後ろを歩く僕たちは(前編)
*
問いかけ、その一。
芸術とは、何だろうか……?
「ねぇ、聞いた? 大講堂の話」
「聞いた聞いた。取り壊すんでしょ? この間の大雨で……雨漏りが酷くて講堂全部水浸しになったって」
春風に乗って、明るく軽やかな声が耳に届く。
「全部壊しちゃうんだっけ? 講堂は古かったから仕方ないと思うけど……」
「あの講堂のさぁ、入り口のところに掛かってるおっきい絵、ウチの大学の卒業生が描いたらしいよ! 知ってた?」
「え、そうなの? 知らなかった~」
問いかけ、その二。
芸術の意味、とは……?
「せっかく卒業生が描いてくれたならさぁ、絵だけでも残せばいいのにね」
高いトーンの声は、空高く、天まで舞ってしまいそうだと思う。
「いや、なんかね、絵の裏側? そっちまで水が入っちゃってて、もうダメなんだって。放っておくと腐っちゃうんだってさ」
問いかけ、その三。
芸術の価値、とは……?
「そうなのー? もったいないねぇ~、あの絵、結構好きだったのになぁ~」
「えー、そうかなー。私、あんまりよくわかんないや。何が描いてあるのか意味不明だし……なんていうの? ああいうの、抽象的?」
「たしかに。何が描いてあるのかは、ちょっとわかんないよね」
問いかけ、その四。
芸術の評価とは。一体、何であろうか……?
風は止むことを忘れたかのように。優しく、けれど絶え間なく吹き続ける。
西侑人は、春風に煽られて顔に張り付いてくる前髪を両手で抑えた。切るのを面倒がって放っておいたら、ついに口のあたりまで伸びてしまった前髪だ。
左右に分けて、耳元にかける。くせっ毛であるせいで、ちっとも大人しく耳元に止まってはくれないけれど。
それでも、途端に広くなる視界。耳を出したせいで、風の音がさっきよりも大きく聞こえるようになった気がした。
聞かないように、努力する。
ザワザワザワ、声は其処此処に溢れて、皆、陽気だ。侑人が意識を閉ざすと、明るい声たちは風と共に笑いあって、ゆっくりと遠ざかる。
侑人の眼前には、取り壊される予定となっている大講堂。シンと静まりかえって、入り口の前には「立ち入り禁止」の札が掛けられている。
侑人は講堂のガラス扉の向こう側にある、壁を見つめた。内壁に掛けられているのは、四メートル四方の大きな油絵。
オレンジ色と朱色を基調として描かれた抽象画。大胆なタッチで置かれている暖色が、グンと迫ってくるようで。迫力と熱気と、活気、それに希望や未来への輝きが灯っているように見える。
(あくまでも、俺には、そう見えるっていうだけだけど……)
侑人は思った。
厚く塗られた絵の具の凹凸、一線のストロークの長さ、色の選び方。
(すごい、クセが、出てる……)
どんなに大きな絵も、人間によって描かれている。身長によって、腕の長さは違ってくるし、腕の長さが違えば、一息に描ける線の長さも変わってくる。
そこから考えれば、その絵を描いたのが、どの程度の身丈の人間か推測できる場合もある。
色選びや、テーマ選びからは、描いた人間の心模様も伺える。
絵には、描いた人間の様々な情報が滲んでいるのだ。
(個人情報流失、みたいで、気持ち悪い……)
どうして、こんなに堂々と、絵を飾ることが出来るのだろうか?
どうして、たくさんの人の目に留まる場所に、飾ることが出来るのだろうか?
恥ずかしくは、ないのだろうか?
怖くは、ないのだろうか?
無意識に険しい顔になっていたのだろう。侑人は眉と眉の間が痛くなってきて、親指と人差し指を使って揉みほぐした。
すると、背後で「カシャッ」という軽快な電子音と、「へっきしゅ!」という変な声が聞こえてきた。
侑人は、そっと後ろを伺い見る。すると、左斜め後ろに、男が立っていた。侑人は、自分の背後に人がいたことに、ちっとも気が付かなかった。周囲の声ばかりは、あんなにもよく聞こえていたのに。
男の視線は真っ直ぐに、大講堂へと向けられている。ついでに、スマートフォンのカメラレンズも、真っ直ぐに講堂へと向けられていた。
男は、鼻の頭が赤くなっていて、侑人が見ている間に、もう一度「へっくしょい!」とクシャミをした。スンスンと啜られている鼻は小さく、高くも低くもない。
(年齢は、俺と同じくらい……もしかしたら、年下かも……)
侑人は黙って、男を観察した。
(細身だな……身長は平均よりもやや低め……背負ってるのはギターケースか……? ケースがやたらと大きく見える……真っ直ぐな黒髪、クセ、なさそうで羨ましいな……)
瞬きもせず、ジッと見つめる。こうなってしまうと、もう止められない。
(髪は……襟足だけ少し、ほんの少し刈り上げてる。少しだけだから、これはオシャレスタイルみたいなもんじゃないな、単に邪魔だったんだろう……前髪は、左右で七対三くらいに分けて、軽く流してる。ワックスつけてるのか……眉は細め、目は大きめアーモンド形、つり目気味……)
頭の中の歯車がカチカチと動く。男の持つ細部の形、色味、雰囲気を、脳内に焼き付ける。
(黒縁のメガネ、これは完全にオシャレメガネってやつだろうな、目元に歪みが見えないから、度は入ってない。鼻が小さいから、口がちょっと大きめに見える。なんか、絶妙にバランス良い顔してるな……大きい口に対して唇が薄いのが良いのか……どういう比率だ……? 正面から見ないとわからないな……やっぱりまずは、目の特徴を押さえて……)
「随分とロックな熱視線だなぁ」
侑人が夢中になって見つめていると、男が声を出した。あまりにも急なことだったので、侑人は肩と足がビクッと震えた。
男は、視線を大講堂に向けたまま、スマートフォンも大講堂に向けたまま、クックックと笑っている。
「ちょっと待ってくれよ、まだ上手く撮れてないんだ」
男は言った。
「ガラス扉が日を反射するんだよなぁ。こういうのはどうやったら上手く撮れるんだ……?」
侑人は、話しかけられていることに、未だドクドクと心臓が鳴っている。左手で心臓の辺りをそっと押さえながら、
「ガ、ガラス扉に、カメラの画面を、くっつけてしまえば、反射は、しない」
そう答えた。
男は「おお!」と言って、侑人の方を見た。口の両端をニッと吊り上げている。正面から見た顔は、やはり絶妙にバランスが良く、整っていた。
「君、頭が良いな!」
男は早速、スマートフォンをガラス扉にピタリとくっつけて、ピントを合わせてから、数回シャッターボタンを押した。
カシャ、カシャ、カシャ、と乾いた音が響く。
侑人はその姿を、ただ見ていた。
男のカメラは、しっかりと講堂内の絵を写している。
(最近の携帯は、きれいに撮れるもんだな……)
侑人は思った。そして、自分も同じように撮ろうかとも思った。
けれど、それは止めておいた。目に焼き付けるだけで、十分だ。それ以上は、どうにも切ない。
しばらくすると、男は撮影に満足したのだろう。スマートフォンの画面を確認しながら、無言でウンウンと頷いた。
そして、再び侑人に向き合う。
「すまない、待たせたね。ところで君は誰だ? 俺のファンかな?」
随分と熱心に見つめてくれたじゃないか
男は言った。
侑人は、急に恥ずかしくなって、目を反らす。男は尚も楽しそうにクスクスと笑っている。
「なんだ、さっきはあんなに見てきたくせに。シャイなのか?」
おかしな奴だなぁ、と男は言った。
「だが、君のおかげで良い写真が撮れた。感謝するよ」
男は、再び視線を大講堂の方へと向けた。
「明日には、取り壊しがはじまってしまうと言うからね」
その声には、少しの憂いが含まれているように聞こえた。侑人は、恐る恐ると声を出す。
「……なんで、写真、」
撮ってたんですか、と聞こうとしたところで、男が再び「へっくしゅ!」とクシャミをした。着ているパーカーの袖口で口元を抑えながら。
男は細い眉を歪ませて、「あー……」と、声にならない声を上げた。
「やっぱり山の中にあるキャンパスというのは、いただけないな……二年までは平和だったのに……」
「花粉症、ですか?」
侑人が尋ねると、男は「ご明察!」と言った。先ほどから思っていたことだが、妙な口調の男である。
「俺は三年の柏木だ。君はココの生徒か? 今更だが、先輩かね?」
男が言った。侑人は首を振る。
「俺も三年」
「この大学の学生?」
「まぁ……」
「なんだ、じゃぁ同級生じゃないか」
柏木と名乗った男は、明るく笑った。
「君、名前は?」
「西」
侑人は答えた。
柏木は「西か、覚えやすくて良い」と言った。そして、ふぅむ、と考え込むように顎先に右手をあてながら、ジッと侑人の顔を見た。
「唐突だが、西よ。察するに、お前はゲイか? そして俺に一目惚れでもしたのだろうか?」
でなければ、先ほどの熱視線の説明がつかないのだが?
柏木の発言に、侑人はカッと頬が熱くなった。
「そんなわけ、あるかっ!!」
とんだ勘違いである。柏木は、まじめな顔をして「なんだ、違うのか」と言った。
「なに、高校の頃の友達にそっちのタイプのヤツがいてな。今時、そういうのは珍しいことでも、隠すようなことでもないだろうと思ったまでだ」
あまりにもフラットな態度の柏木に、侑人は困惑する気持ちになった。侑人の周りには、そういうタイプの人間はいなかったからだ。
「まぁ、君がどんなヤツでも、なんでもいい。これから同じキャンパスで学ぶ同級に変わりない。よろしく頼む」
柏木は、侑人に右手を差し出した。
侑人は、戸惑いながらも、その手を握る。握手をするという経験も、侑人の人生の中では、あまりないものだった。
柏木の手は、指が長く、薄かった。そして、春先なのに指先が氷のように冷たかった。
握手をした手が解ける際に、柏木の親指のささくれのようなものが、チクリと侑人の肌を刺した。
その微細な痛みは、侑人の全身を、そっと撫でるように通り抜けていった。
*
西侑人の通う大学は「東京上天大学」という都内の名門大学である。通称「東上大」。
文系から理系まで、様々な学部を備えている総合大学だ。
生徒数も多く、大学一年から二年までは文系、理系と別々のキャンパスで学ぶ仕組みになっている。
文系の中でもキャンパスは二カ所に分かれており、理系に至っては所属する科によって三カ所にも分かれている。
しかし、大学も三年生になると、文系理系関係なく、全員が同じキャンパスに集合することになるのだ。
二年生までは、皆、交通の便も良い都心のキャンパスで学んでいる。新宿や池袋、渋谷といった場所にあるキャンパス。賑やかで、遊ぶところもいくらでもあるような場所。まさに、大学生活を謳歌するに相応しい場所である。
だが、三年生からのキャンパスは違う。都内は都内でも、そのキャンパスは山の上にある。大人数の生徒全員を収容出来る、広大な土地。
山が丸ごと全部、大学という風になっているのだ。
都心から遠く離れた、ぎりぎり都内の片田舎。最寄り駅からはスクールバスに揺られて五分から十分ほど。もちろん、最寄りから歩いてキャンパスに向かうことも可能だが、その道筋は白目を剥きたくなるほどの傾斜の坂道である。完全に登山だ。大人しくバスで通うのが賢明というものである。
四月、山の上にあるキャンパスは肌寒く、まだちらほらと桜の花が木の枝にくっついていた。
「へっきゅしっ、」
もう何度目になるかわからないクシャミをして、柏木は顔をしかめる。
「これは明日から俺はマスク野郎決定だな……」
「大変そうだ」
「全くの他人事だなぁ~」
「俺、花粉症じゃないから」
侑人は、本当に他人事の顔をして、涼しい声で言った。
四月はじめの登校日は、三年生全員出席のオリエンテーションがある。柏木は、知り合ったばかりの侑人に向かって「オリエン、一緒にどうかね?」と誘った。
侑人には、断る理由もなかったし、あまりにも気楽に聞かれたので、反射で「うん」と答えてしまったのだった。
取り壊しの決まっている大講堂から、オリエンテーションの行われる大講義棟までは歩いて十五分ほどかかる。大講堂から、ひたすら真っ直ぐ、西に向かって歩いていくだけなのだが、とにかく敷地が広いものだから、移動も一苦労だ。
大学の一番東側に、取り壊される大講堂。一番西側が、大講堂と同程度の規模を持つ、大講義棟。
本来は、その名の通り、講義をするために使われる場所であるが、今日のオリエンテーションはそちらで行われることになった。
昨年までのオリエンテーションは大講堂で行われていたし、来年からも、新しい大講堂で行われることになるのだろう。
今年だけが、特別だった。
侑人は、柏木と二人、ゆったりとした足取りで、大講義棟を目指す。オリエンテーションがはじまるまで、時間にはまだまだ余裕があった。
侑人たちの他にも、早めに登校している生徒は沢山いた。それなりの人数がワイワイしているのに、窮屈だと感じないのは、やはり広大すぎる敷地のお陰だろうか。
大講堂から、西へ西へと進んでいくと、右手にはコンビニや学食のある生徒支援棟、左手には大きな図書館がある。更に西へ進むと、図書館と左右対称のかたちで学生課がある。
図書館と学生課の間に正門があり、生徒たちは、基本的にはそこから出入りをする。
図書館と学生課は、なぜだかオリエンタルな雰囲気を持つ造りになっていて、真ん中だけが太くなっている白い支柱が均等にそびえているのだった。
「西くんは、名前なんていうんだ?」
侑人が学内をキョロキョロと見ながら歩いていると、柏木が言った。
「侑人」
答えると、柏木は「ほう!」と明るい声を出した。
「やっぱり、アレか。そういう年代かな。なんか同級の友達、名前に「ゆう」のつくヤツ、多くないかね?」
柏木は楽しそうに言った。侑人は考える。友達は多いほうではないが、確かに中学の頃も、高校の頃も、同じクラスに「ゆうと」という読みの生徒がいた。他にも「ゆうすけ」「ゆうじ」「ゆうた」など、柏木の言うように「ゆう」がつく名前は多かった気がする。
「柏木は? 名前」
「俺も「ゆう」がつく口だ。柏木悠輝」
「へぇ」
「ゆうと、というのは、どういう漢字を書く?」
「ニンベンに、有る、無しの有る、それに人」
侑人は、空に指先で字面を書くようにして説明した。柏木は、ほうほうと聞きながら、まるで爺さんのような悟った顔をして「良い字だな」と言った。
「そっちは?」
侑人が言うと、柏木は「悠長とか、悠久の悠、って言えばわかるかな? はるか、っていう字に、輝くという字で、悠輝。画数が多くて面倒な字だ」と、困ったような顔で言った。侑人は、柏木の言葉に、その字面を思い起こした。
「でも、バランスの取りやすそうな字だな。きれいに書けるタイプの字だ」
侑人が言うと、柏木は「おお、ありがとう!」と素直に礼を言った。
(なんか、裏表のなさそうな……)
侑人が柏木という男に抱いた最初の印象は、そういうものだった。喋り方は少し変わっているが、悪いヤツではなさそうだと思った。
「これからは侑人と呼んでも良いかい?」
柏木は言った。
「……別に、いいけど」
侑人は、なんだかむず痒い気持ちになって答えた。
今日が大学三年のはじめの日であるという自覚はあったが、そこで新しい友達が出来るとは想定していなかった。
(というか、友達、なのか……? これは……?)
侑人は、友達と知り合いの線引きが、いまいちよくわからない。
「侑人は、学部はどこだ?」
柏木が尋ねた。ポンポンと話題を振ってくれるので、侑人は助かるなぁと思った。
二人は、学生課を横目に見ながら歩く。大講義棟までは、もう少しだ。
学生課を左に見ていると、右側には大きなグラウンドと部活棟、サークル棟が見えてくる。今日は初日ということもあって、どの部活もサークルも、活動をしている様子はなかった。
「俺は人間科学部の文化総合。柏木は?」
「文総かぁ~! 俺は社会学部のメディア社会だ。お互い、何を学んでいるのか、学部名ではよくわからんところだよなぁ~」
柏木はカラカラと楽しそうに笑った。侑人は「確かに」と思いながら、そういう、よくわからない学部だからこそ、自分はそこに入ったのだということを思い出す。
(何がしたいのか、何になりたいのか……)
自分のことが、全くわからなくて、それでなんとも曖昧な学部を選ぶことになったのだ。
「文総は二年まではどこのキャンパスだ? 俺は二年までは池袋キャンパスだった」
柏木が言った。
「俺は新宿。家から近くて楽だったのに……」
侑人は答えた。柏木は「わかる」と言った。
「俺も、二年までの方が近かったなぁ。三年から急に山籠もりだ。わかってはいたけれど、いざその日を迎えると、登校も面倒臭いよなぁ」
侑人は「そうだな」と言って、笑った。
そこから少しの沈黙。
大講義棟は、目前に迫って、周辺には生徒がちらほらと集まってきていた。
侑人は話題を探した。一度くらい、自分側から話しかけないと、と思った。
横目にそっと、柏木の姿を観察する。歩く度に柏木の背中と一緒に揺れている黒いケースが目に入った。
(ギター、弾くのか? とか……いや、そもそも、それギターか? という確認を先にした方が……)
侑人が考えていると、柏木がツッと視線を向けてきた。侑人の方が身長が高いので、見上げるような、すくい上げるような視線だ。急に目が合って、侑人はドッと心臓が鳴った。
「そういえば、さっき、なんで大講堂にいたんだ?」
柏木が言った。侑人は、それを言われて思い出す。そういえば、柏木は熱心に大講堂の油絵の写真を撮っていた。
なぜ、そんなことをしていたのか。侑人は、それを聞きたいと思っていたのだ。
「そっちこそ、なんで写真……撮ってたんだ?」
柏木は「うむ」と、へんな相槌を打ってから言った。
「あの講堂の絵、この大学の卒業生が描いたものらしいぞ」
柏木の言葉に、侑人は「知ってる」と平坦に答えた。
「おや、知っていたか。結構有名な話なんだなぁ」
柏木のまったりとした声は、ふわふわとしていて、猫が欠伸をしそうな雰囲気がある。時間の流れが、彼の周辺だけまろやかになっているような。そういう空気が、彼を見た目よりもずっと老齢な感じに見せているのかもしれない。悟りの境地を見開いた僧侶のようでもある。
「あの絵を描いたのは、俺たちよりも、九歳上の卒業生だそうだよ」
柏木は言った。
「詳しいんだな」
侑人は、喉の奥が少し苦い気がした。
けれど、頭の表層あたりは、期待にソワソワしている感じで、どうにも自分の心持ちが複雑である。柏木は、そんな侑人の心など知らず、続けて言った。
「実は、あの絵を描いた卒業生と、俺の兄貴が同級生でな。仲が良かったらしいんだよ。あの絵、明日には講堂と一緒に壊されてしまうだろう? そういうわけで、俺は我が兄に頼まれたのさ。あれは友達の描いた絵だから、壊される前に写真に収めてきて欲しいって」
侑人のお陰で、きれいに撮れたから満足だ
柏木は言った。侑人は思わず立ち止まった。
「どうした?」
柏木が、侑人よりも少し前方で立ち止まって、振り返る。侑人の手のひらに、温い風が触れて、吹き去っていく。
「あの絵、」
侑人は言った。
「あの絵、俺の、兄貴が描いた絵、なんだけど……」
心臓が、高鳴って、何かしらの運命を感じた。
(運命、とか……)
我ながらダサい考え方だな、と侑人は思った。運命ではなく、これはただの偶然であると考えるのが普通だろう。
しかし、運命だと思いたかった。何かしら、そういうドラマティックな展開を、あの絵に与えたかった。
明日になったら、なんの感慨もなく壊されてしまうだろう、あの絵に。
柏木は、侑人の言葉に目を見開いた。元々大きな目が、さらに開かれて、白目がキラリと輝いた。
「なんと……そいつはまた、ロックだなぁ」
柏木は、そう言った。侑人はロックという言葉の持つ響きには、あまり慣れなかったけれど。やっぱり柏木は音楽が好きなんだな、と思った。柏木は輝いた顔のまま言った。
「これは楽しくなってきた。侑人とは仲良くなれる気しかしないな!」
その声は、まるで歌うような滑らかさがあった。侑人は「それはどうかなぁ~」と答えた。
柏木は、今度は年相応の声色で「つれない!」と言って、侑人の脇腹辺りを小突いた。
*
柏木悠輝という男は、明るく、よく喋る男だった。
ムードメーカーとも言えるのだろうか、誰からも好かれるタイプのようで、友達も多い。侑人は柏木の隣に座ってオリエンテーションを受けていたが、柏木はひっきりなしに誰かから話しかけられていた。
「よ! 柏木~」
「柏木じゃん、おはよ」
「柏木くんやっほー!」
というように、男女問わず、みんな気楽に話しかけに来る。そのひとつひとつに、柏木は人懐っこい笑みで答えていた。
その間、侑人に話しかけてくる人間はいなかった。侑人は、別に友達がいないというわけではない。けれど、決して明るいタイプというわけでもないのだ。
「侑人は独特の雰囲気があるな。それはやっぱりアレかね、そういうのは芸術肌の兄を持っているからだろうか? 兄貴と似てるって言われるタイプ?」
オリエンテーションが終わった後、侑人は柏木に誘われて学生食堂に行った。大学三年初日は授業がなく、オリエンテーションのみである。昼にはまだ早い時間で、食堂は空いていた。
「自分では似てるとは思わないけど、多分似てる」
侑人は答えた。柏木は「アハッ」と笑って言った。
「俺も、自分では兄貴と似ているとは全然思わんよ。でも時折、近所の人から「似てるなぁ」としみじみ言われる。自分ではわからないものなんだな」
二人は食堂で、コーラだけを頼んで飲んでいた。炭酸の泡が安っぽいプラスチックのコップの内側で、蠢いている。そういう光景は、なんだか永遠みたいだと侑人は思う。
ずっと見ていると、吸い込まれてしまいそうで、そして吸い込まれた先には、何もない気がするのだ。
「侑人も絵を描くんだろう? 兄の影響か?」
唐突に柏木が言った。侑人はギョッとして、瞬きを三度する。
「その、鞄の中に入っているのは、スケッチブックだろう? それに、大講堂の前で握手した君の手には絵の具らしきものが付いていた」
どうだ、名探偵だろう?
柏木は笑った。侑人の持っているトートバックの中には、手のひらよりも少し大きいくらいのサイズのスケッチブックが入っている。
(よく見つけたな……)
そんなに目立つようなサイズではない。それなのに、柏木は目敏く気が付いたようだった。
侑人は、己の両手を表、裏と改めて見つめた。確かに、爪の間やら、手首の骨の出っ張りの部分やらに、微妙に絵の具が付いている。
「目が良いな」
侑人が言うと、柏木は「まぁね」と言って、黒縁メガネをクイッと指先で持ち上げる仕草をした。
「侑人が熱心にあの絵を見ていたのは、兄の絵だからか?」
柏木は、コーラをストローでかき混ぜながら言った。小さな泡が一斉に、浮き上がって消えていく。そんな泡たちと一緒になって、侑人の中の、何かしらの気力とか、体力とか、そういうものも。体の中からパチパチと抜け消えていくような気がした。
「一応、壊される前に、本物を見ておこうと思って」
侑人は答えた。兄の描いたあの絵は、写真では見たことがあったけれど、実物を見るのは今日がはじめてだった。
「なるほど。さてはアレだな? 次に建つ新しい大講堂に飾る絵は侑人、君が描くのだな?」
柏木は、名探偵のように瞳を輝かせて言った。侑人は思わず「はっ」と短く声を出して笑った。
「まさか。俺は絵を描くのは好きだけど、絶対、誰にも見せないことにしてる」
きっぱりと強い口調で言い切った。すると、柏木は、とても興味深そうな顔をした。
「なんだなんだそれは! 見せない絵を描いてるのか、お前は!」
めちゃくちゃロックじゃないか、それ!
侑人は、相変わらず柏木の言うところの「ロック」の意味がわからない。
「お前、ロックっていうの口癖なの?」
侑人が尋ねると、柏木はニヤッと笑って「その通り、格好いいだろう?」と言った。自覚があるということは、それは口癖なのではなく、わざと多用しているだけかもしれない。
「そう言うお前は、やっぱりロックが好きなのか?」
侑人は言った。
「あれは、ギター?」
柏木の持っている黒くて大きなケースを顎先で示しながら尋ねる。
「ご明察。音楽は良いぞ、特にロックは!」
「悪い、あんまり音楽詳しくない」
侑人は言った。音楽で話を広げられても、とてもついていける気がしない。
「悪いことなんてないさ。俺だって絵のことはあまり詳しくない」
柏木はちっとも気を悪くせずに言った。侑人は、その明るさやサッパリとした態度が羨ましい。自分には、ないものだから。
「絵のこと、あんまり詳しくないのなんて、普通だろ」
侑人は言った。
「今時、絵に詳しい人も、興味のある人も、あんまりいないし……油絵で、抽象画なんて、特に……そもそも、画家とか今の時代、斜陽産業っていうか……」
侑人の言葉を、柏木は頬杖をつき、リラックスした様子で聞いていた。春の日差しに視界がぼやけて、食堂の空気は温もっている。滞留した温い空気が、光が。二人の間に、優しくも退屈な雰囲気を醸し出していて、気怠かった。
柏木は、その気怠さに妙に馴染んでいる。侑人は、そんな柏木の光に溶けているような顔を見て、家に帰ったらこの感じを絵に描こうと思った。
「誰にも見せないけれど、絵を描くというのは、どういう気持ちかね?」
不意に、柏木が言った。侑人は、尋ねられた言葉の意味を考える。どういう答えを求められているのだろうか、と思考を巡らせたけれど、眠気を誘うような陽気の中、ちっとも言葉は出てこなかった。
「君と俺は、似ているのかもしれんなぁ」
柏木が言った。
「どの辺が……?」
侑人は眉間に皺を寄せて尋ねる。性格も、顔立ちも、趣味も、ちっとも似ているとは思えない。
「侑人の兄貴は画家なんだろう? ウチの兄が言っていた。大講堂のあの絵を描いたのは、自分の友達で、同級生の「画家」なんだと。随分と自慢げに言っていたし、仲が良かったと胸を張っていた」
柏木が言った。侑人は曖昧な顔をして「売れない画家、だけどね」と言った。
芸術とは、何だろうか?
侑人は思う。
(俺は、兄貴の絵は好きだ……でも、それは多分、兄貴自身をよく知っているからだ……)
絵を描くのに向ける情熱や、真摯な態度、本人の性格や性質、絵を描くためにしている努力、そういったものを、全て知っているから。
芸術の意味とは、何だろうか?
芸術の価値とは?
そして、芸術に対する、評価とは、一体何だろう。
「売れない画家でも、画家は画家だろう」
柏木は言った。侑人は、瞬時に「何も知らないくせに」と思う。そういうことを、思ってしまう自分が嫌にもなる。
「何もわかってないくせに、偉そうなことを、みたいな顔をしたな?」
柏木がクスクスと、小動物のように笑った。侑人はドキッとして「い、いや、」と口ごもる。
「素直なヤツだなぁ。俺はそういう人間が好きだぞ」
裏があるよりずっと良いじゃないか
柏木は侑人の肩を、強めにパシンと叩いた。そして、侑人の目を柔らかく見つめて言った。
「音楽、詳しくないと言っていたが、ロクロックというバンドを知っているか?」
突然の質問だったが、そのバンド名は侑人も耳にしたことがあった。
「知ってる。よくテレビで流れてるし、歌番組にも出てるよな……? なんか、数字で、六九六九って表記するやつ……だったような……」
最後の方は、自信がなくて小声になってしまった。柏木は「そうそう、それだ」と笑った。そして、笑ったついでのように言った。
「あのバンドのボーカル、ウチの兄だ」
侑人は、あんまりにも流れるように言われた言葉に、しばし固まった。冗談なのか、本当なのか、いまいち判別がつかなかった。
「マジのやつ?」
侑人は言った。
「マジのやつだ。驚いたか? 知ってる人は知ってるんだがなぁ。まぁ、名字は隠してバンド活動しているから……」
柏木は、特になんの感情も乗せていないような声で言う。その声には、現代特有の、マウントを取りたい、人より優位に立ちたい、などの濁った感情はないように思えた。
ただ、事実を述べているにすぎない清廉さがある。
「すごい人なんだな、柏木の兄貴は」
侑人は言った。
柏木は笑って、
「侑人の兄も、すごい人じゃないか」
と言った。侑人は、とてもじゃないが、テレビにも出ているようなバンドマンと、売れない画家をしている自分の兄が同等だとは思えない。
「今度、兄貴に聞いてみる。柏木っていう名前の友達、大学時代にいた? って」
侑人は言った。
「俺も兄に言っておくよ。兄貴の友達の弟と同級生で、友達になったってさ」
柏木は楽しそうな明るい声で言う。侑人は、自分の兄が、柏木の兄と、どの程度仲が良かったのだろうかと訝しく思った。
よもや、柏木兄のことを忘れているなんてことはないよな、とも怪しんだ。なにしろ、本当に絵を描くことしか考えていないような人間だ。
そして、良く言えばもの凄く穏和で、悪く言えばもの凄くテキトウな人間だとも思う。もし本当に兄が柏木兄のことを忘れていたら申し訳ないなぁと思いながら、侑人は言った。
「柏木がギターを弾いたり、ロックが好きだったりするのは、兄の影響?」
先ほど自分がされたのと同じ質問をしてみた。柏木は、乾いた感じの笑みで「いやいや」と言った。
「もちろん兄のほうが九歳も年上だからな、音楽をはじめたのは彼の方が先だ。でも、だからといって、俺は自分が兄の影響によって音楽をはじめたとは思わない」
たまたま、俺も兄も、音楽が好きだったというだけの話だ
柏木は言い切った。侑人は自分の中でずっとモヤモヤしていたものの答えを、今、ここで聞いたような気がした。
「俺も」
思わず言った。
「俺も、別に兄貴がどうのじゃなくて、俺が、絵を描くのが好きだから、描いてる」
柏木は「うん」と頷いた。そして言った。
「兄の後ろを歩くというのも、大変なものだよな」
侑人は、その言葉の深くにある繊細な気持ちを読みとる。丁寧に紡がれた言葉だった。慎重に、そしてジックリと味わうようにして。
「俺は、兄がああいう、少しばかり有名な人になってしまったから……自分では、バンドを組んだりライブをやったりすることは、しないことにしているんだ」
柏木は言った。
「ただ、好きなように、好きにギターを弾いて、好きに歌って、自由に。まさに音楽だ。音を、楽しむ。兄がデビューして有名になってからは、俺の音楽は、そういうものになった」
侑人は、あまりにも軽く発せられるその言葉に、柏木という男の強さみたいなものを感じて、再び、羨ましいと思った。
「なぁ、やっぱり俺たちは似ていると思わんか? 九歳も年上の兄がいること、どうしても、その後ろを歩くしかないということ」
同じ大学、同じキャンパス、同級生、というだけではない、何か、似ている感じが、しないかね?
柏木は楽しそうだ。
「描いても見せない絵描きと、バンドも組まない、ライブもしないギター弾きだ。ロックな組み合わせだとは思わんかね」
侑人は、柏木の絶妙なバランスの、薄い唇が、羽ばたくカモメのような形に持ち上がるのを見て、息を吹き出すみたいにして笑った。
「確かに、ロックだな」
似たもの同士というのは、間違いないのかもしれないと思った。
*
大学も三年になれば、重視されるのは「自分自身の未来についての具体的なビジョン」である。
三年生の目標というのは、シンプルだ。
まず学業においては、卒業に必要な分の単位を確実に取得すること、そして卒業論文を作成するための研究室に目処をつけること。
次に就職活動においては、企業研究をしたり、インターンシップに参加したり。
とにかく、自分の将来を具体的に決定せよという風が、校内に吹き荒れるのである。
「はぁ~……」
西侑人は、深く重いため息をついた。腹の中にある空気の全部を口から吐き出して、腹筋にクッと力を入れる。数秒息を止め、そして、苦しくなったところで、思い切り鼻から空気を吸った。
「良い感じの腹式呼吸だなぁ~」
柏木悠輝は、ギターをベロローンと響かせながら、歌うように言った。柏木がいつも持っているギターはエレキギターで、電気を通さないでいると、少し間抜けた三味線みたいな音がする。
季節は六月に差し掛かり、雨は降っていないものの、どんよりと雲の厚い日が続いていた。
侑人と柏木は、初対面の日から何かと行動を共にするようになっていた。互いの兄が同級生だったこともあるけれど、それ以上に、マイペースな二人は不思議と波長が合ったのだった。
柏木は、ちょっとした隙間時間があるとすぐにギターを取り出して、ベンベベーンと弾いていた。柏木は本当に自由にギターに触れているようだった。奏でる音は、曲になっているような、なっていないような、まとまっているような、いないような。
それでも、とにかくいつでも、楽しそうにギターに触れているのだった。
侑人も侑人で、柏木が決して覗き込んできたりしないとわかってからは、描きたいと思った時に小さなスケッチブックを取り出して、目の前の風景を描いたりしていた。時々、ギターを弾いている柏木を盗み見て、描いてみたりもする。
柏木は、侑人が描いているものに、ちっとも興味を示さなかった。そして、侑人も、柏木が奏でる音に、ちっとも興味がなかった。
その関係が、二人にとっては、とても居心地の良いものになっていた。
その日も、午前中の授業を終えて、学食で二人は待ち合わせた。昼を一緒に食べた後、二人とも午後の授業まで時間があったので、グラウンドの隅っこで暇つぶしをしていたのだ。グラウンドでは、サッカー部が必死にボールを追っている。やいのやいの言う声が、遠く近くに響いていた。
「それで、なんのため息だね、今のは。いや、ため息だったのか、今のは?」
柏木が言った。最近になって、ようやく花粉症が治まったらしく、梅雨の走りだというのに、毎日上機嫌だ。マスクなしで日常生活を送ることが出来るのは素晴らしいことだ! と、しきりに言っている。あの黒縁オシャレメガネも花粉症対策だったらしく、最近ではメガネ姿を見ることもなくなった。
「ため息のついでに、腹式呼吸した」
侑人が答えると、柏木は相変わらずの声色で「ロックだなぁ」と言った。侑人の手には一枚の紙が握られている。
柏木は、その紙が何なのか、理解した上で「なんのため息だね」と聞いている。それを侑人も知っているので、特に答えなかった。
その用紙は、三年生全体に配布されたもので「進路希望調査」と太字で書いてある。
「もう出した?」
侑人が尋ねると、柏木は「もらったその日に提出したさ。ロックだろう?」と言った。
「ロックすぎるだろ……」
侑人は再び、腹式呼吸込みのため息をついた。腹筋に力を入れたついでに、内臓が動いてクゥウと変な音が鳴った。生きる音はするのに、自分はちっとも生きている実感がないのが不思議で仕方ない。呼吸音、骨のきしみ、時折、内臓の動く音。自分は確実に今を生きている。
生きているということは、立ち止まっていないということだ。生きている限り、人間はひたすらに死期に向かって立ち止まらずに進んでいくより他にない。
(それなのに……)
自分は足踏みばかりして、いつの日からか、ちっとも前に進んでいない気がするようになったのだ。時間ばかりが進んでいて、己の心とか頭とか、そういったものが、全て置き去りになってしまっている。
「侑人は、将来の夢とか、ないのか?」
「柏木はあるのか?」
「ないな。特にない!」
柏木はキッパリと言った。
「ないのに出せるのかぁ~、進路希望~……」
うなだれて低く唸る侑人に、柏木がベーンとギターを鳴らして「嗚呼、悩める青年よ~」と歌った。柏木の声は、高すぎず、低すぎず、聞き取りやすいものだと思う。
日々、よく歌っているけれど、絶妙な音程で、上手いこと歌っているように聞こえる。歌のことはちっとも詳しくないけれど、柏木が音痴ではないことは侑人にもわかる。
「侑人のとこは、親が何か言ってきたりはしないのかね? 息子の将来について」
柏木は、ギターをベベンとしながら、けれど歌うのはやめにして尋ねた。侑人は、少しだけ言い淀んだけれど、隠しても仕方がない。
「何も言わない。俺の好きなようにしろって。昔からそういう感じ。まぁ、でも内心では、多分、兄貴みたいになって欲しいんだと、思う……」
侑人は答えた。
西侑人の家は、端的に言って裕福である。侑人の祖父母がバブルだなんだと、金の舞い飛ぶような時代を噛んでいるのだ。
母方の祖父は貿易会社の取締役をやっていたし、祖母は華道の先生をやっていた。
父方の祖父は、銀座で画廊を開いていて、現在はその画廊をひとり息子である侑人の父が継いでいる。
ついでに、父方の祖母は日本画家としてそれなりに有名な人物である。
父と母は、互いに美術館巡りが趣味で出会い、結婚をした。美術好きの母は、父が祖父から引き継いだ画廊をとても気に入っているし、自分自身も趣味で茶道教室の先生をしている。
どうにも一族揃って、浮き世離れというか、世間ズレというか、夢に夢見ているような一家であった。
侑人の九歳年上の兄、昌秀は、侑人が生まれるより前から、祖父や父のいる銀座の画廊に入り浸って、美術に慣れ親しみながら育ってきた。侑人の記憶の中でも、兄は小さい頃から気付くといつも、絵を描いていた気がする。はじめのうちは、侑人も兄に遊んで欲しくて、一緒になって絵を描いていた。
当然、画力は兄の方が上だったので、いつでも追いかけるように一生懸命、兄の絵を真似てお絵かき帳を埋めていた記憶がある。
そのうち、兄は父親の画廊に絵を飾ってもらったりするようになった。子供の描いた絵なので、売れるとか売れないではなく、ただお客さんの目を微笑ましく楽しませるだけの絵だった。
兄は小学校の高学年になると、日本画家の祖母から手ほどきを受けるようになる。中学に上がると、市民絵画大会で賞を取った。その絵は、国の主催する青少年の絵画展でも賞を取った。
将来有望だと、祖父母も父母も喜んでいたのを、侑人は覚えている。
侑人自身も、そんな兄のことが誇らしかった。そして、兄は高校に入ると、父の画廊で個展を開いた。
結構な人が来てくれて、何点かの絵が売れた。まだ無名と言っても良い高校生の描いたものであるから、値段は安いものであったけれど、侑人は、自分の兄は画家なのだと、その時はじめて意識をした。
侑人は、兄はこのまま美大に進むのかと思っていたし、父母もそう思っていたようだ。けれど、兄は言った。
「僕は普通の大学に行って、普通に友達を作って、現代の感覚をしっかりと身につけたい」
僕は画家になりたいけれど、歴史ある正統派の絵を描く画家じゃなくて、現代人に寄り添った、今現在の人のための絵を描く人になるのが夢だから
「美大では、美術の歴史や技法、有名な先生から学べることも、とても多いと思うんだけど……でも、このまま美大に進んで、友達もみんな、絵を描くことを人生の真ん中に置いている人ばかりになって……そうやって偏っていくのは、僕は正しくない気がして」
兄は言った。今思えば、これらの言葉も、無自覚な傲慢さがあると侑人は思う。
兄は、美大に進まなくても、もう画家になるための道を確約されていたのだ。祖母の知り合いに有名な画家の先生はいくらでもいたし、祖母から頼まれればその人たちはきっと、兄の指導をいくらでもしてくれるだろう。
そして描いた絵は父の画廊に置けば良い。祖父の代から続く画廊には、それなりにお得意様もいる。兄の絵のファンだと名乗る人も、ちらほら。
そんな環境だから、美大に言って人脈を広げたりコネクションを作ったりする必要もなかったのだ。父は兄の考えに賛同したし、母も「昌くんの好きなようにするのが一番よ」と言うだけだった。
父も母も穏やかな人だ。子供の健やかな成長と、幸せだけを祈るみたいな、そういう人たちだ。おそらく、本人たちもそのようにして育ってきたのだろう。祖父母から、大事に大事に、幸せだけを祈り願われて、経済的な不安も心配も何ひとつなく、心地よい環境の中で育ってきた。
それと同じことを、自分の息子たちにもしてあげたいと純粋に思っているのだ。
「昌くんも侑くんも、お金のことは何も心配しなくて良いんだからね。健康で、元気で、自分の好きなことを、思う存分、納得するまでやって欲しい、それが親として、ただひとつの願いだからね」
母は昔から、口癖のようにそう言っている。祖母もまた、同じようなことを、兄と侑人に言い続けている。
父も祖父も、女性陣の言うことに、ただ頷いて「そうだそうだ」と言わんばかりだ。侑人は、小学生あたりまでは、自分を取り巻くそれらの環境について、特に疑問に思うこともなかった。けれど、中学に上がったあたりから、周囲と自分との違いや差について、気が付き始めた。
侑人は、自分が「欲しいな」と思ったものは、思った瞬間に、手には入っていることが多かった。欲しいものを目で追っていたり、実際に「欲しいなぁ」と口に出したりすれば、それはすぐに買い与えられた。
元々、侑人も兄も物欲が強いタイプではなかったので、欲しいと思うものは、絵を描くための大きめのキャンバスであったり、絵筆であったりと、実際に使うから欲しいと思うものばかりだったので、それもすぐに買い与えられた理由だろうとは思う。
しかし、画材なんていうものは、どれも安価ではないのだ。本来、小学生などに、ほいほい買い与えられるようなものではない。
侑人は、クラスメイトが「新しく出たゲーム欲しいけど、高いから買ってもらえないなぁ」とか「うわばき小さくなってきたから、新しいの買ってって言ったんだけど、もうちょっと我慢しなさいって言われた」とかいうのを聞いて、心底仰天した。
幼心に、なんで他の家のお父さんお母さんは、そんな意地悪を言うんだろう? と思っていたのだ。子供が欲しいと言っているのだから、買ってあげれば良いのに……なんて、思ったりもしていた。
だが、さすがに中学生にもなると、それが「そういうわけにもいかないこと」であると理解出来てくる。経済的な、言うなれば「格差」のようなものは、確実に存在するのだと、侑人は理解した。
それも、他のクラスメイトが特殊なのではない、自分の方が特殊であって、周りのクラスメイトたちの感覚の方が一般的なのであると気がついた。侑人は、そういう周囲と自分との違いにすっかり萎縮してしまったし、元々休み時間がくるたびにスケッチブックを開いて絵を描いているようなタイプだったので、友達は少なかった。
ある日、侑人は兄に聞いたことがある。
「クラスメイトの子たちは、ウチみたいに、いろいろ買ってもらえたりするわけじゃないの、どうしてだろう?」
本当は、侑人自身、その質問の答えを知っていたし、本当に聞きたかったのは、そういうことではなかった。侑人が兄に聞いてみたかったのは、ウチは他のウチとは違うみたいだけれど、このままでも良いのかな? ということだった。しかし、兄はいつもの穏和な、優しい顔で言った。
「侑人は難しいことを考えるね、哲学とか、そういう方向にも才能があるのかもしれないな。良い機会だから、人と人との違いについて、じっくりと考えてみると良いよ。周りの友達を、もっとよく観察してごらん。似ているところ、全然似ていないところ。そういう観察は、絵を描くのにも助けになるし、世の中の真理みたいなものについて考えるのは良いことだとお兄ちゃんは思うな」
侑人は、兄からの生真面目で柔らかい回答を浴びて、こりゃダメだ、と思った。
兄は、自分自身の人生について、ちっとも疑問に思っていない。何不自由なく生きている人生を、当たり前のように享受している。侑人は兄に、自分と一緒に少しくらい悩んで欲しかった。けれど、それが叶わないと理解して、それ以上は何かを尋ねるのは止めようと思った。
(なんで兄貴は、なんとも思わないんだろう……ウチはやっぱりちょっと変だし、なんかまともじゃないっていうか、もっと親とかって、子供に対して厳しかったりするもんじゃないのか……?)
別に、厳しく躾をして育てて欲しかったなんてことを思ったわけではなかった。だが、なんとなく自分と同級生の波長が合わないでいるのは、この家庭環境のせいではないだろうか、とは思っていた。そして、自分と同じような理由で、兄にも一緒に悩んで欲しかった。
侑人は、高校生あたりになって、ようやく兄が自分のように思い悩まない理由の一端のようなものを理解することになる。
兄が元来持っている穏やかな性格というのもあるけれど、そもそも年齢が九歳も離れているのがいけないのだ。九歳の差があると、それなりに世代差、みたいなものが生まれるものだと気が付いた。
それは兄の友達を見ていて思ったことだった。侑人は、なぜか、兄の友達とは馬が合ったのだ。価値観や考え方が、西家兄弟と似ている人がとても多かった。
おそらくは、親の子育ての仕方が似ているのだろうと思った。九歳の差は、親の世代差とも言えるのだ。侑人の同級生たちの両親は、侑人の両親よりもずっと若い人が多い。
そして、驚くほどに、片親が多かった。侑人は、自分が同世代と上手く行かない理由、なんとなく生き方が違う理由を、そこに見出した気がしたのだった。
「なぁーるほど……確かに俺たちは末っ子だからなぁ、親の年齢は同級生の親よりグッと上になるよなぁ~」
侑人がポツンポツンと話すのを、柏木はボーっとグラウンドのサッカー部を見つめながら聞いた。侑人は、思いつくままを、言葉にする。すっかり雨が上がった後、屋根に貯まった水の粒が、地面にトッ、トッと落ちるみたいに話した。
ひどく単調に、そしてゆっくりと心の中に溜まっていたものを、絞り落とすみたいに。
「侑人のとこ、親はいくつだね?」
柏木が言った。
「二人とも五十代後半」
侑人は答えた。
「そうかぁ、まぁ、でもまだ若いな。俺のとこなんて、兄の上に更に姉までいるもんだから、両親とも六十を越えてる」
柏木は言った。
「へぇ、姉さんもいるのか……いいなぁ」
侑人は、男ばかりの家族なので、姉や妹に淡い憧れがある。柏木は目を閉じると、なんだか思慮深そうな声を出して、
「姉を持たぬ人間は、みな、いいなぁと言う」
と言った。
「良いもんじゃないって?」
侑人が尋ねると、柏木は「俺には優しいがね」と言った。
「兄貴とは折り合いが悪いな、ウチの姉は。俺はやっぱり歳が離れているから、可愛がられる。兄と姉は三歳差だが、しょっちゅう喧嘩しているし、どんなに大喧嘩になっても、昔から、百パーセント姉が勝つ」
柏木は笑った。
「ウチは姉も兄も血の気が多くてね。俺がひとり、亜種というか、マイペースというか。上二人は兄弟っていう感じがするけれど、俺はどうにも一人っ子のように見えるらしい」
「あ、それ言ったら、ウチは俺も兄貴も一人っ子っぽいって言われる」
侑人も笑った。
「九歳の差というのは、もう、そういう域のものだよなぁ。姉となんて、十二歳離れてるからな、姉にとっては、俺はもう子供みたいなもんだよ」
母親が二人いるみたいな感じだし、口うるさいところもあるけれど、姉はいつも正論を言うから、俺は感心している
柏木は言った。侑人は、やっぱり姉という存在は羨ましいなと思った。西家で侑人に何かを口うるさく言ってくる人間はひとりもいない。母が少々過保護なくらいだ。
どう考えても常識的にあり得ないことでない限り、犯罪に関わるような悪行でない限り、何もかも全て「侑人の好きなように」と言われてしまう。この選択肢の多い時代に、何もかも全部を丸投げされてしまうというのも、なかなか困ったものだと侑人は頭を抱える。
そして、結局、どうしたら良いか、ちっともわからず、進路希望調査も書けないまま。
「就職支援センターに相談してみてはどうだね」
雑談をしながらも、ずっと浮かない顔をしている侑人に、柏木が言った。
「もう行った」
侑人は即答する。
「でも、事情っていうか……家族の感じとか、そういうの伝えたら、すごい変な顔されて、それはもう、君は恵まれてるんだから、君の好きにしたら良いんじゃないかなって言われて、終わった」
大学の生徒支援棟、三階に就職支援センターがある。大学三年生と四年生のための、就職相談室のようなものである。進路に悩んだり、就職先について不安に思ったりすることがあれば、いつでも利用できるという場所だ。
侑人は、提出期限が迫っているのに、ちっとも書けない進路希望調査の紙を持って、支援センターを訪れた。
担当してくれた職員は、三十代前半くらいの男性で、侑人の話しを親身に聞いてはくれたけれど、最終的には「恵まれてるなぁ」と笑った。
「夢を追いかけたり、やりたいことを貫いたりするのは、今の時代、すごく難しいことなんだよ」
彼は、諭すように言った。
「経済的にも難しい人が多いし、みんな働かないと、生きていけないのが普通なんだ。でも君は、そういった生活費や生きていくお金の心配をしなくて良い。それにご両親も、君に働けとは言っていないんだろう? だったら、思い切り、好きなことに邁進してみてはどうかな」
侑人は、そういう言葉を今までに何度も何度も聞かされてきた。
「はぁ……ありがとうございます」
侑人は、視線を下向けて、無感情に答えて、支援センターを辞した。
「夢、なんて言われたって、そもそも夢がないっていう場合はどうしたら良いんだ……」
「絵を描けばいいんじゃないか? 絵を描くのは好きだろう?」
柏木が言った。
「誰にも見せたくないんだってば……」
侑人は、柏木のまっすぐな黒髪を見つめて言った。曇り空の下でも、ツヤツヤと光って見える直毛。
「そういえば、今更だが、なんで絵、見せないんだ? 下手なのかね?」
柏木は、本当に今になって、思いついたように言った。もう出会ってから二ヶ月は経っているのに。
侑人は笑った。柏木の、こういう、他人に過剰に興味を示さないような、それでいて、ちゃんと聞くところは聞いてくれるような、そんなところが居心地が良く、好きだなぁと思う。
「絵を描くの、嫌いになりたくないから」
侑人は正直に言った。柏木は「ははぁーん」と、妙に語尾上がりの口調で呟く。
「あれか、批判されるのが怖いのか?」
侑人は小さく笑って頷いた。
「今の世の中、他人を扱き下ろしてなんぼ、みたいなところ、あるだろ……そうじゃなくても、アレコレ言いたい放題っていうか……」
「気楽に発言出来る場が増えたからなぁ」
柏木は大きく頷いてみせる。侑人は、雨が降り出しそうな空を見て、涼しくなってきた風を感じて、言った。
「ウチのばあちゃんなんか、良く言うよ、侑人の時代は絵を描いても、なにをしても、気軽に大勢の人に見てもらえて羨ましいってさ。ばあちゃん、日本画家だけど、あの時代、女の人が画家になるってのも、結構ハードル高かったみたいだし、それこそ、発表の機会をもらえることも少なかったらしいから」
「いつの時代も、善し悪しだなぁ。あっちが良ければ、こっちは悪い、みたいな。ままならないもんだ。ロックだねぇ~」
柏木は立ち上がって、ギターをケースにしまった。
「お前の言うロックの定義が、未だにわからん」
侑人が言うと、柏木はケラケラ笑って「ノリだよ」と言った。
「雨、降ってきそうだ。そろそろ次の授業も始まる」
柏木が言った。柏木は次の授業があるようだった。侑人の方は、もう一時間分、空いている。
「ちなみに、柏木の進路は……?」
侑人は荷物を肩に担ぎながら言った。
「聞いてどうするね」
柏木が笑った。
「……参考に?」
「参考にはならんだろうよ、人の進路なんて」
柏木はもっともなことを言った。人の人生の道筋が、自分の人生の道筋の参考になるはずがないのだ。
「俺はもう内定というか、就職先が決まっているんだ」
柏木は言った。
「え、マジか……まだみんな、企業研究とかの段階じゃないのか?」
侑人が驚いて目を丸くすると、柏木は「みんなと合わせる必要があるかね?」と言った。
これもまた、もっともなことだ。侑人はどうにも、そういう部分でも自分の情けなさを思い知る。何事かを自分で決定するのも苦手だし、だからといって、意志が弱いのかと言われると、そうではない。
自分のやりたいことしか、したくない。でも、周囲から浮いてしまうのも怖い。
「自分の中で自分のワガママが渋滞していて、発狂しそうだ」
侑人が言った。
「それはまた、ロックな表現だなぁ~」
柏木は苦笑して、侑人の背中を慰めるようにポンと叩いた。
「だろ」
侑人は小さく笑った。曇天は、いよいよその色を濃くしていて、今にも降り出しそうだった。
「もう、帰りたいな」
侑人が言った。
「どこにだね」
柏木が言う。どこだろうか、と侑人は思った。もちろん、そんなのは「家」に決まっているのだけれど。
光が鈍く、薄ら寒い目の前の風景を見ていると、不安になった。自分が今どこにいるのか。そして、どこに向かうのか。
(帰れる場所が、欲しいな……)
安心して、帰れる、ここが自分の居場所だと、断言できるような場所。柏木は、侑人の隣で「傘の花が~綻ぶ季節~」などと、即興の鼻歌を奏でている。
(柏木は……どこに帰るんだろ……)
侑人はそんなことを考えながら、友の横を歩いた。心細い気持ちになって、なんとなく、いつもより近くに寄って歩いた。
*
「侑ちゃん、今日の夜、お兄ちゃん帰ってくるって」
家に帰り着いて「ただいま」を言うと同時に、母がウキウキとした顔で言った。侑人は、サボりたい気持ちをどうにか抑えて、きちんと受けるべき授業を受けて、帰宅をした。そういうところも、どうにも真面目で、自分が嫌になる。若者らしい軽いノリとか、若さからくる不真面目さみたいなもの。適度に楽しむ、物事をテキトウにする、というようなことが出来ないのだ。
それも、自分自身ではそういう身軽さに憧れているのに、勇気がなくて、塩梅が難しくて、出来ない。心も体も柔軟性に欠けている自分に気付いている。本当はもっと、のびのびしたい。けれど、それには酷い罪悪感がつきまとう。
「また随分、突然だね」
侑人は答えた。兄は、現在、一人暮らしをしている。父と母に伴われて、物件を見学しに行って。そしてアトリエとして便利に使えそうなマンションを見つけて、そのまま親に部屋を買ってもらったのだ。生活費も、毎月、父から兄の銀行口座へと支払われている。
「お兄ちゃんは芸術家なんだから、お金がかかるのは仕方のないことなのよ」
と、母は言う。父も「芸術の道は険しい。だからこそ、経済的な援助は親がしてやらないと」などと言っている。
そういう両親からの、ある種の支援のようなものを、当たり前のように、なんの疑いもなく受け取っているのが兄、昌秀という人間だ。侑人は別に、兄のことが嫌いなわけではない。むしろ、兄弟の仲は良いほうだ。兄は優しく、面倒見も良く、穏やかで、大らか。
けれど、大らかゆえの、図々しさみたいなものがあって、侑人はそういう部分を目にする度に、胸の奥がモヤモヤするのだ。
「なんで帰ってくるの、兄貴は」
侑人は春物のコートを脱ぎながら言った。母はすぐに、侑人の脱いだコートに手を伸ばす。
「自分でやるから、いいよ」
侑人は、それをやんわりと断る。母の前で服を脱ぎ着すると、だいたいこういう流れになるので、少々面倒くさい。
母は一体、自分のことを何歳くらいだと思っているのだろうか? と、疑問に思うことさえある。
「明日、おばあちゃんのところで日本画の指南を受けるんですって。新しいお仕事で、日本画調のものを描いて欲しいって頼まれたらしいのよ」
母は上機嫌で、断ったのにも関わらず、侑人のコートをそっと引き取った。
日本画家である祖母の家は、侑人の暮らす実家から徒歩で十分ほどの距離にある。兄は三日ほど実家に滞在して、祖母から日本画のアレコレを学ぶのだそうだ。
「侑ちゃん今日、寒かったでしょう。このコートじゃ薄いかしら……? 新しいの、買っておこうか?」
母は言った。侑人は喉の奥の方が、圧迫されるようにキュウと縮まるのを感じた。
「別にそのコートで寒くなかったから、大丈夫だよ。それより、兄貴、良かったね、仕事もらえて」
侑人は言った。話題を兄に持って行くことで、母の気を反らそうと努力する。
「そうなのよ、それも二枚も頼まれたらしくてね、ご新居の床の間に飾るんですって」
「へぇ……」
そのくらいの言葉しか、出てこなかった。兄の得意は、水彩の抽象画だ。数年前までは精力的に油絵をやっていたが、どうにも性に合わなかったらしく、そこからは水彩画を中心に制作をしている。
兄の水彩画を、日本画風にして、床の間に飾る、それも何故か二枚。
(……季節で変えるとか……? それとも、飽きたら変える、とか……?)
侑人は少しだけ考えて、すぐに思考を破棄した。考えても仕方のないことだ。絵、というのは、そういうものだと小さい頃から知っている。買われていった絵たちが、その後どうなるのか。それについては、画家の知る由もないことなのだ。
「兄貴、帰ってくるの久しぶりだね。四ヶ月ぶりくらい?」
侑人は言った。母は感慨深そうに「そうねぇ」と言った。息子が帰ってくるのが相当嬉しいらしく、顔が綻んでいる。目尻の皺が柔らかく寄っていて、体中からまろやかな空気を発していた。
兄は三月下旬からしばらくの間、スペインに行っていたのだ。向こうの美術学校に知り合いがいて、短期で絵の勉強をしたらしい。
(それも全部、当然のように親の金で……)
侑人は、心の中でため息をつく。兄を軽蔑する気持ちはない。けれど、自分と兄が外から見たら同じような人間に見えているのだろうなと思うと、気が重かった。
「ねぇ、お兄ちゃんの部屋、今は画材置き場になっちゃってるじゃない? お兄ちゃんは適当に片付けて寝るから別にいいとか言ってるんだけど、侑ちゃん、寝るときだけお兄ちゃんと一緒じゃダメ?」
侑ちゃんの部屋なら、きれいだから、お兄ちゃんのお布団も敷けるでしょう?
母は言った。侑人は兄と同室で寝るのは、少々気詰まりだった。
しかし、確かに兄の部屋は今、彼自身の画材でいっぱいで、物置のようになっている。アトリエを広く使いたいという理由で、兄は使用しない画材をしょっちゅう実家に送ってきているのだ。
「別にいいよ。夜だけでしょ?」
侑人は言った。母は「よかった」と言って笑った。
「侑ちゃんもお兄ちゃんも、全然反抗期なくて仲良しだし、ウチは平和でよかった」
とも言った。
(平和ボケして未来も見えず、自分が何者なのかもわからなくなって、死にそうになってる息子がここにひとりいますけど……)
侑人はそっと胸の中で思った。
その日の夜、十時を過ぎたあたりで兄が実家に帰ってきた。父と母からの歓待を当然のような顔をして受ける兄は、相変わらず朗らかだった。
「侑人、悪いなぁ、部屋、狭くしてごめんなぁ」
兄、昌秀は言った。
二人とも風呂に入って、寝支度を整えて。夜更けの気怠く、緩やかな空気が漂っている。
侑人は自分のベッドの上でスケッチブックに絵を描いていた。けれど、兄が風呂から上がって部屋に入ってくると、そっと閉じて、代わりにスマートフォンを手に取った。
兄は、そのことについて、何も言わない。侑人が描いた絵を見せないのは、今にはじまったことではない。
「スペイン、楽しかった?」
侑人は尋ねた。兄は床の上に敷かれた布団にあぐらをかいて、自分の隣をポンポンと叩いた。
「えー……」
侑人が渋い顔をすると、兄は「侑人、冷たい」と唇を尖らせる。仕方なく、侑人はベッドから降りて、兄の横で体育座りをした。
兄からは、自分と同じ匂いがした。同じ家に住む人間特有の、同じ匂い。兄が一人暮らしをはじめて、だいぶ経つ。今日、玄関で兄を出迎えた時には、「外の人」というような気配を感じたのに。
たった数時間過ごしただけで、あっという間にこの家の匂いになってしまった兄を不思議に思う。
「スペイン、相変わらず良いところだったよ。写真いっぱい撮ってきた。欲しいのあったらプリントアウトしてあげるよ」
兄は侑人に、小さなデジタルカメラを手渡した。
「侑人は風景画描くの好きだろ?」
兄は言った。侑人はもの凄く嫌な顔をして「なんで知ってんの」と言った。
自分の描いた絵については、家族はもちろん、兄にだって見せたことはない。
最後に見せたのは、小学校の六年生。夏休みの宿題として課された「夏休みの思い出の絵」だったはずだ。
「よく景色をジッと観察してるから、描くんだろうなぁって思ってるだけ」
兄はどこまでも穏やかに言う。侑人は今一度、ジトッとした目を兄に向けてから、デジタルカメラの写真に視線を移した。カチカチと進むボタンを押しながら、写真を眺める。
ボタンを押すたびに切り替わる風景。スペインの街並み、大聖堂、市場のような場所、それに海。活気ある人々の営み、観光客、食事。太陽の国だからだろうか、どの写真も鮮やかで、色彩に富んでいた。
「いいね、賑やかだ」
侑人は言った。
兄は笑って「元気が出る絵が描けそうな気持ちになるだろ」と言った。
兄は笑うと目尻に笑い皺が出来る。その皺が、母そっくりで、侑人はそれに対して笑った。
「兄貴が描いた絵、壊される前に見てきたよ」
侑人は兄に会ったら言おうと思っていたことを、思い出した。
「ああ、あの、大講堂の」
兄はなんでもない風に言ったけれど、その声は少し強ばっていた。
侑人は、伺う視線で兄を見る。兄は口元では笑っているのに、目は、どこか虚空を見ているようだった。
部屋の中に、しばらくの沈黙が流れた。重苦しいわけではないけれど、夜の静けさと、人工的な部屋の明るさと、カーテンの隙間から見える窓の外の暗がりと、二人分の呼吸とが相まって、バランスの悪い、ちぐはぐな沈黙だった。
居心地が悪い気配に、侑人は体育座りをしていたのを、もぞもぞとあぐらに変える。
「……自分の描いた絵が、壊されるって、どういう、気持ちになる……?」
侑人は慎重に、言葉を選んで尋ねた。選んだつもりだったけれど、結局直球になってしまって、言ってしまった後で、しまった、と思った。兄は「ふふっ」と、上品に笑った。
「気をつかってるな、お前」
兄は目を細めて侑人を見つめた。
「僕はお前が思っているほど、繊細な人間じゃぁ、ないよ」
侑人は兄の視線から、ゆっくりと後退りするように、目を伏せた。
「せっかく描いたのにって、思わないの?」
侑人は言った。兄は「うーん」と口に出して言ってから、
「今回のことは、自然災害だったから、仕方ないよ」
と言った。大雨による浸水、雨漏りによる取り壊しである。誰が悪いわけではない。
「でも、まぁ、」
兄は続けた。
「母校に寄贈する絵だし、気合い入れて、心を込めて、一生懸命描いたことは、確かだからなぁ」
あの絵を描いた時のこと、今でもはっきりと覚えているし、どれだけ苦労したかも、どれだけ構図に悩んだかも、完成した時、どれだけ嬉しかったかも、大学に絵を搬入した時、喜んでもらえてどれだけホッとしたのかも、全部、克明に覚えているし……
「身を切られるくらい、切ないっていうのは、あるけどな」
それでも、今回取り壊されるっていうのが、あの絵の、運命だったんだろうなっていう納得はあるし、完成した後の物語も全部含めて、僕の作品だっていう悟りみたいなものは、あるよ
兄は言った。侑人の知っている限り、兄は嘘をつかない。思っていても、言わずに胸の内に留めることはあるけれど、言葉にしていることに、嘘はない。少なくとも、弟としての侑人は、兄のことを、そう信じている。
(悟り……)
侑人は思った。そんなのは、どこで身につくものなのだろうか。
「兄貴の友達に、柏木っていう人、いる? 今、ロクロックっていうバンド? 音楽で活動してる人なんだけど」
侑人は尋ねた。兄は少々驚いたような顔をして、
「あれ、侑人、音楽に興味あったっけ? 侑人の口から流行のバンド名が出てくるとは思わなかったな」
「兄貴の友達じゃないの? ボーカルの人」
重ねて尋ねると、兄は顔を緩めて少年のように笑った。
「友達だよ。よく知ってるな。あいつ、名字は伏せてバンドやってるんじゃなかったかな……?」
侑人は、自分の同級生に彼の弟がいること、そして今、自分がその弟と仲良くしていることを話した。
「そのバンドのボーカルの人の弟、悠輝っていうんだけど……悠輝に、兄貴の描いたあの絵の写真撮ってきてくれって頼んだんだって。だから結構仲良かったのかな? って思って」
侑人は、柏木のことを「悠輝」と呼んだ自分が、なんだかむず痒かった。兄は、侑人の話しを聞くと、体全体で懐かしむような雰囲気を出した。「わー」とか「へぇー」とか言いながら。その顔は輝いていて、過去の大事な思い出の包みを開いているようだった。
「そっかぁー、大輝、わざわざ俺の絵の写真頼んでくれたのかぁー」
兄は、嬉しそうな、照れくさそうな顔で呟いた。
(だいき、っていうのか……柏木の兄貴は……)
侑人は思った。そして、柏木の名前が「悠輝」だから、おそらく「だいき」も「輝」という字を書くのだろうな、などと字面について思いを馳せた。侑人は、人の名前というのを面白く思う。特に漢字の字面については、その全体のバランスや上下左右の形の違いなどを興味深く思う。
「仲、良かったの?」
侑人が聞くと、兄は「すごく仲良かったけど、卒業してからは、お互い忙しくてなぁ」と言った。忙しいのは向こうであって、兄貴は別に忙しくはないだろう、と侑人は思ったけれど、黙っておいた。兄は、そんな侑人の心を知ってか知らずか、自嘲気味な笑いを浮かべて。いや、違う。もう少し切ない、けれど切ないだけではない。甘くて酸っぱいみたいな顔をして、言った。
「大学時代は、俺の方が先を歩いていたのになぁ。すっかり、立場が逆転してるなぁ……」
侑人は、兄の柔らかく温かな、決して荒ぶらない声に耳を傾けた。
九年前、侑人の兄、昌秀は二十歳を迎えたばかりだった。そして、柏木悠輝の兄、大輝もまた、同級生で二十歳になったばかり。
二人は大学一年の時から、同じキャンパスで学ぶ友達だった。
明るく真っ直ぐで、熱血直情型の大輝と、マイペースで穏やかな昌秀。
チグハグな二人だったけれど、大輝は音楽が大好きで、昌秀は絵を描くことが大好きで、そういうところで気が合うのだった。
何か特定の物事に対して熱烈な想いを持っている同士、悩むところも喜びを覚えるところも、似通っている部分があった。
そのころ、大輝はまだサークルのバンド活動をしているレベルで、無名も無名。ロクロックというバンドも存在の影さえ出来ていなかった。
一方の昌秀は、そのころにはもう、父親の画廊に自分の作品を置いていたし、チラホラと売れたりもしていた。大輝は、そんな昌秀をいつも羨望の眼差しで見つめていた。
「お前はスゲェよなぁ~! 絵が好きで、画家になりたくて……その夢を着実に叶えてる」
大輝は真っ直ぐな性格からか、コソコソと妬んだり羨んだりするような人間ではなかった。昌秀に面と向かって「羨ましいヤツ!」とか「俺も親がレコード会社の社長とかだったら良かった!」とか言うことはあったが、それだけだった。
大輝は、昌秀が順調に画家への道を進んでいるのが、親の力だけではないことをよく理解している。昌秀が、朝に夕に、永遠と絵のことばかり考えて、手を動かしているのを間近で見ていて、知っているのだ。
「大輝のバンドだって、地元のライブハウスじゃ人気だって聞いてるよ」
昌秀は言った。大輝は複雑な顔をして「それは嬉しいけど、この程度で終わりたくないのが正直なとこ」と言った。とことん素直な男で、昌秀はそういう大輝を気に入っていた。
大学も三年生になり、キャンパスが都内山奥へと変わっても、二人は何だかんだで仲良く、一緒に行動することも多かった。
ある日、授業と授業の合間の時間に、昌秀は大輝に言った。
「実はさ、僕、大学を中退するかもしれなくて。今、悩んでるところなんだ」
誰に相談することもなく、自分で答えを決めなくてはと思っていたことだったが、大輝になら相談しても良いかと思えたことだった。二人は大学内、大講堂と大講義棟の間にあるベンチに座って、缶コーヒーを飲んでいた。
「突然だな、どうした」
大輝は太く逞しい眉を器用に右側だけ上げて、言った。
「父の画廊に置いている僕の絵を見て、気に入ったと言ってくれた人がいてね。スペイン人の画家なんだけど……親日家で、油絵で有名な画家でね、僕に弟子にならないかって」
昌秀は言った。大輝は昌秀よりも、背が低い。当然、座っていても、大輝の方が昌秀よりも頭の位置が低くなる。昌秀を見上げる形の瞳が、クワッとまん丸く見開かれた。
「マジか! スゲェことじゃねーか、それ!」
やべーじゃん、スペイン人!
大輝は言った。
「スペイン人なのは関係ないけどねぇ~」
昌秀がのんびりと言う。
「そいつの弟子になったら、大学、辞めなきゃなんないのか?」
大輝は尋ねた。昌秀は、大輝の顔をチラッと見た後、空を見上げた。
「今すぐ弟子になるなら、大学を辞めて、その人のアトリエ……スペインにあるんだけど、そっちに行って、勉強することになるっぽい。でも、あと一年で大学卒業なんですって話したら、一年待ってからでも良いよって言ってくれた」
昌秀は、大学に通いながら、祖母の知り合いである油絵の先生の家に通っていた。元々、大学を卒業してから、美大への進学も視野には入れているところでもあった。スペインに渡って、向こうで油絵の勉強をするというのも、悪い話しではない。
「お前、何悩んでんの?」
大輝が不思議そうな顔をして言った。
「えー?」
昌秀は、眉をハの字にして、言葉を濁す。
「大学、辞めるか辞めないかで悩んでんのか?」
「そうだなぁ……なんか、中途半端なのが嫌な感じがして。あと一年待ってもらえるなら、それでも良いかなとも思ったりするよ」
昌秀が言うと、大輝は、もの凄く嫌そうな顔をして、
「俺、お前のそういうところ、めっちゃ嫌い」
と言った。
「どういうところ?」
「間延びしてて、腰が重いところ」
大輝はハッキリと言った。
「お前のソレは、マイペースとかじゃない。間延び、先延ばし……なんていうか、こう……動きにキレがない」
「最後のは身体能力の話しだろー」
昌秀は苦笑する。体育の成績だけは、いつでも悪い昌秀だ。
「とにかく、悩むことなんて、ひとつもないだろ」
大輝は断言した。
「もたもたしないで、さっさと先に進め」
昌秀は、大輝の顔をジッと見た。さっぱりと現代風な格好、雰囲気をしているくせに、一度も染めたことがないという黒髪。少しうねっているのも、パーマではなく、スタイリング剤だと言っていた。大輝の顔立ちは、誰からも好かれるタイプだ。垢抜けていて、ダサくない。友達も多くて、活発。
そういう内面からくる性格の雰囲気も含めて、全てがプラスの方向に整っているように昌秀には感じられていた。
「大輝、僕がいなくなったら、寂しくなるよ?」
昌秀はにっこり笑って言った。大輝はフンと鼻で笑って「寂しいからって友達の足を引っ張るヤツはロックじゃない」と言った。
「あ、寂しいんだ。認めるんだ」
昌秀が言うと、大輝は当然のように胸を張って、
「当たり前だろ」
と言った。そんな風に真っ直ぐに言われると、昌秀は自分でふっかけったくせに、照れた。
「昌秀にしか、わかってもらえねーこととか、沢山あったし」
大輝は言った。昌秀は、少し熱くなった頬を手のひらで押さえながら、言った。
「音楽も、絵も……言葉じゃないから、人を選ばないけど……好みの問題があるから、難しいよね。心の壁を、突破しないといけないから……」
大まかに芸術と呼ばれる分野に対した時、どうしたって、ぶつかる問題がある。勉強を重ねるだけでは、技術を磨くだけでは、経験を重ねるだけでは、突破出来ない壁がある。
いつだって、その壁は目の前にある。音楽も、絵も。
「好きじゃない」「好みじゃない」と言われてしまえば、そこまでなのだ。
「それでも好きなんだから、真っ直ぐ、進むしかねぇだろ、誰かに届くって信じてやるしか、ないだろ、俺も、お前も」
大輝が言った。昌秀は頷く。
元々、本当は悩んではいなかった。大学は中退するつもりでいた。けれど、友達にそれを打ち明けるタイミングを悩んでいた。そして、ほんの少し、大輝に背中を押して欲しかったのだと昌秀は自覚している。
「僕、大学辞めることにするね」
昌秀は言った。大輝は「おう」と言って笑って、昌秀の肩をギュッと一度、強く掴んだ。
一瞬だけ重く感じたその手は、すぐに離れていった。けれど、昌秀の肩には、今でもその時の感触が、酷く鮮明に残っている。
「あの時は、僕の方が華々しいというか、成功の道を進んでいるというか……」
兄は言った。
「自分で言っちゃう?」
侑人は苦笑する。兄も笑った。
「でも、それから僕は大学中退して、スペインに行って……その間に、大輝は業界の人にスカウトされて、音楽界にデビューして。あっという間に誰でも知ってるメジャーなバンドになっちゃった。一方の僕は、まぁ、ぼちぼち画家をやってる感じで」
すっかり逆転しちゃったよなぁ
兄は柔らかく言葉を紡ぐ。決して羨んでいるようでもなく、懐かしむ色だけが、淡く言葉に添えられている。
侑人は知っている。兄が大学を中退する時、大学側から「大講堂に飾る大きな壁画を描いて欲しい、それを描き上げて寄贈してくれるなら、その絵を卒業作品として認めて、中退ではなく、卒業したことにする」という提案を受けていたことを。
そして、大学に寄贈する油絵を良いものにするために、スペインで懸命に学んだことを。
あの絵を描くためだけに、一時帰国をして、半年もかけて、丹念に描き上げたことを。兄が、母校である東京上天大学を、とても愛していたことを。
(兄貴がすごく、気に入ってたから……毎日楽しそうだったから……俺も東上大に決めたわけだし……)
それなのに、あの絵はもう、この世には存在しないのだ。侑人は、やっぱりあの絵の写真を自分も撮っておけば良かったかもしれないと思った。
「侑人、大学卒業した後は、どうするつもりなんだ?」
急に兄が言ったので、侑人はビクッとなって、そっと兄の顔を覗いた。兄は、年長者の持つ独特の余裕の笑みのようなものを浮かべていて、侑人はそれが鼻につく。
「なんで急に……」
「母さんが気にしてたぞ。さりげなく聞いてくれって頼まれた」
「全然さりげなくないじゃん」
「僕にそういうの求められても無理だよ」
兄はアハハと笑った。侑人は、急に兄が実家に帰ってきた真の理由を知った気がした。
「母さんに頼まれて帰ってきたわけ?」
侑人が尋ねると、兄は「そこまで暇じゃないよ」と苦笑する。
「ばあちゃんに色々聞きたくて帰ってきたんだよ。お前のことは、ついで」
わざわざ自分の進路に口を出すために帰ってきたと言われても腹立たしいが、「ついで」と言われるのもムッとするものだった。それに、母はどうして自分の口から「進路どうするの?」と聞いてこないのだろう。
(聞かれても、困るけど……)
なんだか、何もかもにムシャクシャする気分だった。理由なき不機嫌というのは、自分でも自分の対処に困る。
「進路、悩んでるのか?」
兄は言った。侑人は唇をキュッと噛んで黙る。手元にある兄のデジタルカメラ、その液晶画面に映っているスペインの青空を、侑人はじっと見つめた。
「進路とか、そういうのはさ、なんだろうな、今は未来について考えると、なんだか焦るかもしれないけど、転機って、いつ訪れるかわからないものだからさ」
兄は言った。
「僕の転機が、スペインに行くことだったり、大輝の転機が、スカウトだったり……まぁ、そもそも転機が来るか来ないかもわからないから、その辺りも含めて、不安な気持ちになるのはわかるけどね……」
兄の言葉は、侑人の耳の外側だけを撫でて消えていった。前を歩く人間というのは、どうしてこういう、知った風な口をきくのだろう。そのくせ、ちっとも自分の言葉についての責任は取ってくれないのだ。腹が立つにも程がある。
「兄貴の時がどうだった、こうだったって話し聞かされても、俺は兄貴じゃないし、なんの参考にもなんない」
侑人は言った。
「参考にしろなんて言ってないよ。ただ、先の見えない不安については、共感できるよっていうだけ」
兄は大らかな空気で優しく語りかけてくる。そう言う風な言い方をされると、ますます反抗し辛いのを、この兄はわかっているのだろうか。大人な対応をしてくる兄に対してムキになって反抗すれば、それは駄々をこねている子供のようになってしまうではないか。
これ以上、話していると余計に苦しくなってくると思って、侑人は立ち上がった。
「もう寝る。写真、ありがとう」
兄にデジタルカメラを返して、ベッドに横になった。
「兄貴が寝るとき電気消して」
侑人が言うと、兄は「写真、プリントして欲しいやつ、メモっておいてな」と言った。そして、すぐに部屋の電気は消えた。
兄がモゾモゾと布団に潜る音がする。侑人は兄に背を向けて、壁側を向いて目を閉じる。
「進路、どうしても決められなかったら、しばらく考えても良いんだからな、ウチは別に、卒業したらすぐに就職しろ、みたいな考え、誰も持ってないんだし……しばらく、海外に行ってみたりしても良い勉強になる」
兄の声が、暗い部屋に甘く、優しく、慈悲深く響いた。その声を体全部で浴びてしまって、侑人は己の身を小さく丸めた。寝たふりをして、無言を貫く。
真心と愛情に、首を絞められている気分だった。
*
「へぇ……では、本当に仲が良かったんだなぁ、ウチの兄貴と侑人の兄貴は」
翌日、大学内のコンビニで侑人は柏木と鉢合わせた。二人とも朝一の授業があり、コンビニで朝飯を調達しているところだったのだ。
取っている授業は違うが、互いに行き先は大講義棟だった。コンビニから講義棟までの道すがら、侑人は昨晩、兄から聞いた大学時代の思い出話を柏木に話した。
「柏木の兄貴は、なんか言ってる? ウチの兄貴のこと」
侑人が尋ねると、柏木は「兄は春先からライブツアー中でね」と苦笑する。
「取り壊す前の大講堂の……あの絵の写真を送った時は、すぐ返事が来て、嬉しいと言っていたけれど……それ以降は向こうも忙しいようでね。連絡を取っていない」
侑人はライブツアーというものが、どういうものなのか、いまいちよくわからない。ただポツンと「そうか……」とだけ、返事をした。
「来月にはツアーも終わる。そうしたら連絡も取れるだろうから、俺からも侑人の兄貴について、聞いてみるさ」
柏木は言った。そして、少しだけ黙った後に、
「しかし……不思議な縁もあるものだよなぁ……兄同士が友達で……九歳年下の弟同士も友人になるとは……」
と、しみじみ言った。侑人は、柏木の口から「友人」という言葉が出たことに、少々の照れを感じる。改めて「友人」と呼ばれるのは、こそばゆい心地がした。
「来月か……もう夏休みだ……」
自分が照れていることを悟られたくなくて、侑人は話題を変えた。梅雨はまだ、その尾を引いていて。空模様からは、ちっとも夏を感じられない。それでも暦は進んでいく。来月は七月で、そうなれば後半は夏休みとなる。
「進路は決まりそうかね?」
柏木が言った。
「さすがに夏休み前には進路希望調査、出さないとマズいんじゃないのかね?」
侑人は「うぅ……」と唸る。
相変わらず、紙は真っ白なままであった。
「そう言う柏木は……具体的には、どうするつもりなんだ……卒業後は……」
侑人は苦し紛れに尋ねた。前に聞いた時には「聞いてどうする」と言われてしまったけれど、やはり参考にくらいはしたい。
「俺は地元のライブハウスで働くことになっている」
柏木はサラリと言った。
「……ライブハウス」
侑人は、馴染みのない言葉を口にして、想像する。薄暗く、光がチカチカしていて、そして酒とタバコのイメージがある。
「大学入ってから、いろんなライブハウスを巡っていてな。照明器具の扱い方とか、音作りについても勉強させてもらっているんだ。バイトもずっと地元のライブハウスなもんだから、大学卒業してからもそこで働きたくて。店長に相談したら、ちょうど長く勤めていた人が旦那の転勤だかで辞めないといけないことになったから、代わりに俺を社員にしてくれるということで……」
柏木は、何でもないことのように話した。世間話と同じテンションで。侑人には、それが異次元の話のように聞こえた。自分が想像していたよりも、ずっと前を歩いている友に唖然となる。
(……いや、違う……柏木が、凄いんじゃない……柏木が普通で……俺が、本当に、ヤバい、っていう、だけの話だ……)
侑人は、自分の足が地面ではなく、グニャグニャしたゴムの上を歩いているように思えた。安定していない足下に、視界がブレる。
「……実は、兄貴にも、卒業したらロクロックでローディーやらないかって誘われたりしている」
侑人がひとりで勝手にグラグラしていると。柏木が、急に声のトーンを落として言った。
「……ろーでぃ、」
「あー、なんというのか……バンドをサポートするスタッフみたいな役割の人のことを、ローディーと呼ぶんだ。大きいバンドになると、何人もローディーがいて、その人たちが楽器の手配とか、あと、ツアーで各地を回るとしたら、楽器の輸送とか、あとライブのセッティングとか……そういう色々なことを整える。バンドマンが気持ちよく演奏できるように、お客さんが気持ちよく演奏を聴けるように」
柏木は、身振り手振りを添えて、ゆっくりした口調で、丁寧に説明した。侑人はいちいち頷きながら理解する。自分の知らない世界の話は面白いと思う。
「なんか、柏木に向いてそうな仕事だな」
侑人は思ったまま言った。柏木兄のバンド、ロクロックは音楽に疎い侑人でも知っている。有名なバンドのローディーというのは、それなりにやり甲斐のある仕事のように思えたし、そういうバンドのローディーになりたいと切望している人も多いのではないかと思えた。
柏木にとって、良い話のように聞こえたのだ。だが、柏木は眉をキュッと寄せて、珍しく嫌そうな顔をした。
「ヤだね。身内の手伝いなんて、上手くいくはずない。兄のことは嫌いではないが、兄に顎で使われるのは御免だ」
それに、夏休みとか冬休みとか、長期休暇を使って他のバンドのローディーをやってみたこともあるがね、あの仕事は大変だ、本当にバンドを愛していないと、長いツアー、一緒にくっついて回ることなんて、到底出来るものではないよ
柏木は言った。侑人は、柏木のそういう子供っぽい一面をしみじみと眺めた。普段、どこか達観しているようなところがある柏木だ。年寄り臭いというか、若者らしくない落ち着きみたいなものがある。
それが今は、とても年齢相応の顔をしているように見えた。
(本当にバンドを愛していないと、出来ない……)
侑人は柏木の言葉を反芻する。
(だからこそ、柏木の兄貴は、柏木を誘ったんじゃないのか……?)
侑人はそう思ったけれど、身内に顎で使われる心地悪さには覚えがあるので、黙っておいた。兄弟で一番年下というのは、そういう意味で、変な貧乏くじを引くことがあるものだ。
「思ってたよりもずっと柏木が具体的な将来を考えていて、絶望することこの上なしだ」
侑人は言った。音楽を愛し、音楽の道にしっかりと将来を見据えている柏木。
(柏木は……身内に有名なバンドマンがいるから、バンドを組んだりライブをしたりしないって言っていた……けど、それだけが音楽の道じゃないって、ちゃんとわかってるし、ちゃんと道を自分で見つけてる……)
音楽の愛し方は、ひとつじゃない。
(俺は……絵を描くのが、好きだ……)
でも、兄のようになりたくは、ないのだ。
(別の道……絵を好きなままでいられる、別の道……)
そんなものは、あるのだろうか。侑人がため息をついたタイミングで、大講義棟に到着した。柏木は三階、侑人は五階で授業だ。別れ際、柏木が言った。
「侑人が進路で悩んでいる姿は学生らしくて、青春らしくて、大変よろしいがね、あんまり深く考えすぎるのも良くないぞ」
何にならなくても良いんだ、別に、侑人が自分で気に入る人生を歩けば、それで良いと俺は思うぞ
侑人は柏木に、ポンと軽く背中を叩かれた。
「じゃぁな」
三階に到着して、柏木はさっさと教室へ行ってしまった。その後ろ姿は、相変わらずギターを背負っていて。大きなケースに対して、柏木自身が小柄に見える。実際、柏木は侑人が思っているよりもずっと小さいのかもしれない。
それなのに、対面で話していると、その思考の安定性や、人柄、大らかさなどから、実際よりも大きく見えているのかもしれない。
柔らかく叩かれた背中が痛い。
(自分が気に入る人生って……なんだ……?)
どうすれば自分のお気に召すのか、自分のことなのに、ちっともわからない。
その日、侑人は夕方まで授業が入っていた。昼過ぎから少し時間が空いていて、柏木に連絡をしようかと思った。けれど、なんだか今、柏木に会うのは気詰まりな感じがして、やめておいた。
大学からの帰り道、帰宅時の電車は混雑していた。侑人は、ぼんやりと車内の様子を観察する。夕方というのは、日の光の力が朝よりずっと強い気がする。車内は人工の光と、日の光に照らされていて、妙に明るかった。
電車の中にいる人々は、そのほとんどがスマートフォンの画面だけを見つめている。その他の人々は、目を閉じていたり、本を読んでいたり、音楽を聞きながらボーッとしていたり。
侑人は思う。
この人たちに届く絵画なんて、あるのだろうか、と。それも、有名な画家の絵ならともかく、無名の画家、売れない画家の描いた絵が、届くことなんて、あるのだろうか。
(俺は……兄貴みたいに、なりたくない……)
兄のことを「売れない画家」と称する人は、誰もいない。けれど、彼の周りにある目は無言のままに、そう言っている気がする。その中には、侑人自身も含まれている。侑人は兄を「売れない画家」だと思っている。
(兄貴は……そういう視線に晒されて、どう思ってるんだろう……)
平気なのだろうか、気にしないのだろうか、それとも、実はとても傷ついているのだろうか。
兄の絵が、この車内にいる、スマートフォンに夢中な人たちに、仕事や学校で疲れ切った人たちに、届くような日が、来るのだろうか?
侑人には、そんな日は絶対に来ないように感じられた。小さい頃に読んだ、絵本のおとぎ話よりずっと。ずっと、現実味のない話のように思えた。
*
家に帰り着くと、玄関先から、もう墨の匂いがしていた。その匂いは、侑人にとっては、日本画家である祖母の家の香りだった。
「おかえり、侑人」
侑人の「ただいま」の声に、母より先に兄が二階の自室から降りてきた。
「ただいま」
嫌な予感がして、侑人はあまり兄の目を見ないようにして言った。けれど、兄というイキモノの勢いは、弟を圧倒的に黙らせる何かを持っている。
「侑人、着替えたらちょっと手伝って」
有無を言わさぬ声色に、頭が痛くなる。兄はニコニコとして楽しそうで、その視線は前を向いて輝いていた。
「何すんの」
侑人がぶっきらぼうに尋ねると、兄は「墨をすって欲しい」と言った。
「あれ、手が疲れるんだよ」
悪気なく言う兄に、侑人は本当に白目を剥いた。疲れるから弟にやらせるのか、この兄は。ひとりで勝手にやれよと言いたいのに、言ったところで「侑人、暇じゃないの?」とか聞かれるのが目に見えている。暇な自分にも腹が立つ。もっと何か、やらないといけない気がするのに、なにをしたら良いのかわからない。自室に戻ってやることと言えば、絵を描くことだけだ。
それが楽しい。絵に関わることは、楽しいし、充実感がある。そう思うから、やっぱり侑人は、腹立たしい。
兄の手伝いは嫌だと思うのに、絵を描く手伝いをするのは、やぶさかではないのだ。
昨日までの兄の部屋は画材に溢れていたけれど、昼間に整理をしたのだろうか、それなりに片付けがされていた。
部屋の真ん中にはキャンバス。床には大量に新聞紙が敷かれていて、その上に多種多様な筆、それに硯と墨がある。
何色か、水彩絵の具も溶いてあって、兄がこの作品を、ただの墨絵にするつもりがないことが伺い知れた。
「ばあちゃんとこ、行ったの?」
部屋着に着替えた侑人は、兄の部屋の床に座って言った。墨をする作業は、小さい頃から祖母の手伝いでよくやっている。手慣れたやり方で、硯に水を垂らして、さっそくすり始めた。
「行ったよ。勉強になった。明日も行くけど、侑人も行く?」
「大学ある」
「サボればいいだろう? 単位、足りない?」
「足りてるけど……」
サボるという選択肢は、侑人の中にそもそも存在していなかった。
「変に真面目だよね、おまえは」
昌秀は、慈しむような瞳で侑人を見た。黒目の大きな瞳をスッと細めて、眉尻を下げる。まるで小さな子猫でも見るような視線。侑人を反射的に苛立たせる視線だった。
「進路のこと、ばあちゃんも心配してたぞ」
兄は言った。侑人は、ただ硯だけを見て、墨をすった。
「あんまり、真面目すぎても、悩むばっかりで大変だろう。大学に提出する進路希望なんて、別にそんなに真剣になって書かなくても良いもんだぞ?」
ただの「調査」なんだから
大学側が、何かデータ的なものを作るために必要なだけなんだから
大丈夫だよ、適当に書いても
兄の言葉を、侑人はもっともだと思った。けれど、実際、どういう風に今後の人生を歩もうかと考えた時、その道筋がサッパリ見えない恐怖というのは、拭うことが出来ない。
侑人だって、進路調査については、提出期限までには出すつもりでいる。あの紙切れに、そこまで真剣になっているわけではない。
けれど、あの紙切れは「きっかけ」だ。自分がどこを歩いているのか、今後どこを歩いていくのか、何も決められていない自分を目の前に突きつけられた。
その事実に、戸惑いと、動揺があるのだ、今もずっと。
「日本画をやるなら、ウチにおいでって。ばあちゃんが言ってたよ」
兄は言った。
「でも侑人が墨すってるの、久しぶりに見たし、侑人は日本画って感じじゃないよなぁ」
なんだろう、イメージだけど、侑人は油絵の感じがするよ、厚く塗り重ねて、良い味が出せそうな、そんな感じ
侑人は、兄がキャンバスに何かしら鉛筆で薄く描いているのを横目に見た。
「兄貴は、やっぱり水彩って感じ。前にやってた油絵も、日本画も良いけど……大学の、あの、抽象画は、なんか、兄貴っぽくなくて、ちょっと意外だった」
侑人は言った。
「僕もそう思う。あれ、変な気合いを入れて描いたから、なんか僕らしくない絵になっちゃった」
兄は、懐かしそうな声色で言う。侑人の耳に、その声は切なく響いて仕方がなかった。
「墨、どのくらい必要なの」
手を動かしながら、侑人は尋ねた。
「絵を描かないっていう選択肢もあるの? 侑人の中には」
弟の質問に答えず、兄は言った。侑人の墨をする手がピタッと止まった。
止めようと思ったわけではないのに、自然と、止まった。
「とりあえず、ウチの両親とか、ばあちゃんとか、僕が聞きたいのは、そこだけだと思うよ」
兄は言った。侑人は、口を動かそうとしたけれど、舌が乾いて、重かった。黙ったままでいると、兄が言った。
「普通に会社で働くっていうのも、ひとつの道だけどねぇ……」
もちろん侑人の将来だから、侑人が決めることで、家族が口を挟むべきじゃないから、好きにして良いんだけどね
兄は取り繕うようにして言った。あまりにも、取り繕うのが下手くそだ。侑人は、苛々した口調で、言った。
「そもそも、俺の絵、見てないのに、どうして絵描きにしようなんて思うんだか、そこがわからない」
侑人が言うと、兄は笑った。
「そんなの、侑人が絵を描いてる時、一番楽しそうだからに決まってるだろ」
当たり前のように、言われた。侑人は絶句する。
「楽しそうって、それだけじゃ、駄目だろ、そんな、子供じゃないんだから……」
子供のお稽古ごとの話ではない。これから大人になる人間の、人生の進路の話だ。けれど、兄は不思議そうな顔をする。
「楽しそうだけじゃ、なんで駄目なんだ? 楽しくて得意なことがあるんだから、それを生かして悪いことはないだろう」
父さんの画廊があるんだから、売り出すのにも苦労はいらないし、コンクールに応募してみるのも良い、スペインで良いなら、僕の知り合いの画家を紹介出来るし、そこでしばらく学んでも良い、そうだ、兄弟で展示会を開いてみるのもアリだな、楽しそうだ
兄は、キャンバスの方ばかりを向いて、軽やかに話した。侑人は、悲しい気持ちになって、泣きたくなった。墨を硯の端に置いて、
「このくらいで足りる?」
と、聞いた。兄は硯を見て「ありがとう」と笑った。
「……俺は、兄貴と違って、人には絵を見せない」
侑人は言った。兄は「そのうち見せたくなるよ」と言った。
「見せないって決めてる。俺は兄貴とは違う」
侑人は強く言った。兄は、侑人の前にしゃがみ込んだ。
そして、硯の中の墨に、右手の人差し指で触れる。触れた途端、兄の指先が、淡く灰色に染まった。
「侑人、墨するの昔から上手だよなぁ。ちょうど良い感じだ」
深く頷きながら、兄は指先をティッシュで拭う。そして、弟の顔を正面から見据えて言った。
「何に、そんなに、怯えているんだ、おまえは」
あまりにも、真っ直ぐな視線だった。逸らすことは、決して許されないような、強く拘束力のある視線。侑人は、口を開いて、けれど声を出す前に、再びキュッと唇を引き結んだ。
「あんまり優柔不断だと、周りから人がいなくなる。チャンスも、逃すことになる。この先の人生もずっと、困ることになる」
言いたいことがあるなら、はっきり言った方が良い
兄は侑人の両肩を掴んで言った。侑人は、なんだか虐められているような気分だった。責められて、虐められて、蔑まれているような気持ちだった。鼻の奥がむずむずして、スンっと一度、強く吸った。
「……兄貴は、今の世の中に……絵って、本当に必要だと思う……?」
侑人は尋ねた。兄は、そういう質問が来るとは思っていなかったようで、強かった視線が急に緩んだ。
パチクリと瞬きをして、兄は弟を見つめる。掴んだ両肩はそのままに「侑人、そんなこと考えてたの?」と言った。
侑人は、そっと、兄の手を肩から退けた。片方ずつ、そっと。そして言った。
「兄貴たちの世代と、俺たちの世代は違う。たった九年って思うかもしれないけど、九年違うと、全然違う」
「どう違う?」
兄は興味深そうな顔をして言った。侑人は、言い方や表現に迷いながら、
「……幸せの、純度、みたいなものが、違う」
と言った。
「また随分と抽象的だな。やっぱりお前は芸術家肌だよ」
兄は苦笑して、けれど、侑人の隣にちゃんと座り直した。
「それで?」
話を促されて、侑人はまた、言葉を探す。
「……大学の友達、高校の時の友達もだけど……片親の人がすごく多い……バイトして、自分で学費払ってたり、奨学金借りながら通ったりしてるヤツも、結構いる」
友達の友達なんかは、大学に通いたかったけど、学費どころか入試を受けるのにも金がかかるから、無理で、結局高卒で働いてるっていうヤツもいるらしいし、進路希望だって、大半が企業就職で……いろんな会社調べて、安定していて、ボーナスが貰えて、それなりに給料の良いところを探したりしていて……
「そうやって、頑張ってる人たちが大勢いる中で、俺はなんか、画家になりたいとか、絵を描いて暮らしたいとか、そういうの、なんか、違うって思うし、なんて言ったらうまく伝わるのか、わかんないけど……そんな世の中で、絵って、本当に必要なのかな、とか考えるし」
絵を楽しむだけの余裕がある世の中だとは、俺には、とても思えないし……
だったら、絵を描く意味なんて、もうないんじゃないかと侑人は思う。人から必要とされていない芸術に、なんの意味があるのだろう。
「兄貴は、変だって思わないの、ウチの感じ。じいちゃんばあちゃんも含めて、親も、みんな、なんか時代錯誤っていうか……」
侑人は、自分の中の気持ちを整理しながら、なるべく落ち着いた声で、けれど一生懸命に話した。兄は、頷くこともせず、ジッとして、侑人の話を聞いている。研ぎ澄まされた感覚の中で耳を傾けているような。ピンと張りつめた空気があった。
侑人がこれ以上、うまく話せなくて黙り込むと、部屋は静寂に包まれる。墨の香りが充満する部屋で、兄弟が二人、黙りこくって床に座り込んでいる。しばらくの後、兄が口を開いた。
「侑人は、周りの人と、同じでいたいということか?」
自分だけが、浮き上がるのが、浮き出てしまうのが、嫌だということ?
兄の声は、純粋な疑問に満ちていた。侑人は、その疑問に対して「違う」とも「そうです」とも言えなかった。完全に否定することも出来ず、けれど肯定するのも違和感があった。
「別にみんなと同じでいたいわけじゃないけど、自分が異質なものだっていうのは、すごく嫌だ」
侑人は言った。子供の言い訳みたいな声になってしまって、少し恥ずかしかった。
兄は興味深そうな顔をして「僕はそんなこと、考えたこともなかった」と言った。
「今の世の中が、ちょっとびっくりするくらい厳しいことは、耳で聞くだけでだけど、知っているつもり。でも、そうか……侑人の世代は、もっと、こう、肌で感じてしまうもんなんだな……周りの友達がそういう感じだと、うん……確かに、考えずにはいられないのかもしれないな……」
兄は侑人のことを非難したりはしなかった。けれど、侑人の欲しい答えも、持ってはいないようだった。深く深く考え込むような顔をして、兄は言った。
「侑人が僕の兄で、僕が侑人の九歳年下の弟だったら、同じことを悩んだんだろうか……?」
侑人は、きっとそういう事にはならないだろうと思った。兄は、例え弟という立場に産まれたとしても、その魂は今のままであるような気がした。
(俺は、どうだろう……)
侑人は考えた。今、自分が二十九歳で、九歳年下の弟がいる。その弟が、どうやら進路で悩んでいるらしい。
(……確かに、口を出したくなる、気がするな……)
侑人は小さく苦笑した。兄の気持ちが、ほんの少しわかったような気持ちになった。
*
「幸せの純度ねぇ~……いやぁ、響きだけでもロックだなぁ……」
翌日、大学に向かう途中で柏木から連絡が来た。
『英語の小野センセ、盲腸により緊急入院。本日休講』
英語は唯一、柏木と侑人が被って取っている授業だった。
「マジか……」
本日、侑人は英語の授業のためだけの登校だった。もうすぐ大学の最寄り駅まで辿り着いてしまう。
(これなら兄貴と一緒にばあちゃん家に行った方が良かったかな……)
侑人は思った。祖母のことは、とても好きだ。甘やかしてくれる人ではないけれど、七十五歳にして未だ凛とした空気を持っていて、毅然としている。いつでも正しいことをズバリと言ってくれる気がするのだ。
それに、日本画の手法について話を聞くのも好きだった。
『暇だし、昼飯でも一緒にどうだね』
侑人がげんなりした気分でいるところに、柏木から再び連絡が来た。他にすることもないし、腹も減ったと言えば減っている。学食に集合、ということで話は決まった。
まだ昼の時間には早い学生食堂は、人がまばらで、けれど若い人間の放つ気配で、曖昧に賑やかだった。
気怠かったり、爛々としていたり、眩しかったりする、様々な空気の中。侑人は昨晩、兄と話した内容をざっくりと柏木に話した。
「兄貴たちの世代とか……それよりもうちょっと上の世代とか、もちろん親の世代とかさ……なんか俺たちと感覚がズレてる気がして、話が上手く伝わらないんだ」
侑人は言った。至って真面目な相談だったので、平坦な口調になる。柏木は、片方の眉だけを器用に下げて頷いた。
「侑人の言いたいことはわかる。俺たちの親の世代は特に、それなりに潤っている人たちが多いからなぁ」
侑人は頷いた。柏木の言うところの「潤っている」という表現が、妙にしっくりきた。
「経済的なことが全部なんて極端だってわかってるけど、金の苦労がないことで、やっぱり心のゆとりみたいなのって出来る気がするし……そういうゆとりがないと、芸術って、無価値な気がするんだ」
侑人は言った。柏木は、カレーライスを食べていたが、一度スプーンを置いて、大きく伸びをした。伸びながら、学食の天井を見て「うーん」と唸る。
「しかしながら、潤っている層はいつだって存在するだろう? そういう人たちが芸術を欲するのならば、無価値とは言いきれんのではないか?」
「金持ちのための絵とか、俺はちょっと、ヤなんだけど」
侑人は、顔をしかめた。柏木が「このワガママっこめ」と言って笑う。
「ワガママなのか、それは」
侑人が不服を訴えても、柏木は「ワガママだろう」と断言する。
「侑人、君は兄が売れない画家であるのがイヤなのだろう? 兄のようになりたくないと前に言っていた。つまり、画家になるのなら、売れる画家になりたいのではないのか? 売れる画家というのは、つまり収入が多いということだ。では、収入とはどこから得るものだ? そんなの、生活にゆとりのある金持ちからの収入に決まっているだろう」
侑人が、自分と同世代の人間に絵を売りたいと思うのならば、それは同世代の人間が気楽に買えるくらいの値段感でなくてはならない
「それで収入を得よう、売れている画家になろうなんて考えたら、大量に売らなくてはいけなくなる。大量に売るのであれば、絵画でなくて良い。印刷で良いじゃないかという話になる」
それこそ、画家の価値というものが、いよいよ怪しくなるではないか
柏木は流れるような声で、途切れなく言った。あまりの正論に、侑人は反論をする気にもならない。
「ますます俺は自分の将来が迷宮入りしそうだ……」
侑人は自分の目の前にある生姜焼きを箸で突いた。
「誰にも未来のことなんてわからんさ。指針だけ、なんとなく立てられればそれで良いじゃないか。侑人は生真面目に考えすぎだ」
柏木は言った。
「それ、兄貴にも言われる」
侑人は悲しい気持ちになる。別に好きで生真面目を気取っているわけではない。産まれ持った性格なのだ、一体誰に似たというのだろうか。侑人は、柏木の顔を見ずに、生姜焼きを見つめて言った。
「親って、自分たちが基準だって思っているところ、あるだろう? 自分の育ってきた環境が当たり前で、子供にも、それと同じ環境を与えようとする、みたいな……」
自分たちが育ったのと、同じだけの環境を子供にも与えようとする。それが「普通」のことであり、それが「一般的」なことであると信じている。侑人は、思いつくままを口にする。
「ウチの親は、離婚しないのが当たり前だって思ってるし、一応母親は茶道教室みたいなことやってるけど、基本専業主婦が当たり前だと思ってるし……」
シングルマザーのニュースを見たり、子供の貧困のニュースを見たりしても、そういう話を見たり聞いたりしても、全然、他人事っていうか、自分とは関係ないことのように思ってるし、そういう「特殊」な人もいるのねっていう言い方をするし……
「今の世の中、金にちっとも苦労せず、なんでもかんでも好きにして良いよって言われる家庭の方がよっぽど特殊だと言うのになぁ、みたいなことかね?」
柏木が言った。侑人は頷く。
「俺は金銭的な苦労とか、ちっともしないで生きてきたけど……その代わり、いろんな部分が欠けてる人間な気がする……現に、自分の将来のことだって、自力で決められない……なんか、選択肢がありすぎるし、全体的に俺自身も世間とズレてる気がするし、同級生と、あんまり話が合わないし、俺が普通だと思っていることを普通に発言するだけで、その場の空気が凍ったりすることもあるし」
最後の方は、愚痴とぼやきが混ざったような声になって、侑人は言った。柏木はニュッと腕を伸ばして、侑人の頭をポンと軽く叩いた。
「そういうことに、気付けているだけ、キミはマシなのかもしらんね」
気付けずに、勝手にどんどん世間ズレをしていってしまう人間も、この世の中にはいっぱいいるものだよ
「それに、幸せの純度が下がっている気がするという侑人の意見には、俺も賛同するところだ」
音楽を楽しむ余裕のある人間も、少なくなってきている気がする
「でも、音楽番組とか未だに人気だし、データで音楽をダウンロードして聞く人も多いだろう? 電車で観察してみても、イヤホンしてる人は多いし」
侑人が言った。柏木は笑う。
「それは気楽な大衆音楽に限る話だ。クラシックとかで考えてみたまえ。ショパンやらベートーベンやらはまだ有名だから良い。現代でクラシック音楽の作曲をやっている人間の名前が、ひとりでも思いつくかい?」
侑人は、柏木の言うところの大衆音楽にさえ、詳しくない。クラシックなんて、もっとわからないに決まっている。
しかし、クラシック音楽と聞いて思い浮かぶ「高尚さ」や「敷居が高い」イメージは、絵画鑑賞と同じような場所に分類される気がして、そういう意味では、柏木の言っていることはよく理解出来た。
「景気が悪いのが悪い」
侑人が忌々しい口調で言った。柏木がケラケラと笑う。
「まるで評論家だな! そういう様々なことを考えて研究する道に進むのも悪くないんじゃないのか?」
「ソッコーで禿げそうだ、それか、気が狂う」
侑人は言いながら、力なく笑った。
*
七月になった。
侑人は、大学からせっつかれて、なんとか進路希望調査を提出した。調査書には、無難に第一希望「就職」、第二希望「家業を継ぐ」、第三希望「海外留学」と記載した。
第一から第三までの順位は、侑人の希望順ではなく、他人の目から見た時に、違和感のない順番にした。
そして「画家を目指す」という希望を記載するのは、やめた。
何度か第三希望に書いてみたものの、あまりにもその字面が浮いていて、恥ずかしくなって、赤面して消すことを繰り返した。
大学生にまでなって夢を見ちゃっているお気楽な人間、のように見えるような気がしてしまって、居たたまれなかった。
夏休みに入る前、柏木から、
『兄貴がツアーから戻った。侑人のこと、侑人の兄のことを話してみたら、侑人兄に会いたいと言ってウルサいのだが、どうだろうか?』
という連絡が来た。その頃、侑人の兄である昌秀は、ちょうど依頼された絵を集中的に描いている時期で、アトリエに籠もりきりな様子であった。
『今、なんか仕事忙しいみたいだから、すぐに会うのは無理かも。一応連絡はしておく』
侑人はそう柏木に返事をした。夏の入り口の日差しが、日々、外の世界を覆っていた。
強すぎない日光、けれど世界は眩しく白みはじめている。まだ七月も初旬だというのに、気温はグングン上がっていって。けれど湿度も健在で。どうにも息苦しい夏だと侑人は思った。
大学内は早くも夏休み前の浮ついた雰囲気に包まれていた。特に大学三年生たちには、最後の夏休みを楽しもうというような気迫と勢いがあった。来年の夏は、きっと就職活動やら卒業研究やらで忙しくなるのだと想像がついている。
(夏休みかぁ……)
侑人は思った。
何をしよう、と思う。
もちろん、毎日絵が描けるとは思う。だが、それは侑人にとっては日常だ。日常と、何も変わらない。
「バイトでもしてみたらどうだね?」
ぼんやりと歩いていたら、急に後ろから声をかけられた。
「びっ、くりした……」
「おはよう。今日も絶好調に浮かない顔だな」
午前中の光に照らされて、黒髪をピカピカさせながら、柏木が言った。
どうやら同じバスで登校していたらしい。侑人も真面目だが、柏木も大概にして真面目だ。授業をサボったところを見たことがない。
「もうすぐ夏休みじゃないか、侑人くん!」
柏木が言った。
「だから憂鬱なんだよ」
侑人が言うと「だと思ったさ」と柏木は、頷いた。
「だから、バイトでもしてみたらどうだね、という提案をしたわけだ」
「挨拶を先にしてくれ。あまりにも本題が早すぎる」
侑人が言うと、柏木はワハハと極度の大らかさをもって笑った。
侑人は、社会経験と呼ばれるようなものを、一度もしたことがない。
バイトもしたことがなければ、ボランティア活動などの地域の活動に参加したこともない。
そもそも、父も母も兄も、アルバイトの経験もなければ、就職活動の経験もないのだ。侑人にとって、社会というのは、遠い遠い国の物語のように霞んでしか見えていない。
「バイトって……何をすれば良いんだって話だし……そもそも進路も決められてないのに、バイトって……」
「それこそ~バイトなんだから~もっと気楽に考えてチャレンジしてみれば良いじゃないか! 時給で選んでも良い~家から近い場所ということで選んで~みても良い~」
柏木は鼻歌まじりに言った。
「履歴書、書いたことない」
「何事も、誰でも、はじめてはあるものだ」
柏木はいつも、侑人の言葉を前向きにして打ち返す。決して苛つくことなく、穏やかに。
「俺はお前を尊敬するな」
侑人は柏木の方を見ながら言った。柏木は、アーモンド型の目をキョトンとさせて、間抜けた顔のリスみたいになって「急だな」と言った。
「柏木と友達になれて良かった」
重ねて侑人が言うと、柏木は流石に照れたような顔をした。
「そこまで煽てられては仕方がないな。侑人くんに提案があるよ」
柏木が言った。
「提案ー?」
侑人は、今度は不審な目で柏木を見た。
「何の考えもなく、唐突にバイトしたらどうだね? なんて、言わないさ、俺も」
柏木は含み笑いをして、侑人を見る。二人はバス停から、のろのろと歩いて正門を抜ける。
左右対称にそびえ立つ学生棟と図書館の間は、建物が日差しを遮っていて薄暗い。けれど、そこを通り過ぎると、急に視界は広がる。
東西に真っ直ぐに延びる歩道。燦々と降り注ぐ日差しに、時折風が吹いて、遠くで蝉の鳴く声が聞こえている気がした。
「今、実家にな、兄だけでなく、姉まで戻ってきているんだがな」
柏木の声は、夏のはじまりの輝きの中で、まろやかな円の形になって聞こえてくる。
「その姉がな、都内の企業で働いているんだが、なんでもインターンシップ生を募集しているらしくてなぁ」
「……インターンシップ」
侑人は、言葉を覚えたばかりの子供のような発音で繰り返した。
「姉が今年、そのインターンシップの担当をすることになったらしいんだが、もう一人、二人、人数が欲しいらしいんだ」
どうだ、侑人、試しにやってみてはどうだね?
柏木が言った。侑人は目を瞬かせる。
「バイトもしたことないのに、急にインターンシップとか、言われても……」
「バイトもインターンシップもしたことないのに、急に社会人になるよりはいくらかマシというものだろう?」
柏木は、すかさずに言った。本当に、この男は正論しか言わないな、と侑人は思う。
「とりあえず、姉に会ってみるだけ会ってみないか? まずは履歴書を姉に提出して、インターンシップに参加出来るかどうかは、それからの話だ」
悩んでいても進めないなら、どの方向でも良いから一歩進めてみたらどうだね?
「柏木、履歴書、作ったことある?」
「あるさ」
「……ご助力をお頼み申し上げたい……」
侑人は言った。お安いご用さ、と柏木は侑人の背中を叩いた。
*
夏休みに入る直前、侑人は柏木の姉と会うことになった。都内のカフェで、履歴書を提出しながら、軽い面談をするとのことだった。
『私服で良いそうだぞ』
と、柏木から連絡が入ったけれど、私服というのはどの程度が許されるのだろうか。
侑人は普段、服装に拘りがない分、悩むこともない。なんとなく、あるものを着ているだけだ。
「人生で初めて服装で悩んでいる……」
自分の洋服が収納されているラックの前で、独り言を呟く。履歴書は、柏木にアドバイスを受けながら、就職支援センターにも相談しながら、書き上げた。
支援センターの職員は、侑人が「インターンシップを受けたいんですけど……」と相談すると、大袈裟なくらい驚いて、そして何故か嬉しそうにしていた。
どこの会社を受けるのかを尋ねられて、柏木の姉の勤めている会社名を伝えたら、更に仰天された。なんでも、その業界ではトップクラスと名高い企業らしい。企業研究もほとんどしていない侑人は、そんなことはちっとも知らなかった。
「会社や企業というものを知ることは、具体的な選択肢を広げることにもなるし、君にとって、きっと良い経験になると思うよ」
支援センターでは、いつもこういう、希望とか未来とか、そういう甘く聞こえたり、美しく聞こえたりするような言葉が、飛び交っている。
けれど、その言葉に対する学生は、みんなもっと冷めていて、地に足がついていて、そして現実を悟っているような顔をしている気がした。
(支援センターの……職員の人たちも、なんか……ウチの兄貴くらいの年齢の人、多い気がするな……)
やっぱり、ここでも、世代間の差というのは、あるものなのだろうか。侑人は、何度か履歴書を添削してもらいつつ、就職支援センターの寒暖差について思いを馳せたりした。
柏木姉と会う当日。
侑人は、襟付きの白いシャツと紺色の麻のズボンという出で立ちで待ち合わせ場所のカフェに向かった。適度にラフで、適度にカッチリした印象を、と思い悩んで決めた服装だ。
いつもティーシャツやパーカーを着ているので、襟のあるシャツは少し窮屈に感じた。
(就職して、会社員になったら……こういう服装を、毎日するんだろうなぁ……)
ネクタイも締めるのかな? と考える。侑人は、中高と私立に通っていたが、私服での通学が許されていた。ネクタイなんて滅多なことがない限り、締めることはない。
侑人は、約束の時間の十分前に、カフェに到着した。到着したのは良いけれど、この先どうしたら良いのだろうかと迷った。
とりあえず、二人掛けの席を選んで座り、柏木から聞いている連絡先に到着していることをメールで送った。
(……なにか、注文しておいた方が良いのか……それとも、相手が来るまで待っていた方が……あ、履歴書、出しとこうかな……いや、気が早いのか……? 携帯いじってるのは印象悪いかな……)
頭の中で悶々としながら、居心地悪く座っていると、『今、到着しました』という新着メールが入った。
侑人が入り口の方をチラリと見ると、いかにも仕事が出来そうな雰囲気の女性が入ってきたところだった。
(肩あたりまでの真っ直ぐな黒髪、アーモンド型の目、小さい鼻……)
顔の雰囲気を見ただけで、侑人には、彼女が柏木の姉だと推察がついた。
(口元はちょっと違うけど、他の顔のパーツが柏木そっくりだ……)
細い首には銀色の華奢なネックレス、ネイビーの半袖シャツ、膝より少し短いスカート、足は……ストッキング履いてるな、ヒール高いな……よくあれで転ばないよな……
侑人は、あまりにも自然に、そして無意識に。グッと「見る」方向に力が入ってしまった。
(やっぱり柏木と同じでバランスが良いな……肩が細い分、髪はもう少し下にボリュームを持ってきた方が、まとまりが出る気がするけど……スカートも、上がネイビーだから、あの色よりもう少し濃い色で……)
そんなことをカタカタカタと歯車が回るように考えていたら、バチッと彼女と目が合った。侑人は喉元で「ヒュッ」と息を吸って、慌ててペコリと頭を下げた。
彼女は、その仕草で侑人のことを待ち合わせ相手であると判別したようだ。無駄のない仕草で、スッスッと侑人の座る席まで来ると、
「はじめまして、柏木です。西侑人くん?」
と、ハキハキした声で尋ねた。侑人は、無言で頷きそうになるのをすんでのところで抑えて、
「はい、西、侑人です。お、お世話に、なります」
つっかえながらも、そう言った。
彼女は、キリッとした笑みを浮かべて、肩にかけてた大きな鞄から、小さな革のケースを取り出す。そして、ケース中から一枚の紙を取り出して、侑人に差し出した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
彼女がそう言って差し出した紙、それは名刺だった。侑人は慎重に受け取った。
名刺には「柏木彩輝」と書いてあった。読み方もローマ字表記されていて「カシワギ、サキ」と読むことがわかった。
「兄弟、みんな、輝くという字が入るんですか?」
侑人は、思わず呟いた。あんまりに普通に話しかけてしまって、瞬時に「しまった」と思ったけれど、彩輝は笑った。
「そうなのよね、輝きっぱなしの兄弟よ。名前、並べて書くだけでチカチカしそうになる」
何か飲む? コーヒーで大丈夫?
彩輝に尋ねられて、侑人は「え」と「はい」を繋げたような言葉を発した。彩輝は財布だけを持って、とっととレジの方へ注文に行ってしまった。侑人は、ここで奢られても良いものか、そもそも飲み物などいりませんと言うべきだったのか、わからない。
(頭が考えることを放棄しそうだ……)
侑人は思った。
しかし、侑人のそんな心配を余所に、彩輝はコーヒーを飲みながら、さっさと話を進めた。その事務的な感じや、さっぱりした性格が、侑人には有り難かった。
昨晩から変な緊張をしていて、ずっと胃やら脳やらがグツグツしていたのだ。
「西くんの話、弟からちょっとだけ聞いてきた。進路、悩んでるんだってね」
彩輝の桃色の唇が動く。コーヒーカップには、うっすらとピンク色に口紅の跡が残っていた。
侑人は、それをイケナイものを見るような気持ちで見た。思えば、女性と二人でカフェにいるなんていう状況も、はじめてのことだ。
彼女なんて、いた事がない。それ以前に、女友達だって極端なくらい少ない。
「履歴書、持ってきた?」
尋ねられて、侑人はまたしても「あ、はい」という歯切れの悪い返事をしてしまった。自分の情けなさに顔が熱くなるのを感じながら、侑人は履歴書を手渡す。
履歴書を作っている時、あまりにも書けることが少ないのに驚いて、そして落ち込んだりした。免許の欄など、書けるものがひとつもなかった。侑人は運転免許さえ、持っていない。
「特技のとこにある、油絵っていうの、これが、誰にも見せないっていうヤツ?」
彩輝は、少し楽しげな視線を侑人に向けて言った。
「柏木から……あ、いや、悠輝くん、から、聞いたんですか?」
「柏木」は、目の前の彼女の名字でもある。いくら弟のことでも、呼び捨ては不味いだろうと思って、名前で呼んだ。彩輝は笑った。
「俺の友達は少々変わり者でな、画家になる才能があるらしいが、描いた絵は誰にも見せないそうだ。ロックだろう? って言ってた。似てるでしょ?」
彩輝は、弟の口調を真似て言った。やはり家族だ、それなりに似ていて、侑人は笑った。
「似てます」
「ようやく笑った。石像みたいな顔してたから、大丈夫かと思ったけど。まだインターンシップの話だけだし、就職面接じゃないんだから、気楽にね」
彩輝は言った。そして、細い指先で、器用にコーヒーカップを持ち上げて、口に運ぶ。流れるような仕草、全部がまろやかで、円を描くようで。本人の雰囲気は、シャキッとしているのに、そのギャップに侑人は目を奪われる。
「……君、視線がうるさいって言われない?」
彩輝が言った。侑人は、ポカンとして「え?」と言った。
「働くおばさんが、そんなに珍しいかい」
彩輝は苦笑する。
「おばさん、では、ないかと……」
侑人は、思ったままを言った。柏木弟の話では、確か彩輝は一回り上の、三十二歳だ。侑人にとってのおばさんというのは、自分の母親くらいの年齢の人を意味している。
しかし、彩輝は侑人のフォローなど、どうでも良いらしい。「まぁ、いいや」の一言を発すると、さっそくインターンシップの概要を話し始めた。
「ウチの会社のインターンシップ、ちょっと特殊でね。他の企業さんとかは一日だけのところとか、長くても三日くらいで終わるところが多いんだけど……弊社は五日間、月曜から金曜まで、正社員が働く一週間を体感してもらってます。八月の第一週の月曜から金曜までね。予定、大丈夫?」
侑人は彩輝の話すことを、所々手帳にメモしながら聞いた。予定については、すぐに「大丈夫です」と答えられる。なにせ、夏休みの予定は皆無なのだから。
「メモ取るのは良いことだね。最近の子はメモじゃなくてスマホに打ち込んだりする子が多いから」
彩輝は言った。
「スマホだと、駄目なんですか?」
侑人は、素朴な疑問として尋ねた。彩輝は、曖昧に笑う。
「駄目じゃないんだけどね、世代差っていうヤツかな。ジェネレーションギャップ。私たちの世代的にはちょっとギョッとする。私が学生のころ、まだスマホなんてなかったもん」
折りたたみ携帯とか、そういうの、知ってる?
侑人は、兄が使っていた古い携帯電話を思い出す。
「九歳上に兄がいるので、わかります」
侑人が言うと、彩輝は思い出したように「あー!」と少し大きな声を出した。
「そうだった、君のお兄さん、ウチの大輝と友達だったんだっけ。それも悠輝から聞いてる聞いてる!」
彩輝は笑いながら、再び侑人の履歴書に向き直る。
「バイト経験もないんだね。ずっと絵を描いてたから? それとも、他に事情とかあるの?」
侑人は、改めて尋ねられると情けないな、と思った。
「絵を描いていたからです。アルバイトをするっていう、そういう思考が、あんまり、なかったというか……家族に、そういうことを経験している人もいなくて、当然のように、自分もしないまま、ここまで来てしまいました」
まるで懺悔だった。彩輝は、特に表情を曇らせることもなく「そうなんだ」と軽く言った。
「絵はどうして見せないの?」
直球で聞かれた。侑人は再び懺悔の心境だ。
「絵を、嫌いになりたくなくて……自分の描いた絵を否定されたり、馬鹿にされたり……興味を持って貰えなかったり、ちっとも見て貰えなかったりしたら……そう思うと、怖いし、それで絵を描くこと自体を嫌いになりたくなくて……」
侑人の言葉に、今度は彩輝の左側の眉が、小さく動いた。細く整えられた眉が、一瞬だけピクリと跳ねたのだ。
「そうなんだね。やっぱりお兄さんが画家だと、萎縮しちゃったりとか、するもの?」
その質問をした彩輝の声は、先ほどまでの会話よりも、ワントーン低く感じられた。もしかしたら、こっちの声色の方が地声なのかもしれないと、侑人は思った。
「兄のことは……尊敬しています」
侑人は、当たり障りのない答えを選んだ。尊敬はしているけれど、兄のようにはなりたくない、という本音は心にしまっておくことにする。
「そういうもんなんだぁ」
彩輝は、静かに深い息を吐きながら言った。一体、今の質問にはどんな真意があったのだろうか、と侑人は疑問に思う。
「西くんは、スーツは持ってる?」
「え、あ、はい」
急にまた、インターンシップに関するような話になったので、侑人は居住まいを正す。
「インターンシップ中はスーツで来てもらうことになります。もちろん、暑いから上のジャケットは必須じゃないよ。熱中症にならないように気をつけて。慣れないだろうから、ネクタイとかは会社に着いてから結んでも良いし。弊社は九時三十分始業です。そこからインターンの人は十七時まで。社員よりは短い勤務時間だけど、それでも拘束時間が長いから、頑張ってね」
侑人は、大学で授業を受けている時と同じような感覚で、メモを取る。メモをすることに必死で、内容については、いまいちピンと来ていなかった。
彩輝は、五日間のインターンシップで行う模擬業務内容についても話した。一日目は企業説明、会社が社会にどのように貢献しているかの説明など。座学が中心になるらしい。
二日目、三日目はインターンシップ生をグループに分けて、共通の課題について調べ、ディスカッションをしたり、調べた内容をまとめて発表をしたりする。
最後、四日目と五日目については、社会人のスキル研修を行うそうだ。電話の取り方、名刺交換のやり方、新社会人が行う可能性の高い庶務業務のやり方などを学ぶ。
「西くん、パソコンは使える?」
彩輝に問われて、侑人は「大学の授業の時とか、調べ物をする時には、使います」と答えた。
「自分のパソコンは持ってない?」
「家にパソコンが、ないです」
正直に答えると、彩輝は渋い顔をした。それは、侑人に対してではなく、自分の心情に基づく顔だったらしい。
「最近、多いのよ……家にパソコンないっていう子……ほんと、ジェネレーションギャップすごい……切ない……」
彩輝は言った。そして、ブラインドタッチが出来るかどうか、エクセルやワードを使用することが出来るかを侑人に尋ねた。いずれの質問に対する答えも、残念ながら「ノー」だ。侑人は、だんだんと自信がなくなってくる。最初から自信なんて、ほんの少ししかなかったけれど、今はその僅かな灯火さえも消えそうだ。
「あの、俺みたいなのでも、インターンシップって、出来るものでしょうか?」
侑人は、あまりにも不安になって尋ねた。彩輝は、怪訝な顔をする。
「それは、西くん次第なんじゃないの? やる気がないなら、今からでも辞めて良いけど……どうする?」
侑人は、彩輝の言葉の「やる気がないなら」という部分に、ビクッとなった。そういう言葉の圧に、侑人は弱い。頭の中と心の中に「やっぱり辞めようかな」という言葉がササッと黒い尾を引いて過ぎった。
「……や、ります、やってみます」
それでも、侑人は言った。せっかく柏木が、友達が、心配をして用意してくれたチャンスなのだ。
(とりあえず、とりあえず、やってみて……)
飛び込んだ後のことは、わからない。怖い、どうしても、怖い。けれど、いい加減に立ち止まっているのも、怖いし、しんどい。
「よく言った。えらいえらい」
彩輝が笑って、向かい側に座る侑人の肩をポンと叩いた。細い手首、小さな手。
(小さい……)
肩に置かれた手の小ささ。笑った顔に出来た、右側だけのえくぼ。
(顔も、首も、肩も、なにもかも、小さい……)
侑人は、こういう形の、こういう小ささの、こういう人が、社会に出て、仕事をして、踏ん張っているのだということを、不思議に思った。
こんなにも「守られるべき」みたいな形状をしているイキモノが、戦っている。
「じゃぁ、今日話したこと、後からもう一度メールでお知らせするので。八月の最初の一週間、よろしくね。私もインターンシップ生の指導担当でいるから。なにか不安なこととか、わからないことがあったら、連絡をください」
彩輝はそう言って、侑人の履歴書を鞄の中に丁寧にしまった。侑人は、またしても、彩輝の仕草を目で追いかける。
(女性、っていうのは、こうも、柔らかい空気の中で泳いでいるものなのか……)
母親や祖母とは、また違う。数少ない同年代の女友達とも、違う。
固く閉じていたつぼみが、ゆっくりと開いて、咲ききっていない感じ。けれど、八割くらいは咲いていて、でもあとの二割を咲かせるための余力と、意気込み、希望を携えている。そんな、咲ききろうとする、美しさのような。
「あの……」
侑人は、小さな声で彩輝に言った。
「なにか質問ある?」
彩輝が答える。侑人は、呼吸一回分だけ迷ったけれど、意を決して言った。
「あの、手を、見せてもらっても、良いですか……?」
「はい?」
彩輝は、思い切り眉をしかめた。
「あ、いや、その、ダメだったら、無理にとは、」
「手相とか見るのも好きなの?」
「いえ、手相とかは、知らないです」
侑人は、どうやって説明しようか迷いながら言葉を続ける。
「手の、大きさとか……質感、とか、そういうものを、ちょっと、あの、触れてみたくて……」
自分で言いながら、顔が熱い。
(触れてみたい、は、不味かったかな……あまりにも、変態っぽい……)
侑人は、思い切り下を向いて、自分のゴツゴツした手を見つめて、縮こまった。
「……芸術家って、やっぱちょっと変わってるのかしら」
彩輝は言いながらも「はい」と手を差し出してくれた。侑人は恥ずかしい気持ちになりながら「すみません、ありがとうございます」と言った。
差し出された彩輝の手に、両手でそっと触れる。
「手入れとかしてないし、ネイルも剥がれそうだし、あんまり良いもんじゃなくて悪かったね」
彩輝は言った。侑人は真剣に彩輝の手を見つめる。白さの度合い、色味、血管の色がどのように見えるのか。そして触り心地、夏だというのに指先は冷たく、けれど手の平は温かい。爪は桜貝のような色をしていたけれど、これは人工的な色らしい。ささくれが所々に。手首の骨のでっぱり部分、それによって出来る淡い影。
「あの、手のサイズを、比べても良いでしょう、か……」
侑人は、伺う視線で弱々しく尋ねた。彩輝は面倒臭そうな視線を向けつつ「どうぞ」と言った。
(柏木と同じで、なんていうか、裏表のなさそうな人だな……)
侑人は思った。そして、彩輝の手と自分の手を、手のひらの端を合わせて、比較した。彩輝の手は、侑人の手よりもずっと小さかった。
「もういい?」
彩輝が声を出したことで、侑人はパッと手を離した。
「すみません、ありがとうございます、もう、大丈夫です」
己の手のひらに、彩輝の手の感触が残っているのが生々しい。手のひらを重ねただけのことだけれど、侑人にとっては、とても、生々しいことだった。
「手、見て、それでどうするの?」
彩輝が言った。侑人は至って普通の感覚で「描きます」と言った。
「……手を?」
彩輝は、複雑な顔をする。理解できないという気持ち、そして若干の嫌悪みたいなもの。
「そんなの、それこそスマホで写真撮れば良いのに」
「いえ、実物に触れた方が、描きやすいので」
「触っただけで描けるの?」
彩輝の問いに、侑人は今日はじめて自信を持って言った。
「見て記憶するのは得意なので。一度見て、理解したものは、描けます」
侑人は言葉を発しながら、心がギュンと明るくなるのを感じた。自分には出来ないことばかりだと萎れていた心だ。やはり、絵を描くという事柄に関しては、心が生きる。
彩輝は軽く数回頷いて「そうなんだ」と言った。それだけだった。
二人は立ち上がって、店の前で別れた。
「それじゃぁ、また当日ね」
彩輝が言うのに、侑人は「よろしくお願いします」と言って、ペコリと頭を下げた。頭を下げた際に、彩輝の方からほのかに甘い香りがした。
(香水、かな……?)
淡く瑞々しい香りだった。彩輝は、侑人のことを振り向くこともせず、ただ前を向いて。さっさと夏の光の中を去っていく。
歩く度に揺れる髪が、美しいと思った。侑人は、しばらく彩輝の後ろ姿を見つめ続けた。店の前で、立ちすくんで。
心臓が、コトコトと小さく、けれどいつもとは違う形で鳴っている気がした。
*
八月に入ると、さっそくインターンシップがはじまった。前日の夜、侑人は明日の支度を万全に整えながら、心は少しウキウキしていた。
社会人経験をするという事に対するウキウキではない。一週間、彩輝と一緒に過ごせるだろうことについての心の弾みだった。
(別に何をどうしたいわけじゃない……)
ただ、なんとも言えず、彩輝と同じ空間にいられることに対する喜びがあるような気がしていたのだ。
侑人は、柏木にも『明日からインターンシップしてくる』と連絡を入れておいた。もちろん、紹介してくれたことに対する礼も含めて。
柏木は、夏休みに入った途端、毎日のようにアルバイトをして過ごしているらしい。まだあまり売れていないバンドの近距離ツアーなどに、サポート役、ローディーと呼ぶのだと柏木が言っていたが、そういった立ち位置で同行したりもしているようだった。
柏木からは『健闘を祈る! 今度会った時に色々と話を聞かせてくれ!』との返事が来た。
侑人は、インターンシップの五日間で、仕事をしながら絵を描くということについて、実験をしてみたいと思っている。長い時間、自分なりに考えてみて、将来について思うことは少しずつ広がりを見せていた。
将来の道筋が定まったわけではないけれど、履歴書を作ったり、一回り上の女性と会話をしたりしたことで、己のことについて、少しだけ詳しくなった。
(俺は、絵を描く以外、あまりにも、何もしてこなかった……でも、何もしてこなかったんだから、これから、やれることはたくさんある……)
もしかしたら、普通に就職をして、仕事をしながら絵を描くという道の方が、自分には合っているのかもしれないとも考えていた。今まで通り、誰にも見せないけれど、絵が好きで、絵を愛して、絵を描き続ける。大学を卒業してからも、そんな自分でいられるのではないか? と思う。
どこかの会社に就職をして働くことで、周囲との間に感じているズレのようなもの、その隙間も埋まるかもしれない。何にしても、このインターンシップの期間中に、どうにか自分に出来ること、自分の得意なことを増やしたいと侑人は考えていた。
自分に出来ること、向いていることがわかったら、きっと、将来への具体的な道筋も見えてくると思った。そう、思ったのだ。
「し、し……死ぬ……」
インターンシップ三日目にして、侑人は最寄り駅で死にそうになっていた。別に、夏の暑さにやられたわけではない。酒を飲んで、泥酔しているわけでも、もちろんない。
時刻は十七時三十分を少し過ぎたあたり。帰宅ラッシュには少々早い時間帯だが、侑人はグッタリとして、駅のホームにあるベンチに座り込んだ。
会社から侑人の自宅までは電車で十五分。たった十五分の距離にある。
それでも、夏の気温と慣れないスーツ、通勤ラッシュと帰りの電車。大学の行き帰りとは、何故だか疲弊度が全然違う。
(行って帰ってくるだけでも……死にそう、だ……)
侑人は白目を剥きそうになるのを、懸命にこらえて、目を閉じる。足の先から疲労がジワジワと全身に広がっていくようだった。
(このままだと、立ち上がれなく、なりそう……)
侑人は小さく「うぅ」と唸って、ベンチから立ち上がった。まだ、たったの三日しか経っていないのに、侑人の心は複雑骨折をしている。いや、複雑骨折どころではないかもしれない。粉砕骨折だ。
「……社会人、マジ、尊敬する……」
侑人は、フラフラしながら改札を抜けて、自宅までの道のりを亀よりも遅く歩いた。
家にたどり着くと、着替えもせずにベッドに突っ伏す。そこから三十分ほど気を失ったように、屍のように、ただ動かずにいた。
そして、スーツに皺が寄ることが気になりはじめ、ジリジリとした動作で起きあがる。部屋着に着替えて、その日に貰った資料などを整理する。
夕飯の時間だと母に呼ばれてリビングへ行く。そのついでに、汗で汚れたシャツを洗濯機へ入れる。モソモソと夕食をとって、風呂に入って、明日の支度をする。夜の十時には、ベッドに入って、泥のように眠った。
けれど、夜中の三時あたりにパッと目が覚めてしまう。頭の疲労に対して、体の疲労のバランスが噛み合っていない感じがした。頭はまだまだ疲れているのに、体の方の疲労は回復してしまって、目が覚める感じだ。
目が覚めてしまうと、疲れているのに頭が勝手に動く。今日、出来なかったこと、全然役に立てなかったこと、他のインターン生とのコミュニケーションが上手く出来ないこと、休憩時間さえも、周囲に馴染めていない感じがして気を使ってしまうこと、この苦行が、あと二日続くこと。
そして、出社して、帰ってきて、一度も絵を描けていないこと。
侑人の机の上には、いつものスケッチブックが置いてある。出掛けている間は、鍵付きの引き出しの中にしまっているものだ。毎日帰宅してすぐに、スケッチブックを机上に出す。今日こそは描く! と思って、出す。
けれど、描けた試しがなかった。スケッチブックの中には「彩輝の手」が、描きかけのままになっている。
(就職、したら……)
こういう毎日が、ずっと続くのだ、と思うと。
(絶望しか、ない……)
インターンシップ生は、普通の社員よりも短い時間しか体験勤務をしていない。残業も、もちろんない。それなのに、こんなにも疲れる。
(彩輝さん……一人暮らしだって言ってた……インターンシップ生の中にも、一人暮らしの人、何人もいた……)
侑人は、家に帰れば母がいて、自動的に夕飯が出てくるし、洗濯もしてもらえる、風呂だって自然と沸いている。
(掃除だって、皿洗いだって、ゴミ捨てだって……時々頼まれてするくらいで……)
真夜中に目覚めてしまった頭で、すっかり開いてしまった目で、己の甘やかされた人生を情けなく、そして苦く噛みしめる。
(愛に、殺されていく……)
家族の、周囲の、愛と、甘やかしによって、自分が腐敗していく姿が、こんなにもハッキリと目に見えてわかる。
一日目の座学は良かった。そういうのは、大学の講義と同じで得意だった。しかし、二日目、三日目のグループディスカッションは最悪だった。
何の役にも立てず、発言のタイミングさえも、上手く掴めなかった。グループの中で、お荷物になっていることを、自覚せざるおえなかった。
(明日から……社会人スキル研修……)
恐怖でしかない、と思った。ずっと指導を担当してくれる彩輝のことは、相変わらず同じ空間にいられるだけで、癒されると感じる。
しかし、彩輝の癒しの勢いと、侑人が疲弊する勢いのバランスが取れていない。情けないのと、悔しいのと、不甲斐ないのと、自分の無価値さに。そして、深夜の静けさと、夏の明るい暗闇に、泣けてきてしまう。
(絵、描きたい……ずっと、絵、だけ、描いていたい……)
切に、願うように、祈るように、思った。
「なに、電話が取れない?」
翌日の夕方、侑人はどうしようもなく爆発しそうな悲しみによって、柏木に電話をした。
「今、まさに俺と電話をしているじゃないか、どうしたんだ、一体」
柏木は、突然の電話に驚いているようだった。侑人は基本的には電話をしない。いつもスマートフォンのメール機能やメッセージアプリを使って連絡をする。
久しぶりに聞いた柏木の、男にしては少々高い声は、どことなく彩輝に似ている気がした。
「インターンシップで、社会人スキル研修してて……」
柏木は「ほうほう」と頷くような声を出した。
「今日、電話対応の研修だったんだけど……取る、タイミングとか、取った後、なんか頭が真っ白になるし……そもそも、電話が鳴ってるのが、圧になって、音が、こう……」
侑人は、言いながら、心臓が潰れそうだった。得意なことが見つかるかもしれないと臨んだインターンシップで、出来ないことばかりが明らかになっていく。
「侑人よ、落ち着け。姉の会社は別に外資というわけではないだろう。電話の先の相手だって日本人だ。日本語しか喋らんよ。それに、今は本番ではなく、電話対応の練習だろう? 練習というのは、失敗をしても良いものだ、違うかね」
柏木は、いつもの落ち着いた声を、侑人の耳元に届けてくれる。しかし、柏木には一生かかっても、この気持ちはわからないだろうな、と侑人は思った。相談したのは自分だというのに、なんという勝手だと思いながらも。
「……出来ないことばかりが……積み上がっていくみたいだ……」
侑人が絞り出す声で言うと、柏木は電話の向こうで苦笑したようだった。
「侑人よ、それもまた一歩だろうと俺は思うけどな」
柏木が言った。
「人間、やりたいことよりも……実は、やりたくないことの方がわかりやすいのかもしらん」
その言葉に、侑人は「え」と情けない声を出した。
「侑人、この際だ、自分が絶対にやりたくないことを考えてみてはどうだね?」
「……やりたく、ないこと……」
「とりあえず、今思い浮かぶやりたくないことはなんだね?」
「電話出たくない、人が多いの無理、通勤ラッシュ無理、スーツ無理、あ、コピー頼まれるのも焦るからイヤだった。それから、帰りにみんなで飲みとか、反省会とか、そういうのも全部断ってる、無理、これを毎日、しかも残業とかもあって、そんな長時間の拘束、無理だ……」
「拍手したくなるほど、スラスラと出てくるなぁ」
柏木が電話越しに笑った。侑人は心の中で思っていたことを吐き出して、ほんの少しだけスッキリした。けれど。
「……でも、これって、誰だって嫌なことなんじゃないのか……?」
みんな、嫌だけれど、生活のために、生きるために、金を稼ぐために、耐えて、日々をこなしているのではないのか。そのくらいは、侑人にだってわかるし、そういう事を理解していない兄や父母に対して、変な正義感のようなものを含んだ憤りを感じているのも確かなのだ。
「嫌だと思う度合いというのがあるだろう。人それぞれに。死ぬほど嫌だと思う人もいれば、金が稼げるのなら仕方ない、耐えられるという人もいる」
じゃなければ、みんなとっくに狂ってしまっているさ
柏木は言った。
「俺だって、今、夏休みを利用してローディーのバイトをしているが、いくら音楽が好きだからって、楽しいばかりじゃない。嫌な仕事だって含まれている。俺はドリンクバーに立ってドリンクを作るのは好きだけれど、その後の片付けは嫌いだ。それに、床掃除とか、あといちいちウルサく注文をつけてくるバンドマンにはイライラしたりもする」
それでも、そこで学べることの方に価値の重きがあるからこそ、俺はやれるし、やろうと思う
「サボりたいと思う日だって、たくさんある。侑人だけじゃないさ。そういうところも含めて、お前は真面目すぎると言っているんだ」
柏木は、大人の声で言った。侑人は、今すぐに柏木に会いたいと思った。男同士、こんなことを思うのは気持ち悪いかな、とも思いつつ。心が会いたいと、小さな声を出している。
けれど、柏木もバイトがあるし、侑人だって、明日まではインターンシップがある。
「……なんか、話せて良かった、夜遅くに、悪かった。もう一日、頑張る」
侑人は言った。柏木は「まるで俺は、お前の実家の母のようじゃないか!」とゲラゲラ笑っている。
実家の母なら、今頃夕飯で使った食器を洗っているところだろう。母も父も、侑人がインターンシップをしていることについて、何も言わなかった。
けれど、どこか、本気にしていない風で「いろいろ勉強するのもお前のためになるのかもしれないなぁ」みたいな雰囲気である。
柏木とは「おやすみ」を言い合って、通話を切った。侑人は、自分は社会人には向かないのではないか、という確信みたいなものを強めながら、ベッドに横たわる。きっとまた、深夜に目が覚めるのだろうな、と思った。インターンシップが始まってから、毎日だ。
毎日、夜の中を泳ぎきれずに目が覚める。そこから再び眠りにつくことも出来ずに、朝を迎える。疲労が粘土のようになって体のあちこちにこびりついている気がした。
*
インターンシップを無事に乗り切った翌日から、侑人は夏風邪をひいて寝込んだ。体調を崩したことで、いよいよ弱気に拍車がかかった。
侑人は、真の部分では「根暗」という種類の人間ではないので、
「俺、人間として生きるの、向いてないのかもしれない……」
なんて、ベッドの中で思いながらも、そこから落ち込みまくって鬱になったり、よし自害をしよう、なんていう考えに至ったりはちっともしないのだった。
そこまで深刻にもなりきれず、けれど、落ち込むことは、落ち込むし、落ち込みやすい人間でもある。
「なんて半端で……面倒くさい人間なんだ、俺は……」
侑人は熱にうなされながら、甲斐甲斐しく母親に世話を焼いてもらいながら、思うのだった。世話を焼いてくれる母に対しても、
「こんなに甘やかさずに育ててくれたら良かったのに……」
なんて、逆恨みも良いところな感情を抱いたりして。そのことに再び落ち込んだりもして。
忙しない感情の渦に抱かれながら、寝込みに寝込んで、ようやく復活出来たのは、お盆の時期だった。復活した侑人は、大学から出ている課題をこなしながら、考えることを放棄するかの勢いで絵を描いた。
無心に手を動かしてスケッチブックを埋めていく。小さな布キャンバスを自作して、油絵の具を乗せていく。兄から貰ったスペインの写真を元に、風景画を描いてみたり、自分の今の気持ちを色に乗せてみたりして、黙々と描いて、描いて、描いた。
その作業は、最高に気持ちの良いものだった。絵は、侑人にとっては、酸素だった。
人は誰しも、自分の呼吸を、一時だって、邪魔されたくないものだ。
「あれ、侑ちゃん?」
侑人は、ずっと家に引きこもっていたせいで、体が少し怠くなった。気晴らしにと思って、用もないのに、家の近所にあるコンビニに出掛けた時のことだった。
背後から急に、親しげな調子で名前を呼ばれて振り返る。
「……あれ、アリサ?」
「やっぱり侑ちゃんだ! 久しぶり、なんか大きくなったねぇ」
そこにいたのは、同い年で幼なじみの藤堂アリサだった。家が隣同士で、親同士も仲が良く、侑人は幼稚園から小学校までずっとアリサと一緒だった。
中学に上がる際に、アリサは受験をして、有名な私立女子校に進学した。侑人は共学に通ったので、学校は違ったけれど、それでも家が近すぎるほどに近いので、親交はあった。
「帰ってきてたんだ」
侑人は言った。アリサは大学進学を機会に、実家を出て都内で一人暮らしをするようになっていた。そこからは、なんとなく疎遠になっていたのだ。
「お盆だからねぇ~、久しぶりの実家!」
アリサは笑った。笑う時、鼻のあたりにまでクシャッと皺が出来るのは、昔から変わらない。少し茶色っぽく染めた長い髪、クルンと弧を描く前髪。今時の流行っぽい服装。
「なんか、あか抜けたなぁ」
侑人は素直な感想を述べた。アリサはケラケラ笑う。
「侑ちゃんは、背は伸びたけど、あんまり変わんないな!」
その言葉に、侑人は内心でグサッと傷付いた。進歩がないということは、自分でもよくわかっている。
「なんか買い物?」
侑人が尋ねると、アリサは「夕飯の買い出し」と答えた。
「侑ちゃんは?」
同じように尋ねられて、侑人は真顔で「暇だから歩いてただけ」と言った。アリサは、再びケラケラと風に舞う声で笑った。その姿を見て、侑人は思う。
(彩輝さんとは、全然違うな……)
彩輝のことを、侑人は八割咲きの花のようだと思った。けれど、アリサを見ていると、大輪のひまわりとか、元気に花びらや葉を広げるタンポポとか、そういうものを想像する。全身にある元気を、全て外に向けて発しているような。無計画で、向こう見ずで、けれど力が漲っている。
(一回り年齢が違うと、そういう風に違ってくる、のか……)
いや、そもそもの人柄の話なのかもしれない。侑人には、比較する対象が少なすぎる。
「暇なら荷物持ち決定だ」
アリサは言って、侑人のティーシャツの裾を引っ張った。侑人は文句もなく、ただ付いていく。
夏の太陽は、周囲を白く染めるほどに激しい日差しを落としている。
(全然日焼けしてないな……)
アリサは顔も白ければ、ティーシャツから伸びている腕も、七部丈のズボンから出ている足も白かった。そのくせ、帽子も被っていなければ、日傘も差していない。
(人のこと言えないけど……)
ずっと引きこもっていた侑人も、顔から何から、全部ひょろひょろとしていて、白い。家を出る時に、母親から「帽子かぶりなさいよ」と声をかけられたけれど、面倒だったので返事だけしてそのまま出てきた。
二週間ほど前、インターンシップに行っていた自分が、夏の日の遠い陽炎のように思える。
その後に寝込んだせいだろうか、あの日々から、もう遠く離れているような、そんな気がした。
(彩輝さん、元気にしてるかな……今、お盆休みなのかな……)
五日間、ずっと彩輝とは一緒だった。けれど、じっくり観察出来るほど、侑人の心にゆとりがなかった。
「侑ちゃん、インターンシップ行ったんでしょ? 母さんから聞いたよ」
アリサが言った。侑人は自分の心の中が読まれたような気になって、ギクッとした。
「母さん同士が仲良いと、なんでも筒抜けるな」
「だねー」
アリサが苦笑する。侑人は「死ぬほど大変だったし、向いてなかった」と言った。アリサは侑人の言葉を聞いて、悪びれもない様子で、
「侑ちゃんに向いてることとか、あんまり思いつかないねぇ」
と言った。幼い頃から一緒にいるアリサに言われると、説得力があるのが悔しい。
「アリサこそ、一人暮らし、どうなんだよ」
侑人は尋ねた。アリサも侑人も、どちらかと言えば親が過保護なタイプである。
アリサが一人暮らしをすると言い出した時にも、さんざん揉めたと聞いていた。
「一人暮らしね、凄まじく自由だよ」
アリサは言った。それは、とても強い言葉だった。自由という単語には、大海原へと漕ぎ出す船のような、はたまた大空へ羽ばたく鳥のような、そんなスケールがあった。
実感を伴った、スケールの大きさ。
「自由、とは……?」
侑人は問いかけた。アリサはニッと悪い顔をして笑った。
「夜、遅くに帰ってきても、真夜中にカップ麺とかアイスを食べても、誰も、何も、言わない」
あまりにも嬉しそうに、あまりにも希望に満ちた輝く目で、アリサは言った。
「いい感じの男友達が出来たりして、その人を家に呼んだりしても、誰も何も言わないし、ずっとテレビ見てても、怠くて一日中寝てても、誰も、誰も、見てないんだよ」
こんな自由って、ある?
アリサはウットリとして言った。何をするにしても、コソコソしなくていい、後ろめたくない、文句を言われない。
「こんなにも、私の人生は自由だって思うよ」
自分の行動の責任の全部が、自分だけにある。侑人は、アリサの言葉を頭の中に入れて、いろいろと想像を膨らませてみた。何をしてもいい、自由。
(好きなだけ、絵を描いて、誰かに見られるんじゃないかって、怯えたりしなくて良くて、鍵付きの引き出しにスケッチブックをしまわなくても良い、自由……)
それは、とてつもなく魅力的に思えた。しかし、先日のインターンシップによって、疲れて家に帰ってきた時の、食事が用意されている環境、風呂が沸いている環境、洗濯も掃除も、食器洗いもしなくて良い環境の、その有り難さも、身にしみて理解している。
「掃除とか、洗濯とか、そういうの、面倒じゃないの?」
侑人は尋ねた。アリサは笑った。
「そういうのも含めて自由だよー、洗濯物溜めても、食器洗い少しサボってもさぁ、後で自分がやればいいだけで、やりなさい! って言われることは、絶対にないもん」
侑人とアリサは近所のスーパーにたどり着いた。藤堂家は、今夜は豚の冷しゃぶらしい。
葉物の野菜と豚肉、それに調子に乗ったアリサが半分に切れているスイカを買った。
「侑ちゃんに持って貰えばいいから買う」
なんてことを、堂々と言ってのけた。侑人は昔から、アリサの根っこにある気の強さみたいなものに、逆らえない。普段の生活で、重いものを持ったりすることはあまりない侑人である。しかし、絵を描くにあたり、腕と手についてはそれなりに鍛えられているのだった。
(誰かが、芸術家は、アスリートだって、言ってたな……)
テレビで見たのか、本で読んだのか忘れたが、その言葉を聞いたとき、なるほどと納得したのを覚えている。
スーパーからの帰り道、アリサは侑人に問うた。
「侑ちゃんは、大学卒業したらサラリーマンになりたいの?」
侑人は「サラリーマン」という言葉の他人行儀さに笑いそうになった。
「ならないし、なれないと実感した」
「インターンシップで?」
「そう。五日間で死にそうになったのに、それを定年までとか、生き残れる気がしない」
侑人は正直に言った。その言葉は、なんだか淡く夏の空気に滲んでいった。
「アリサは? 卒業したあと、どうするの」
侑人が問い返すと、アリサは「聞いてない?」と言った。
「私、学校の先生になるよ。教員免許取得、頑張ってるとこ。教員採用試験もあるし、踏ん張らないと!」
サラリと言われた明確な将来像。侑人は額の汗を拭うフリをして、苦い顔を隠した。
絵を描くことしか、してこなかった自分。それが許されてしまっていた環境。何も出来ない自分。自分の世界の狭さ。自分自身の子供っぽさ。
(周りにいる奴ら、全員、すごい大人に見える……)
侑人は、か弱い声で「がんばれ」と言った。アリサは「声、ちっさ!」と笑った。蝉の鳴く声が、大きすぎるせいだと侑人は思う。
もうすぐで自宅に到着するという段階になって、思い出したようにアリサが言った。
「そういえば、昌ちゃんもスペインから帰ってきてるんだよね?」
「あー、もう、だいぶ前に……今はなんか、仕事の絵を描くのに集中したいとかで、アトリエ籠もりっぱなしだけど……」
昌秀は、小さい頃、侑人とアリサを相手に、よく遊んでくれていた。そういう意味でも、良い兄だよなぁと今でも思う。絵を描き始めると夢中だが、そうでない時の面倒見は悪くない。
「そっかぁ~、会いたかったなぁ。よろしく言っておいてね。でも、侑ちゃんママも、ウチのお母さんも心配してたから、とりあえず、帰ってこられたなら、良かったね」
アリサは太めの眉を緩いハの字にして、笑った。
「……いや、心配って大袈裟。兄貴、スペインなら今までに何度も行ってるし」
侑人は買い物袋をアリサに手渡して言った。アリサは「重っ!」と文句を言ったが、それは自業自得なので、侑人はノーコメントだ。
「だって今回は傷心で帰ってこられなかったんでしょう? 予定よりも随分、滞在延ばしたって聞いたけど……」
侑ちゃんママ、結構心配してたよ
アリサが言った。荷物は地面に置いてしまっている。
「……なにそれ、知らない」
侑人が言うと、アリサは素直に「しまった」という顔をした。
「……あれ、侑ちゃん、聞いてないの?」
「なにが?」
侑人は、無意識に声色が濁った。アリサは、言っても良いのだろうか、と迷うような顔をしたけれど。侑人が視線で急かすと、もう仕方がないと腹をくくったようだ。
「昌ちゃん、の、ほら、絵があるじゃない、大学に寄贈した」
アリサは言った。侑人の大学の、大講堂の絵のことだ。
「あの絵、大講堂と一緒に壊すことに、なっちゃって、昌ちゃん、随分落ち込んだみたいで……取り壊しって三月? 四月だった? なんか、とにかくその時期に日本にいたくないからって、スペインの滞在、予定よりも随分長く伸ばしたらしいよ」
アリサが言った。初耳だった。侑人は思い切り眉をしかめた。
「兄貴、壊されるのは、仕方ないことだって、言ってたけど」
侑人が「自分の描いた絵が壊されるのはどういう気持ちか?」と尋ねた時。兄は「僕はお前が思っているほど繊細な人間じゃない」と前置きした上で、「自然災害だったから仕方ない」と言った。作品の運命だったという悟りがある、とも言っていた。
(……身を切られるくらい、切ない、とも、言ってたけど……でも、それだけだった……)
壊される時期に、日本にいたくないと、そう思うほどに。やはり、自分の絵が壊されるというのは、兄にとっては苦しいことだったのだろうか。
「まぁ、でも、本心みたいなところは、昌ちゃんにしか、わからないものだし……弟には、見栄張っていたいみたいな? そういう兄心もあるんじゃないの?」
アリサは言った。侑人は曖昧に笑って「そういうもんかな」と言った。
*
アリサと別れて、家の中に入る。外が発光しているのではないかと思うほどの明るさだったせいで、家の中は薄暗く見えた。
いつも通りに、母が「おかえり」と出迎えに来て、汗だくの侑人を見て笑った。
「シャワー浴びちゃったら?」
「アリサに会って、荷物持ちさせられた」
侑人が言うと、母は楽しげに笑った。
「アリサちゃん、随分大人っぽくなってたでしょう? 母さんも昨日会った。学校の先生になるんだってねぇ」
良い先生になりそうだよね、明るくて、元気だし
母は嬉しそうな顔で言った。西家は男ばかりの家だ。アリサのような「娘」という存在は、母にとっては羨ましいのかもしれない。
侑人はシャワーを浴びて、サッパリしてから自室へ戻った。ベッドに倒れ込んで、深く息を吐く。アリサとの会話を、なんとなく思い出しながら。
兄は、やっぱり自分の絵が壊されるのが、嫌だったんだなぁ、という実感と。アリサが教師になるという目標に向かって、明確な意志を持って頑張っていること。
それに加えて「自由」という言葉が、やけに心の中に残っていた。
(自由……後ろめたくない、気持ち……)
侑人にとって、それは幻のような響きを持っていた。しかし、ふと思いつく。
(俺は、誰にも絵を見せないし、見て欲しいとも、思わない……)
スケッチブックは鍵付きの引き出しの中。描いた油絵も、描き上がったら乾かして、厳重に布を巻いて、押入の奥にしまっている。
誰にも見られていない、という意味においては、アリサの言うところの「一人暮らしの自由」と通じるところがあるのではないか?
「……そうだ、俺も、別に……誰にも、見られていないんだから……」
もっと自由に、絵を、描いても、良いのではないか……?
あまりにも当然のような考えだったが、それは天啓のように侑人の頭をズガーンと刺した。侑人はベッドから起きあがると、押入から、今までに自分が描いた絵を引っ張り出した。
中学校のころからの絵が大量に詰め込まれている押入は、キャンバスだけでいっぱいになっていた。
今まで描いた絵、スケッチブック。どれを見ても、真面目で、大人しく、当たり障りのない絵で溢れている。
(今まではずっと、筆のタッチとか、構図とか……色合いのバランスとか、画法とか……そういうことばっかり気にしてた……)
描いてきたのは、抽象画や風景画、時折、有名な画家の絵の模写。そればかりだった。
(誰にも、見せない、なら……)
侑人は、ここ最近、ずっと考えていることがあった。インターンシップ後に寝込みながら、熱に浮かされて考えていた。
最近使っているスケッチブックを開いてみる。そこには、踊るようなタッチや、滑らかな質感で、女性の手が何枚も描かれている。彩輝の手、だ。
侑人は、このスケッチをしている時、ずっと心臓がバクバクしていた。イケナイ事をしているような、そういう気持ちがずっと心の中にあった。
(でも、どうせ、誰にも、見せないんだ、俺は、誰にも見せない……)
誰にも、見せないのなら。
(もっと……過激な……)
侑人の口内に、意味もなく唾液が溢れた。飲み込むと、マンガのようにゴクリと音が鳴って、首の後ろ側が熱い。
侑人は、今まで自分の描いた絵を、改めて見渡した。良い子ちゃんの描いた、なんとも上品で、お行儀の良いばかりの絵が、並んでいるように見えた。
中には、柏木の横顔を描いてみたものもあった。それを見ると、猛烈に申し訳ない気持ちが押し寄せたけれど、唇を噛んで、どうにかやり過ごす。
(柏木、ごめん……)
心の中でそう思った。侑人は、散らかした過去の絵をしっかりと押入にしまうと、スケッチブックを手に机に向かった。
妙な興奮がせり上がってくる。目を閉じて、まろやかに円を描くように動く彩輝を思い浮かべる。
インターンシップの時に着ていたサマースーツ。薄手の、白いシャツ。その内側を、想像する。
一瞬だけ、スケッチブックの上で、鉛筆が戸惑うように迷った。しかし、一瞬だけだった。侑人の中には、ずっとイメージがあった。
あの、スーツの内側の、何も纏わない状態の、彩輝のイメージ。
(裸婦、なんて……はじめて、描く……)
罪悪感や、自分自身に対する軽蔑の気持ちや、低俗という言葉の響きが、脳内で反響している。それらの音は、なんとも甘美な痺れだった。
(誰にも見せない……誰にも見せないんだから……誰からも、批判されない、怒られない、嫌がられない、侮蔑されない……変なヤツだと、思われない……!)
侑人は夢中になって、手を動かした。
日が暮れて、母が「夕飯の時間よ」と声をかけに来た時には、ピャッと椅子の上で飛び上がりそうになった。
夕食をとりながらも、侑人は裸婦を描くことの難しさと、上手く描けない部分への対策を考えるのに一生懸命だった。一言も発さずに食事をする息子に、母も、いつの間にか帰ってきていた父も、なにも言わなかった。
侑人は、その日、夜も寝ずに描き続けた。翌日は、昼間に気絶するように眠った。そして、パッと目が覚めると、再び机に向かった。
久しぶりに、熱中した。
(……楽しい、楽しすぎる……)
侑人はひとり、顔を綻ばせながら、裸婦を描き続けた。
*
(人に見せない方が、よっぽど変態性が高いのではないだろうか……?)
という、正気を取り戻したのは、裸婦を描き始めて一週間が経った頃だった。そういった正気を取り戻す前の段階で、侑人は人生で初めて、エロ本と呼ばれる類のものを購入した。
やはり、どうしても実際に見てみないと、女性の裸というのは上手く描けなかった。
最初はスマートフォンで調べたりして、画像を見ていたのだが、やはり紙での参考資料が欲しかった。
絵画コーナーに売っているデッサンモデル集などを購入しても良かったのだが、侑人が描きたいのは、そういうモデルとしての裸婦ではなかった。もっと、生々しく、もっと、リアリティのある、もっと、生きている感じの裸婦が描きたい。
猛然とした気持ちのまま、ふしだらな格好をしている女性の裸を見つめ、そしてそれをスケッチした。彩輝の顔を、思い浮かべながら、必死に描いた。
そうして一週間も経って、ようやくジワジワと正気に戻ってきた侑人なのだった。
(今まで、エロ動画とか……そういう、なんか、そういうものも、ちょっとイヤだったというか、変態っぽくて、見るのはダメな気がしてて……)
中学、高校の時も、男友達は異性への興味で溢れていたように思う。しかし、侑人は絵を描くこと以外に対して、さほど興味を抱けずにいた。
家の中で暮らしていても、父親はもちろん、兄の側からも、性的な香りがしてこなかったせいもある。興味が全くないわけではない。侑人だって、友達に彼女が出来る度に、羨ましいなと思ったりはした。
(今更の、思春期……)
侑人は自分で自分を、客観的に、切なく見つめる。将来についてだけではなく、そういった性的な事柄についても、自分はあまりにも未熟だと気付かされた。恥ずかしいと思った。
(今まで「童貞」とか「彼女いたことない」とか、そういうことを、ちっとも恥ずかしいとは、思わなかったのに……)
女っ気がなくても、キスしたことがなくても、セックスしたことがなくても、侑人には、絵があった。それだけで、良かったのだ。
(……兄貴は、どうなんだろう……)
そっち方面の話も、兄とはちっともしたことがない。兄に彼女や、いい感じの女性がいるという話も、一度も聞いたことがない。
(スペインの……滞在延長のことも、知らなかった……)
兄弟なのに、知らないことが、結構あるのだなと侑人は思う。九歳も違うのだ、それは仕方のないことなのかもしれないけれど。ほんの小さな寂しさみたいなものが、侑人の心をツンツンと刺した。
自分の知らない世界が、この世の中にはたくさん、たくさん、想像もつかないほどに、あるということが。大学生にもなって、やけに苦しい。