14-2-2.忘れていたあの頃の記憶
あまりに突然過ぎて反応に困る私に、彼は平然と言葉を続ける。
「あの後……ふと、思い出したんだ。初めて『自分から』ピアノを弾いた時の事を」
「小さい頃、僕はピアノが嫌いだった。練習だからって同じフレーズばっかり弾いてて飽きてくるし、間違えるとめちゃくちゃ叱られるし……」
ぼんやりとどこか遠くを見つめたまま、懐かしそうにそう言う秋水。
その視線の先にかつての情景を浮かべてるのかもしれない。
「だから、あの頃の僕はピアノなんて大嫌いだった。自分から弾くなんて絶対しなかった。ピアノのある部屋に入る事すら嫌だったくらい。先生とか親とかに言われて、渋々って感じで弾いてたんだ……」
「でもその後……あれは確か、僕が五歳の時だったかな……転機が来たんだ」
一瞬だけチラッと私の方を見て……そしてまた視線がふわふわとどこかへ。
「……あの日は、僕の姉のコンクールだった」
「でも、僕は風邪を引いていて一人で留守番してて……けど、もうほぼ治りかけだったからなかなか眠れないし暇で暇で。でも、テレビとかゲームは目に悪いからって禁止されていた。結局できる選択肢は……無理矢理寝るか、嫌いだけどピアノを弾くか、の二択だった」
「もうベッドに戻りたくなかった僕は結局、ピアノを弾くことにした。ほんとはめちゃくちゃ嫌だったけど……消去法で仕方なく、ね」
「今思えば、あの時は……生まれて初めて僕が一人でピアノを弾いた瞬間だった。先生は姉の付き添いでいないし、家族も同じくいなかったから、そういった口出しする人は誰もいなくて……本当に、僕だけの自由な時間だった」
「だから、逆に何弾こうかしばらく迷っちゃって大変だったくらい。いつもなら考えるまでもなく課題の曲が決められてたから、いざ自分で決めるってなるとどうしようってなっちゃって」
「散々悩んで結局選んだのは……なんだったかな、その当時よくやってたCMソングとか、ジ◯リの映画の曲とかだったかな。あとは、ちょっとだけゲームのBGMなんかも弾いたような気がする」
「その場の思いつきだったから、楽譜なんて当然ない。なんの資料もなしに、自分の記憶だけで手探りで音を探して弾く……いわゆる耳コピってやつ?」
「どれも初めて弾く曲ばっかりで……途中でしょっちゅう止まるし、音探しに手間取るし、まぁなんともめちゃくちゃで酷い演奏だったよ。あんなの、聞けたもんじゃない……」
彼はここでゆっくりと目を閉じ、閉じ切るとすぐに開いてまたどこかを見つめた。
「だけど……側にいたみんなが『あらすごい!』とか『お上手〜!』とか褒めてくれてさ……まぁ半分お世辞だろうけど」
(ん?側にいたみんな……?)
え、誰……ああ、お手伝いさんか。
一人だって言ってたのに、急に登場人物増えてちょっと焦ってしまった。
彼にとっちゃ普通というか当たり前の大前提なんだろうけど、たまにこうやって普通じゃない時あるから……
「それで、途中からさらに一緒に歌ってくれたり、うまく弾けないところは鼻歌でフォローしてくれたりして……」
「あれはほんとに……楽しかった。演奏の不完全さなんて頭からすっぽり抜けちゃうくらい。楽しんでくれてるのが分かってもう、本当に嬉しかった」
「なんていうか、うまく言い表せないけど、こう……自分の言葉が通じた、みたいな感動と嬉しさがあった。自分の言いたいことが伝わった喜びというか……」
「あれは……永遠にあの場でずっと弾いていたくなるような、このまま時間が止まっちゃえばいいのにって思うような……とっても幸せな時間だった」
(あ……!)
話をしている彼の口角が少しだけ上がっている。
うっかり見逃しちゃいそうな、ほんのわずかな……だけど大きな変化だった。
(今まで顰めっ面とかばっかりだったから……なんか、新鮮……)
珍しく穏やかなその表情、見てたらなんでだか恥ずかしくきて……
(わ、わわわ……!)
訳が分からないまま、カーッと顔が熱くなっていく。
中性的で、まるで美少女のような美青年で……唯とかいっちーとかそういった大人っぽい顔つきとはまた違った、なんともいえない美しさ。
笑うと、こんなに見てる方が照れ臭くなるほど綺麗な人なのに……いつもの人を寄せ付けないオーラとか、キツい顔ぐせとか、そういった要素がそれを全て台無しにしているらしかった。
「あの感覚は……あの時が最初で最後だった」
「いつの間にか、気づいたら……また、練習用に決められた曲をただ言われた通りに弾くだけのやり方に戻っていた。いつ戻ったのかは分からない、気づいた時にはそうなっていた」
「やり方が違うと、先生に叱られるからね。きっと上達が早くなるようにって、向こうも真剣に教えてくれてたんだろうけど……間違えないよう機械的に弾くだけなんて、楽しくなかった」
「課題として選ばれたのはどれも名曲だった。これも、先生としてはたくさん名曲聞かせて、耳を肥やしてくれようとしてたんだろう。でも、そればっかりを……しかも完璧に弾く事ばかり言われちゃうと……なんか、面白いとか感じなくなっちゃって。ただの『作業』にしか思えなくなっちゃって」
「一日とはいえあれほど楽しかった記憶なのに、すっかり忘れて……また僕はピアノが嫌いになっていった……」
「でも……やっと思い出した」
「いや、君が思い出させてくれたんだ。つまらないのはピアノじゃない、あの練習っていう『作業』のせいなんだって」
「本当は楽しいことなんだ、ピアノって。一音一音鍵盤に割り振られてて、押せば正確に思った通りの音が出て……思った通りのリズムで思った通りのメロディが奏でられる。簡単で単純な仕組みで、やろうと思えば自分の頭の中そのままを奏でられる……そんな、魔法のような楽器」
「それでいて……あの時みたく、人を楽しませたり自分の気持ちを表現したりするためのツールであり……もっと言うなら、誰かと会話するための道具……それが僕にとってのピアノなんだ」
「僕にとってはこれも会話の一つ……今みたいなお喋りの延長みたいなもん。言葉と音色、表現方法は違うけどね」
そう言う彼の表情はなんだか穏やかで。
吊り目とかそういった顔のパーツ一切変わっていないのに、怒っているかのようなキツい顔立ちのままなのに……今の彼の周りにはなぜか、ふんわりと暖かい空気が漂っていた。
「そんな大事なことを……僕は、君に言われるまですっかり忘れてた」
「毎日毎日、練習で忙しいからって……楽しかった記憶を忘れて、また『作業』しちゃってた。完璧に弾くことばっかり考えてた。完璧に弾かないと評価されないから」
「淡々と作業するだけで、楽しいとか楽しくないとかそんなこと考えたことなかった。そんなの子供の考える事だと思ってたから。だから、もうとっくに卒業したとか思ってた」
「『もっと楽しく弾きたい』っていう自分の感情を殺してたというか、なんだろうな……気持ちに蓋をしてたっていうのが一番しっくりくるかも」
「そんな事より……限界まで技を磨いて、間違いも無駄もない完全な演奏を目指す事。それこそ僕の目指すべき姿であり、目標だと思ってた」
「だけど……それじゃあ、つまんないよな」
「なんていうか、飽きるんだ。曲に抑揚を、とか技術で誤魔化したとしても……弾いてて楽しいかというと、それはまた別問題だ」
へ〜。
ピアノ弾かない人間だし、詳しいことは分からないけど……でも、彼が言わんとしてることはなんとなく伝わってきた。
「技術かぁ……それでも私、朝礼の伴奏聞いてて本気で楽しいって思っちゃってたよ。でも今の話、それって……その技術に騙されてたってこと……?」
「まぁ、そうだね」
まじか〜。でも、それはそれですごいなぁ。
(ん?って事は?)
「まさか……いつもの朝礼の時も?あんなに楽しそうに弾いてるけど……あれも……?」
「朝礼?もちろんそうだけど……?」
えっ……それじゃあ、あの時の私の発言は……!
(アッアッアッ……待って、ちょっと待って……)
それ、めっちゃ恥ずかしいんですけど〜?!
保健室で喋ってた時、色々言っちゃったよ!
『すでにプロのような姿勢を持っている』だの、『本気さはいつもしっかり伝わってきてた』だの……あ〜っ!あ〜っ!やめろ〜!皆まで言うな〜っ!
あれもつまり、そういうフリというか……そういう弾き方してただけって事だよね?!恥ずかし〜!
あれてっきり、本気で心込めて弾いてると思っちゃってたよ私?!
なんかあたかも知ってますよ風に語っちゃったんですけど〜?!やっちまったなぁ?!
あ!ここまで読んで『あれ?そういやどんな内容だったっけ?』とか読み返すなよ?
わざわざ戻って読み返すなんてするなよ?絶対するなよ?