、布団の端から、確かに人間の顔がはみ出ている。
高齢の男。頭部には、薄く短い白髪をわずかに残すばかりで、顔面の皮膚は、乾き切っている。身体は、あまりに薄っぺらで、布団の下に、人体があるようには見えない。
生きているということは、布団のかすかな上下の動きで分かる。目は、閉じているようでもあり、わずかに開いているようでもある。瞼の間に、灰色の瞳が見えている。
「お休みのところ、申し訳ない。」
男は、アタッシュケースを持って立ったまま、足もとから声を掛ける。
ベッドの男は、ゆっくりと、少し頭を持ち上げ、「探偵かね?」かすれた声だ。
「ええ、まあ。」曖昧に答える。
「そうか。来たか。」ベッドの男の声は、少し明瞭になってきた。緩慢な動作ではあるが、身体を起こそうとする。
探偵は、手助けもせずに、じっと見守る。
やがて上半身を完全に起こすと、男は咳き込んだ。ぜいぜいという息の音が、長く続く。
ひととおり、咳の発作が治まると、男は、枕の下に手を突っ込んで、何か引き出そうとする。それだけの動作が、容易ではなさそうだ。
ひからびた手が、1枚の写真を取り出した。
「これだ。」探偵に渡そうと、その手を伸ばす。
探偵は、近付いて受け取り、「この女を探せと?」
男は、無言でうなずく。声を出すと、咳が出そうで、息を止めてこらえている様子。
「写真だけ? ほかに、手掛かりは?」探偵が訊くと、
「書類。」とだけ答える。そして、再び枕の下に手を入れて、さらに奥の方から、しわくちゃの紙が数枚重なったものを取り出す。
探偵は、受け取り、広げて見る。茶色に変色した不動産登記簿謄本。土地と建物と、それぞれ1通ずつ。探偵は、書類に目を通し、かつて、小さな一軒家が、男から女に贈与された事実を知る。「この女が、この人?」探偵は、登記簿謄本と写真を交互に指さし、尋ねる。
男は、3回、深くうなずく。
「この女を、探し出して、そして、次にどうすれば?」探偵は、依頼の趣旨を尋ねる。
「どうすることもない。」男は、咳交じりに答える。「ただ、伝えて欲しいことがある。」
探偵は、何も言わず、じっと男を見つめながら、視線で、伝えるべきこととは何か、と訊く。
「もう、長くはない、と。」男は言う。
「あなたのこと?」
男は、うなずく。
「それだけ?」
さらに、うなずく。
「それを、伝えるだけで、いい?」
「それで十分だ。」
3.
久しぶりの仕事で、探偵には、ほかにやることがなかった。
町を歩いてみる。
女の住所は、すぐに分かる。登記簿謄本に記載された建物の所在地に、いま住んでなければ、住民票を追うだけのこと。
電話は、携帯に転送されるから、事務所に行く必要もない。
気儘で、いい。
でも、腹が減った。
ダイニング・バーに入ってみる。昼はランチを出す店のようだ。いかにも二流だけど。
暗い店内の、できるだけ隅っこの席に座る。メニューを見る。困った。これというものがない。でも、なにか食わなきゃ。
かろうじて、口に入れられそうなものを発見。
注文を取りに来るのを待つ。
待つ。待つ。待つ。
待って、待って、待った。
誰も来ない。
この俺という客が来たのを、気付いていないのか?
こんな、でかい俺がいるってのにか?
いつまで黙ってたら、気が付くのかな?
根比べ。
10分。20分。30分。
負けた。
ここの店員には、客席に気を配る、という考えが、ないらしい。
無言で店を出た。
誰でもいいから、殴りたくなる。
人を殴る代わりに、地面を蹴る。
くそっ。意味ないね。
通りすがりの人が、「あいつ、何してんだ?」という目で見る。
何していようと、俺の勝手だ。
それはそうと、何か食わなきゃ。
結局、おのれの美学に反する小汚い店で、平々凡々なランチを食った。
いいさ。腹の足しになれば。
飯を食えば、眠くなる。
車を停めた場所に向かう。
車は路上駐車。パーキングメーターは、126分を示している。やばい。もう少し放置していたら、レッカー移動されたかも。
エンジンをかけて、隣のパーキングメーターに移る。
これで少し眠れる。シートは倒さず、そのまま寝る。
数十分後、ハンドルに額を乗せた状態で目を覚ます。
滑稽だね。
伸びをして、外を見る。
1人の子供を連れた夫婦らしき男女が歩いている。子供は8歳くらいかな。
子供が、何か言ってる。それを父親らしき男が聴いている。子供の口元に、必要以上に耳を寄せながら。
当人たちは、平和なのかな。それとも、全然、平和じゃない?
あの父親は、満足している?
家庭内では、愚痴を言ってる?
それとも、満足しているふりを、しているのかな?
そうして、密かな不満を、意識のどこかに秘めている?
どうでも、いいか。
携帯が鳴る。
うるさいな。
わかったよ。ギャーギャー騒ぐな。
やむを得ず、受信ボタンを押して携帯を耳に当てる。
「もしもし。」不愉快そうな女の声が、聞いているこっちの気持ちまでも、すっかり不愉快にする。女は、しきりに何かを訴える。
「わかってるって。」
向こうは、いろいろ言っているが、およそ聞く気になれない。
「ああ。そうだ。わかってる。」と、答えておく。実際、何もわかっていない。
さらに生返事をして、電話を切る。
くそっ。せっかく気持ち良く目覚めたところなのに。
苛立つ心に、安静をもたらすには。
道行く女性の姿を見る。
あほづらばっかり。
しかし、たまに、ぞくっとする女が通る。
でも、見てたって、仕方ないってもんだな。
町中で、いきなり声を掛けるわけにもいかんだろうし。
俺が声掛けたら、脅えるだろうな。
エンジンを掛ける。
気持ちが荒れてる。
誰かと、出会えそうな場所は?
ない。
時間的に、早すぎる。
夜なら、バーにでも行けば、誰か居るだろう。
もっとも、そう思って行って、期待通りだったことは、ごく稀だ。
それでも期待して行く。そして、はずれる。
バカだよな。
何してんだろ。貴重な時間の浪費。
貴重な時間?
こんな人生そのものが、時間の浪費。
車を出す。
この場から、すっとんで行きたい。
でも、信号で止められる。
長い信号だ。いつまで赤いバカ面して突っ立ってんだ。
日本の信号の長さは、人間の心理的我慢の限界をはるかに超えている、という説を、誰も唱えないというのは、確かにひとつの奇跡に違いない。
退屈。
ふと、すぐ近くのビルの窓の中を見る。
なんかのオフィスらしい。
こじんまりとしているが、明るい電灯に照らされて、室内は妙に温かい雰囲気。数人が、各自Zライトの下でデスクワークをしたり、お互いに談笑したりしている。
なごやかだな。
陽気に笑ってやがる。
表面だけかな。もしかしたら、本当は、いじめとか、軋轢とか、いやな人間関係や、つらい仕事もあったりして。
それとも、本当に楽しく仕事してるのかな。
もし、そうなら、なんで、そんなことが、彼らには可能なのかな。
どんな仕事してんだろ。
なんにしても、現にあそこで、あんな風に働いている人たちがいるってのに、なんで、俺は、今、ここに居て、あそこに居ないんだろ?
あのオフィスと、俺との間には、数メートルの間隔、薄い壁とガラス窓があるだけだが、それでも、無限の距離がある。
くそっ。
やっと発進できる。
どっちへ行くんだ?
どうでもいい。
走りやすい道を適当に選んで、結果的に、郊外に出られりゃ、それでいい。
無目的に走ると、速度が遅くなる。迷惑かな?
公道を走行する時は、目的がなければ。そうでないと、運転そのものが煩わしくなる。早く、適当な目的地を決めよう。どこが、いい?
ええと、どこだ? どこだ?
ああ、もう、思いつかない。
そうだ、いつか行った、工場の跡地にするか。
倒産して、廃虚になってるやつ。
行き先が決まれば、普通に走れる。
そこの車、遅いんだよ。邪魔だってのに。ゆっくり走るな。ばか者。
ったく。右側の車線を、そんなに前車との間を空けるな。
クズども。嫌がらせか。
ところで、あの工場は、どこだっけな。
確か、運河の近くだった。
薄汚い工場地域の、薄汚い町並みを行き、薄汚い工場を見つける。
まだ建っていた。
図々しく、車で門の中に乗り入れる。
誰も居ない。
元は何かの製造機械だったが、今は単なる鉄屑のような物体が、あちこちに点在している。スレートの屋根、壁は穴だらけ。
水溜まり、ガラクタ、天井からぶら下がるワイヤー、チェーン。
死体のひとつや、ふたつ、ころがっていたって、おかしくない雰囲気。
車をとめる。
雲の切れ間から、日が差し込んだ。太陽の光が、廃墟となった工場の中に、どす黒い陰影をもたらした。
いい気分だ。
誰も居ない場所ってのは、いいもんだ。
もう一度、寝直そう。
女の住所が明らかになったら、すぐに会いに行って、任務を果たそう。
4.
3日後、巨体の男は、朝早く起きた。
早朝の覚醒は、久しぶり。
昨夜、例の女の現住所と思われる場所が分かった。
今日は、試しにそこに行ってみる。運良く、女がいたら、目的を達成できる。
多少、道が混んでいても、車で1時間半足らずで行けるかな?
それほど遠くない。
朝食は、そこそこに。身支度を整えて、早速車に乗る。
朝はエンジンのかかりが悪い。こいつも古くなったな。でも、買い替える気には、ならない。愛着がある。金はない。
良く晴れたな、と思いきや、時々、巨大な雲が日を遮り、暗い影を差す。
町中を走っているうちに、次第に雲の密度が濃くなっていく。
走り出して半時間、天空はすっかり厚い雲の絨毯で覆われた。
いいんだ。この方がいい。
未知の人間に会うのだから、曇天の方がいい。
道に迷う気遣いはない。
人間カーナビと呼ばれる男。一度、地図を見たら、まず間違いなく目的地に着ける。
しかし、朝食を軽く済ました影響が出てきたな。
腹が減った。
早めのランチにするか。
目に付いた軽食屋の駐車場に車を止めて、安っぽいドアを開けて店に入る。
店内には、誰も居ない。
意識的に音を立てて、椅子を大仰に引いて座ると、奥から人が出てきた。
若い、スレンダーな女。
いいな。
なんで、こんな所に、あんな女が居るかな。
彼女は、水を持って来た。
水より、他に飲みたいものがある。
頭の中で、彼女を裸にしてみた。
この女が相手なら、きっと、久しぶりに興奮できるだろうな。
「お決まりですか。」
いや、お決まりじゃない。
「決まりましたら、呼んでください。」そう言って、彼女は立ち去る。デニムのパンツに包まれた、尻の動きを目で追う。
少し、かすれた声だな。
腹が減ってたんだった。
メニューを見てみると、「スコッテエッグ」と書いてあるのを、発見。
ダメだな。メニューのチェックがおろそかだ。
早速、さっきのウェイトレスを呼ぶ。
「あのね。このスコッテエッグってのは、スコッチエッグとは違う、何かそれに似た、別のオリジナル料理かな?」
彼女は、訳が分からん、という顏で、探偵の顏を数秒間見詰める。そして、「ちょっと」と言って、メニューを手に取って見る。「あ。」彼女は、メニューを返しながら、かすかに笑って、「ほんとだ。スコッテエッグになってる。」
「うん。」と、探偵。ほんとは、もっとウケることを期待していた。仕方なく、「じゃ、これを。」
彼女は、無言で立ち去る。
できた料理を運んで来た彼女を、長く引き止める方法を考えてみた。
考えているうちに、彼女は立ち去った。
ま、いいか。
彼女は、カウンターの一番奥の椅子に座りながら、雑誌を読み始める。
「なるほど。」探偵は、聞こえよがしの声で、「これは、確かに、スコッチエッグではなく、スコッテエッグだ。中の卵が、周りの肉の部分から、スコッて、抜けたよ。」
彼女は、雑誌に目を落としたまま、全く反応を見せない。
ほかの客がいなくて、良かった。
この状況を、第三者に見られていたら、食事を続けることはできない。
聞いてなかったんだろな。
そういうことにして、スコッテエッグを平らげた。
レジの前に立って、探偵は、これが最後のチャンス、と自らに言い聞かせる。でも、いいアイデアは浮かばない。
彼は、お釣りを受け取りながら、目一杯優しげな笑顔を作って、「ありがと」。
彼女は、笑顔を返さずに、すぐさま奥に引っ込んだ。
さて、仕事。
目的地に向かって、寄り道せず。
やがて探偵の車は、荒涼とした風景の中を進む。
田舎でもなく、都会でもない。
いわば都市の中の、忘れられた地域。
車窓の外に広がるのは、灰色の町。
点在する廃屋同然の住居。
雑草の生い茂る空き地。
錆びた有刺鉄線。
瓦礫。
廃材。
塗装のはげ落ちた廃車が、そこいらじゅうに放置されている。
いわゆる目的地周辺、という所に至った。
車を道路脇にとめ、エンジンを切る。
あとは、歩いて探そう。
車を降りて、しばらく行くと、ディーゼルエンジンの轟音が聞こえてくる。
大型トラックが、路上にとめられ、キャビンが倒され、エンジンルームが剥き出しになっている。男が1人、工具を持って、作業中。故障か? 点検か?
どっちにしたって、いい迷惑だ。
あたりにたちこめる、排気ガスの臭い。
ふと、立ち止まる。
腐ったような建物に、腐ったような喫茶店がある。
場所がら、あり得ないように思えるが。
営業しているか?
よしんば、営業しているとしても、入って大丈夫かな。
でも、丁度、その店を過ぎると、急な下り坂になっていて、その坂の下に、目指す家があるはず。絶好の位置関係。
店内に電灯が点いているのを確かめると、わざと音を立てるように、どんと押して、ドアを開ける。
ちゃんと、返事があった。やってるらしい。
意外なことに客が居る。付近の住民が、無駄に時間を過す溜まり場のようだ。
うまく道路側の窓際の席が空いている。そこに席を占めると、紅茶を注文した。まずいコーヒーは飲めないが、まずい紅茶なら飲める。
双眼鏡を取り出す。
窓越しに、目指す家を見てみた。
あれだ。
小さな、2階建ての古い家。
コンクリートのブロック塀と、狭い庭が見える。
2階の窓が開いていて、暗い部屋の中が、ほのかに見えた。
女だ。
例の女かな。
いや、若すぎる。
ベッドの上で、仰向けに寝転がり、背中を持ち上げ、両足で自転車こぎの運動をしている。
ショートパンツから伸びた、長く美しい足。ふくらはぎの形が良い。
しばらく眺める。
顔がよく見えないのが惜しい。
店の主人が、紅茶を持ってきた。
双眼鏡から目を離さずに「はい、ありがと。」と言う探偵を、変質者でも見る目で見て行く。
さらに偵察を続ける。
玄関が開いて、女が庭に出て来た。
例の女だ。間違いない。
写真を取り出し、確認。
女は、手に布類の詰まった籠を持っている。これから、洗濯物を干すようだ。
まだ熱い紅茶を一気に飲み干し、レジに急ぐ。
お釣りは、やっぱり、要る。
早く、よこせ。
あせって、店を出る。
坂を小走りに下る。
例の家の前に着き、しばし観察。
呼び鈴の類は、見当たらない。
錆だらけで、触りたくない、きたない鉄の門扉を、そっと指先で押して、開けてみた。
気付いてくれない。
女は、面倒臭そうに、ゆっくりした動作で、籠の中の布の一端をつかみ、ぐいぐい、と引っ張っている。布は絡み合っていて、容易には取り出せない様子。つん、つん、と引っ張られた布が籠の中の布の塊から離れると、女は、それを空中で振って広げ、物干しに引っ掛ける。
「すんません。」探偵の場違いな声が響く。
女は、びくっと瞬間的に飛び上がり、声のする方を振り返った。
「いや、申し訳ない。驚かせてしまって。」
女は、不信の目で男を見る。
確かに、男の風体からすると、こんな男が、日中、普通の家庭を訪れるのは、怪しいに違いない。
女は、冷静を装い、「なんでしょう?」
探偵は、まず自分の名前を名乗り、人を探していると述べ、探している女の名前を明らかにして、会話の相手が、その人物に該当しているかを確かめる。
女は、間違いなく、それは自分だと答える。
そこで、探偵は、ある人物の依頼で訪ねてきた、と、自らの出現の由来を説明する。
そして、その依頼者の名前を告げる。
依頼者の名前を聞いても、女には、さしたる反応がない。
そこで、「聞き覚え、ありますか?」と、訊く。
女は、考えるまでもなく、「知ってます。」と即答する。簡潔な答だ。
そして、女は、「それで? それで、何か?」と、尋ねる。
「その人は、つまり私の依頼者は、もう、長くはないそうです。ご病気と思われます。余命いくばくもないようです。」
女は、不思議そうに探偵の言葉に耳を傾けていたが、「それで? それが、何か?」と、さらに尋ねる。
それが何か、と訊かれても、返答に困る。
沈黙して立っていると、家の奥から、どかどか、と足音がして、
「ちょっとお」と、若い女性にありがちの、けだるい声がした。「私のブラジャー、どこへやった? これと、お揃いのやつ。」と言いながら、庭に面した居間に現れたのは若い女。下半身をぴっちりと包む小さなパンティ以外には、何も身に着けていない。片手で持ったタオルを肩に引っかけて、もう一方の手で自分の腰を指している。さっき美しい脚を観賞させてくれた娘に違いない。居間のガラス戸は開け放たれているので、その姿は庭からまるっと見えている。胸に垂れ下がったタオルの両側で、美しい淡紅色の乳首が揺れている。
「なに、その格好はっ。」女が、怒鳴る。「お客さんがいるのに。」
「あ。」娘は、さして驚いた様子もなく、踵を返すと、「ごめんなさあい。」と歌うように言いながら、奥へと足早に引っ込んだ。
呆然としている探偵に、女は、再度、「あの、それが、どうかしたんでしょうか?」
「いや、」探偵は、我にかえって、「なんでもありません。単に、それだけのことです。それだけ、伝えてほしい、ということなので。」
すると、女は、納得したような表情で、中断されていた洗濯物干しの作業に、再び取り掛かり始めた。
探偵は、軽く会釈して、その場を後にした。
任務は完了した。
5.
帰ったら、依頼者に報告せねば。
どうなったか、気にしてるだろう。
しかし、すぐに依頼者を訪ねる気には、ならなかった。
あのカビ臭い陰気な部屋の中で、死にかけの老人に、「女に会って、伝えて来ました。」とだけ言う?
間抜けだな。やる気にならん。
できれば、このまま、曖昧うやむやに日々を過ごしたかった。
でも、そうは、いかんのだ。
まだ、報酬をもらってない。
あの高齢の男は、電話なんぞ、持っていない。
手紙を書いても、あの住居に郵便が届くとは思えない。
くそっ。やっぱ、行かなきゃ。
とはいえ、他の依頼があったので、そっちに掛かり切りになる。
よくある、素行調査ってやつ。
結局、浮気の現場は押さえられずに終わった。
10日間尾行して、怪しい行動は全くない。でも、依頼者は、納得しない。
「どうします? 続けますか? やめますか? それとも、少し、間を置いてから、調査を再開しますか?」
この質問に、依頼者は、憮然として、「考えてから、結論を出します。」
その後、その依頼者から、一向に連絡がない。今ごろ、他の探偵を当たっているだろう。
誰がやったところで、結果は一緒。
あんたの旦那は、もてる男にゃ見えない。いったい、何を心配してんだ?
くだらない素行調査を終えてから、4日ほど経過して、ようやく例の依頼者に会いに行く気になる。
その日も朝、小雨が降る。
前回と同様、高齢の男は、ベッドに寝た状態で探偵を迎えた。
「会えました。」と、簡潔な報告。「あなたが、長くはないことは、確かに伝えました。」
男は、ベッドの中で上半身を起こし、「そうか。」と言ったきり、それ以上、何も尋ねない。彼女は何か言っていたか? などと質問をしない。彼女が無反応であることは、分かっているのか? 「会えた、ということは、居場所は分かったんだな。」
「へ?」
「彼女が住んでいる所は、分かった訳だ。」
「ええ、もちろんです。」
「では、住所を教えてくれ。」
探偵は、求めに応じて、調査の結果判明した女の住所を男に告げる。
「何か、紙に、大きめの字で、書いてくれ。」
探偵は、アタッシュケースの中から、便箋を取り出し、一枚むしり取る。内ポケットからペンを抜き、紙一杯のスペースを使って女の住所を書いて渡す。
「ここへは、どうやって、行けばいい? 具体的な行き方、道順を、地図で示して欲しい。」
難しい注文だな。
「ずいぶんと遠いですよ。地図なんぞ、どうするんです?」
「行くのさ。訊くまでもない。」
「行く? あなたが? どうやって?」
「あんたを雇えば、彼女の居場所が分かると思って、準備しておいた。」
「準備?」
ベッドの男は、部屋の隅を指さし、「あれを持って来てくれ。」
指さす方向を見ると、部屋の隅の暗がりの中に、灰色のビニールをかぶったなにやら巨大なかたまりがある。
「あれですか?」
男は、うなずく。
仕方なく、かたまりを引きずって、ベッドの傍まで移動させる。重い。
「カバーを外してくれ。既に組立は終えている。すぐに使えるんだ。」
使えるって、なんだ? と思いながら、ビニールの覆いを取り除けると、中から現れたのは、真新しい電動車椅子。
「組立は、ご自分で?」
「まさか。業者がやった。俺はそれに乗りさえすれば、どこへでも行ける。」
「しかし、これであの家まで?」
「そうだ。」
「交通の便の悪い所です。電車もバスもない。車で行くしかない所ですが。」
「これが、俺の車だ。」
「無理です。本物の車で1時間以上は掛かります。」
「これなら、1日がかりかな。」そう言うと、男は、かさかさと妙な声で笑った。
狂っていらっしゃる訳だ。でも、この狂気は、何か、現実になりそうな、不思議な力を秘めているように思える。
「そういうことでしたら、ここから彼女の家までの道順が、総て分かるような地図を用意して、ここへ送りましょう。ここに郵便は届きますか?」
「ふん。」男は憤然と鼻で息を吐く「ここまで郵便配達がやって来たためしは無い。」
「では、お届けしましょう。」
「いつになる?」
「急ぎましょうか?」
「そうしてくれ。」
探偵は、3日以内に地図を持って来ると約束して、退去する。
地図は、様々な縮尺のものを用意した。女の家の周辺は、最も縮尺の大きい、住宅が一件一件表記してあるやつ。そして、その地域を含んだ、より小さな縮尺のものを、段階的に数種類調達する。最も小縮尺のものには、女の家と、依頼者の住居の両方が含まれている。さらに、おそらく最短コースと思われる経路に沿って、中縮尺の詳細な地図を、依頼者の住居から女の家まで、途切れないように揃える。こうすれば、よほどの方向音痴でない限り、目的地にたどり着けるはず。
探偵は、地図上の女の家に印を付け、丁寧な解説も付けて、用意した地図を束ねて書類袋に入れた。
作業を終えて窓の外を見る。既に日が暮れかけている。
でも、いそいだ方がいい。あの老人は、今か今かと待っている。
さあ、出発。
車は、依頼者の住居から、あの女の家に向かうなら、その途中、間違いなく通るはずの道の、目立たない場所にとめた。
書類袋を持って、件のきたない家に向かう。
ドアを開けると、男は、すぐに上体を起こして、探偵を鋭く見詰めた。
以前より、体の動作が早い。
「ご依頼の地図です。」とだけ言って、袋を手渡すと、探偵は、とっとと立ち去った。
急ぎ足で、車に戻る。
あの男のことだ。地図が手に入ったら、直ちに行動に移るに違いない。
エンジンをかけずに、窓を閉じた車の中で待つ。
待つ。待つ。待つ。
来ない。来ない。来た。
あの男の住居に通じる細道から、電動車椅子が、よたよたとゆっくりした速度で現れた。
ちゃんと服装を整えてやがる。よく着れたもんだ。服を着ているだけじゃない。なにやら、黒いバッグを持っている。ショルダーバッグのようだが、ストラップは首に掛けて、バッグは膝の上に乗せて両手を添えている。何を入れているのか?
老人は、電動車椅子の使い方は心得ているのか、障害物だらけの歩道を、難なく前進している。
探偵には気付かずに、脇を通り過ぎた。
無言で、じっと前方を見据え、器用にコントロール・スティックを操りながら進んで行く。
探偵は、気付かれない距離まで離れたことを見極めると、エンジンを掛けて車を出す。少し走って、車椅子を見つけると、再び、見失わない程度に離れた場所に車を止める。相手の進行方向を、慎重に見極める。
こうして、人が歩くほどの速度で走る車椅子を、探偵の車は、付かず離れず護衛した。
窓を閉めたまま、エンジンを切って停車していると、次第に車内が蒸して来る。こうしてついて行くのが、つらくなる。
しかし、車椅子の方は、全然めげていない様子。
止まるということを知らないかのように進んで行く。
車椅子が止まるのは、信号待ちか、人間の集団や横切る車の通過を待つときだけ。物理的に進行が可能な限り、ひたすら前進する。
さっきから、水も飲んでいないようだが?
探偵の心配をよそに、車椅子は進む。
疲労困憊してきたのは、車を運転しているほうだ。
「タフなやつ。」
休息を取る、ということを、知らないのか?
走り始めると、止まれない性格なのか?
開き直って、付いて行くしかない。
とことん、付き合おう。
しかし、さすがに、飲まず食わずは、つらい。
気付かれないように車を降りて、コンビニに飛び込む。トイレを借りた後、適当にサンドイッチと缶紅茶を買って、車に戻る。
まだ、全行程の半分も経ていない。
それにしても、やつは、休憩を取らない。
いいさ、好きにさせておこう。
出発から既に3時間近くが経過した。
突然、それまで快調に進んでいた車椅子が停止し、男は何か思案している。
ふと顔を上げ、すぐ脇の一戸建ての家を見詰める。何の関係もない家だが。
どうした? 道を訊くのか? 地図は完璧だし、今のところきわめて的確に、あの女の家に向かっているが?
男は、車椅子を90度回転させると、その家の門を通って、中に入った。玄関の前まで行き、ガラス戸を拳でたたいている。しばらくすると、中から若い男性が出て来た。なにやら話している。会話の内容は聞こえない。短いやりとりの後、老人は黒いバッグの中に手を入れて、中から何か紙片のようなものを取り出す。若い男はそれを受け取り、数え始めた。金を渡したようだ。それも多額の。数え終わると、若い男性は家の中に入っていった。車椅子の男はそのまま待っている。いったい、何だ?と見ていると、若い男が、延長コードのついたテーブルタップを手に持って、再び玄関口に現れた。車椅子の男は、それを受け取ると、苦しそうに上半身を屈めて椅子の下を手でごそごそ探っている。やがて電源コードのついたプラグを取り出すと、テーブルタップに差し込んだ。
充電かい。
でも、お陰で、こっちは仮眠の機会が与えられそうだ。
探偵は、携帯電話のアラームを、1時間後にセットして、シートの背もたれを倒す。寝る前に、エンジンを掛け直し、窓を開ける。こうしないと、暑さで目を覚ますことになる。
アラームに起こされるまでもなく、蚊の羽音で目が覚めた。
くそっ。窓なんか、開けるんじゃなかった。
さっきの家の玄関の方を見ると、相変わらず、充電の最中。
男は、あたかも自分が充電されているかのように、車椅子の上で上体を直立させ、微動だにしない。
さぞ、家の人には迷惑だろうな。金の力とはいえ、奇特な人が居るもんだ。
目が冴えた。
退屈だが、充電が終わるまで付き合うしかない。
容量の多いバッテリーで、時間が掛かるんだろうな。
必要なだけ充電して、さっさと再出発してもらいたい。
待っているうち、うとうとする。
再び、フイイン、という音で目が覚めた。また、あのにっくき蚊めが、と思いきや、車のすぐ傍を、車椅子が通り過ぎて行く。
良かった。気付かれなかった。
付かず離れずの追跡が再開される。
しかし、だいぶ、時間が過ぎた。
大丈夫か?
幸い、郊外に出るにつれ、信号待ちで時間をロスすることが減り、進み方が早くなる。
でも、充電が必要、というのは、誤算だったな。
この分だと、目的地に着くころは夜が明けそうだ。
2人の男の、長い無言の時間が経過した。
いくつもの、相貌の異なる景色を通り過ぎる。
車椅子は、止まらない。ひたすら進む。
次第に夜が更けて来る。
全く同じ状況のまま、さらに時間が経過する。
腹は減らないのか? 水も飲まずに、平気なのか?
ここまでついて来た以上、見極めたい。
深夜になると、見失うのが恐い。
繁華な所はいいが、住宅街にはいると、街燈のまばらな所もある。
時々、車椅子は、闇の中に消える。
再び、明かりの中に姿を現すと、ほっとする。
閑静な所では、遠くからでも、車椅子のモーターの音が聞こえた。
突然、音のトーンが低くなり、途切れ途切れになる。
車椅子は止まった。
直角にターンして、すぐ脇にある家の門に近づくと、男は、何か棒のようなものを使って、インターホンのボタンを押している。
やがて出て来た家人との間で、再び交渉が始まる。夜中に電動車椅子で旅する老人の来訪は、さぞかし不気味だろう。ここでも金がモノを言ったとみえて、車椅子は門の中に通された。家の中で充電らしい。
さっき、充電には2時間以上かかったな。アラームを2時間後にセットして、今度は窓を閉めて寝る。
暑くて目が覚めた。
くそっ。窓なんぞ、しめるんじゃなかった。
車椅子は、まだ、充電中だろうな。
少し不安だが、待つ以外にない。
いいかげん、うんざりしたころ、軽快なモーター音を響かせて、車椅子が家の門から出て来た。
さて、これから、どうする?
まさか、夜中の間中、走り続ける気じゃ、なかろうね?
そのうち、食べるなり、眠るなり、休むなり、なんとかするだろう。
と思いきや、その予想は裏切られたまま、2時間、3時間、経っていく。
「勘弁しろよ。」
こっちの身がもたない、と、探偵は思い始める。
しかし、やめる気にもなれない。
眠い。のどが渇く。
見通しのいい通りに出た所で、再度、コンビニに駆け込み、水を買い込んだ。
車椅子の方は、小休止するでもなく、ただ走り続ける。
「本当に、生きてんだろうな。実は、死んでいて、魂の抜けた体が乗ってるってんじゃ、ないだろな。」
しかし、車椅子は、的確に向きを変え、障害物を避けて進んでいる。
「好きにしろ。俺は、修行のつもりで付いて行く。」
寝静まった町の中を、車椅子と、その後を追う車が行く。
薄明のころ、野良猫の活動が活発になる。
一匹の黒猫が、車椅子にけ散らされて、慌てて塀に駈け上がる。塀の上で振り返り、ゆっくりと進む無気味な椅子の姿を、じっと見詰めたものだ。
やがて、空が明るくなる。
徐々に世界は光を取り戻し、物の輪郭が明瞭になっていく。
道路脇に立つ標識の色まで、はっきりと分かるようになったころ、荒涼とした、あの地域に来た。
なんで、彼女は、こんな土地に住んでいるんだろ。
あんな若い娘と一緒に。
理由など、無いんだろうけど。
灰色の風景の中を、震えながら車椅子が行く。
あと一息、がんばれ。
起伏の激しい所では、車椅子の進行は、はかばかしくない。
例の喫茶店が視界に入る。
喫茶店に行くまでの道が、意外に上り坂であることに、初めて気が付く。
登れるか?
バッテリーは、残ってるんだろうね?
男の体力は?
ここまで、飲まず食わずだったね。
坂の頂上に着く。
朝日が差し、車椅子の金属が、一瞬、輝いた。
やがて、下り坂にかかる。
探偵は、車を進め、坂の上まで移動した。
ここまで来たら、男は、探偵の存在など、意に介すまい。
車椅子は、坂を下り始める。
徐々に加速して行く。
女の家に向かって、引力に引かれて行くように。
止まった。
目的の家の前で、車椅子は的確に止まった。
とうとう、着いた。さあ、女の家だ。
早朝の静寂。
探偵は、男の次の行動を見守る。
男は動かない。
探偵は、じっと見つめる。
一向に、男は動き出そうとしない。車椅子の上で、硬直したように不動のままでいる。
どうした? 臆しているのか? 勇気を出して、行動に移れ。
立てないのか? 介助が必要か?
車椅子ごと、庭に入って行けばいい。
鉄の門扉が開けられない? 手を貸すべきか?
探偵は、車を降りて、ゆっくり、男の許へ歩く。
男は、車椅子に座ったまま微動だにしない。
男の首に、探偵は指を当てる。
息はない。
瞼は閉じてはいるが、かすかに隙間が開いて、灰色の瞳が虚空を見つめている。男の顔には、苦悩も悔恨もなく、ただ力を出し切った後の安息だけが現れていた。
この仕事は、なんだったのかな? 探偵は、男のバッグを取り上げ、チャックを開けると、札を取り出し、自らの仕事に相当する金額を見積もって、上着の内ポケットに仕舞い込んだ。まだ、かなりの紙幣が残っている。バッグを男の首からはずし、女の家の門扉を開けて中に入ると、玄関前にそっと置いて立ち去った。
探偵の頭上に、カラスが飛び交っていた。
(完)