16-3ー1.感情ガン無視のロジック
市ノ川 聖はある晩、喉の渇きで目が覚めた。
喉が少しチリチリしている……寝る時は気づかなかったが、室内が結構乾燥していたようだ。
二、三度唾を飲み込んでみるも、違和感は消えず。
もしかしたら風邪の引き始めかもしれない。
(む。まずい、何か飲まないと……)
寝ぼけ眼でふらふらとキッチンへ向かうと……そこには先客がいた。
「……!」
部屋に響き渡る、低い笑い声。
厳密にはゲラゲラ笑う声とクスクス笑う声の二種類あるのだが、どちらも同じような声の質でお互い溶け込み合いながら響いていた。
(この声は……!)
彼の視界に入ってきたのは……グラス片手にほんのり赤い顔しながら楽しげに談笑する兄達二人。
下の兄が一人でぼーっと晩酌しているのはたまに見かけるのだが……まさかそこに上の兄までいるとは。
(晴樹さん……帰ってきてたのか)
酔いのせいか二人共弟の接近に全く気づいておらず、そのまま話が続いていく。
「……そうか、厳しいな。てっきり今度はうまく行ってるとばかり思っていたんだが……」
「ん〜。それが……なかなかねぇ。なんとも難しいもんだよ」
下の兄、皇は四角いメガネにかっちりとした髪型と服装、そして堅い口調……と弟の聖そっくり。
むしろ双子なんじゃないかというくらいに酷似していた。
しかし上の兄、晴樹の方はというと……彼らとはまるで正反対。
持ち前の青い髪を端部までしっかり金色に染め上げ、一面にびっしりと南国風の花が印刷されたド派手なシャツを着て……そしてさらにその胸元をだらしなくはだけさせ、そこにメガネをぶら〜んと引っ掛けている。
聖の兄という彼の肩書きが分かっているからこそ、そういうタイプの人間なのかと見ていられるが……これがもし全くの初登場だったら、危うくただの場違いな男になっていたところだった。
そう思ってしまうくらいに硬派な下二人とはまるで違う、異質な存在。
もはや、彼だけ実の子ではなく養子だと言われても納得するレベルだが……しかしその目鼻立ちをよく見ると全員そっくりで、三人の血の繋がりをはっきりと証明していた。
聖は彼らの会話を邪魔しないようにと後ろを回り、食器棚からコップを取り出す。
充分物音はしているはずなのだが、まだ気づく気配はない。
「あ〜あ、婚約指輪まで買ったってのにさぁ……」
「まぁ、向こうも向こうで何かしら思うところがあったんだろう」
「そうだろうけど……けどさ、せめてそうなる前に何か言ってくれよな……」
「伝える労力より別れを取ったと」
「冷静な分析ありがとな」
「……」
「はぁ〜……」
そんな会話の間に冷蔵庫を開けたり、麦茶をコップに注いだりと色々裏で動き回っていたのだが……やはり無反応。
(見た目以上に酔ってるな、これは)
「……で?お前はどうよ?」
「俺か?俺は、まだ……そういう人はいない」
「だろうな」
即答である。
「自分には理由が分からないのだが……そもそも女と会話が続いた事がないのだ」
「だよな」
これまた即答。
「なんだ、分かるのか?」
「普段の様子見てりゃ大体分かるさ」
やれやれといった表情をしながら、晴樹は皇の顔をチラリと見た。
しかし、そこには先ほどと全く変わらない真顔があって……すぐに今度は落胆した顔に。
何か期待していた訳ではないし、予想通りのリアクションではあったのだが……
「そこまで俺の事を知ってると言うなら……教えてくれないか?」
「何を?モテテク?それとも誘い方?」
「いや、出会いにはそこまで困っていない」
「あら?意外〜」
「そうだろうか」
「って事は……もしかして、結構モテる口だなお前?やるじゃ〜ん!」
晴樹が皇の肘やら胸元やらをつついてキャッキャと茶化すも、顔色ひとつ変わらない。
「呼んでもいないのに女の方から勝手に寄ってくるんだ、別にそんなに嬉しいものじゃない」
「ひゅ〜!モテ期到来じゃ〜ん!」
「だから、そうではなくて……向こうから勝手に……」
「でも、なんの魅力も無かったらそもそも誰も寄りつかねぇよ」
「あの学年、極端に女が多過ぎるんだ。魅力なんてなくとも男というだけですぐ標的にされる……」
「え、女の子多いの?!まじ?!」
「……」
「いいな〜!羨ま〜!天国じゃん!ほんと羨まし〜わ〜!」
「俺にとっては地獄だがな」
羨ましいを連呼しながら目を輝かせる晴樹に対し、皇の表情はどんよりと暗かった。
異性である以上、何かと気を遣わざるを得ない訳で……度を超えて多過ぎるというのも、それはそれでまた問題なのだろう。
「でもいいじゃん、俺の周りなんてむしろ男ばっかりよ?」
「いいな、羨ましい」
「え〜!男ばっかじゃ、何もないじゃん!テンション上がんないじゃん!」
「俺としてはその方が気楽で良い。羨ましい限りだ……」
皇はとある大学の医学部生。
彼が言うようになぜか珍しく男子より女子が多くなり、その学年だけまるきりカラーが違うんだとか。
とはいえ、今の話はそれだけが要因ではない。
メガネの似合うシャープな顔立ちに、高身長で低く良い声、そしてなおかつ成績優秀な医者の卵、実家は医者でしかも彼自身長男ではない……そんな超優良物件が放っておかれるはずがないのだ。
残念ながら、当の本人はその事に気づいていないようだが。
そしてその一方、晴樹は実家の市ノ川医院の医師の一人。
スタッフとしては一番年下だが、田舎の町医者で高齢化が進む院内では彼が主力となっていた。
そんな彼が休みをもらい、しかも外で遊ぶのでもなく実家でこうして夜遅くまでいるのは、イベント事を除き年に一回あるかないか……相当珍しい事だった。
(これは……なるほど、何かあったな……)
滅多にいないはずの晴樹がここにいる、つまり余程の事があったと考えるのが妥当だろう。
酒が入っているおかげで二人ともふんわりとした表情でなんだか和やかなムードだが、おそらくきっと二人きりで話したい大事な何かがあった……
聖は飲み終わったコップを水切り棚に置くと、部屋に戻ろうと一度兄達に背中を向けるも……すぐにくるっと向きを変えた。
どうにも好奇心が勝ってしまったらしい。
(……)
音を極力出さないようにしながら少し移動し、彼らの近くの棚の陰に身を潜めた。
身を縮めて極力気付かれないようにしながら。
「……あれ?で、なんだっけ?相談?」
話が脇道にどんどん逸れていって……とうとう本題を忘れてしまったらしい。
「そう。女と会話ができない、その理由を教えてほしいんだ」
「あ、ああ〜……その話?」
「いつもその場一度きりの会話で終わってばかりで、その後続いた事がないんだ」
「……」
「それが数回なら気のせいとも取れるが……毎回なんだ。となると、何か俺にも原因がある気がして……」
「ほ〜ん。何か心当たりは?」
「心当たりというか……いつもなぜか相手を怒らせてしまうんだ」
「怒らせる……?それはなかなかだな」
「だろう?だが、怒らせた理由が考えても全く分からなくて」
「へぇ。ちなみに、具体的には?」
「具体的に……」
「ほら、こんな話してる時に怒ったとかさ……パターン、あるでしょ?」
「う〜ん。そうだな……少なくとも世間話しているだけでは怒られないな」
「会話できてんじゃん」
「いや……だから、その先がてんで駄目なんだ。そこから仲良くなろうとすると決まってうまくいかない……」
「え〜?」
「怒るのは顔見知り程度になってから……何か相談とか、世間話よりもう少し踏み込んだ話題を持ちかけられた時だ」
「相談、ねぇ」
「俺が答えようとすると、急に怒り出すんだ。それまでどんなに和やかに喋っていても、それでパー……」
「へ〜」
晴樹は空になったグラスを片手でくるくると回し、手元を見つめたままなにやらしばらく悩んでいたようだが……やがてそのグラスはピタッと止まり、彼の視線もまた皇の方を向いた。
「それさ……よく言う、あれじゃないの?」
「あれ?」
「ほら、アドバイスじゃなくて共感が欲しいとかそう言うやつ……よくあるじゃん?」
「いや、聞いた事がないな……なんだ、共感?」
「うん。なんて言うか、相手の気持ちを一旦受け止めると言うか……」
「受け止める……?」
「そうだよ。一旦相手の子の気持ちを聞いてあげるんだ」
予想外の答えだったらしく、皇は目を丸くする。
「それは……何のために?」
「へ?いやほら、その時どう感じたかとか向こうが言いたい事を聞いてあげてさ……」
「聞いてどうするんだ?」
「え?いや、そりゃあ……『うんうん、分かるよ』みたいに同意してあげたりとかさ、まずは話を聞いてあげるんだよ」
「だが、それではなんの解決にもならないだろう?」
皇のきょとんとした顔に、なんとなく居心地悪くなったのか視線を外す晴樹。
「……?よく分からないが、同意したところでなんの意味が……?」
まるで漫才のような展開だが、彼はいたって真面目。
冗談でも悪ふざけでもなく、心の底から不思議だと思っているようで……
「いやぁ……意味って言われると……」
「ただ問題を先延ばしするだけで、時間の無駄にしか思えないんだが……違うのか?」
「あ〜、あ〜……うん……いいや、そのままの君でいて……」
そう言ってなんだか優しい目つきになった晴樹。
「えっ?なっ……えっ?」
それに対して、訳が分からず狼狽える皇。
無意識に動いた腕が手元にあった空のグラスを倒し、置き直そうとしてまたバランスを崩し……
「あっ」
そして、また倒す。
これまで冷静沈着、落ち着いた雰囲気を出していたたが……酔いもあるだろうが、なかなか動揺しているようだ。
何回か繰り返してようやくグラスが元の位置に戻ってきた頃……
彼の心も落ち着いたようで、会話が再開した。
「え、ええと……その、相談の答えは……?」
「ほら、人間って向き不向きあるからさ……きっといつかお前と合う人出てくるって」
「そうじゃなくて、」
「これが答えだよ」
「な、なんだそれ……」
一応答えではあるのだが、解決策というには実現性に乏しく。
それ以外の何かはっきりとした答えを求めていた皇としては、なかなか不本意そうな様子。
だからといって子供のように不貞腐れる訳にもいかず、渋い顔をするだけに留まっていたが。
「あ、そうそう。ちなみに、デートとか行った事あんの?」
「話を逸らすな。ちゃんと質問に答えてくれ、これでもかなり困っているんだ」
「それなりに機会はあったんだろ?」
「だから、ふざけてないで質問に……」
「お前の大学って結構都会だし、周りに遊ぶところなんていくらでもあるもんな。それもそれで羨ましいぜ」
「お、おい……」
「強いて言うなら、海が遠くて近場にビーチが無いってことくらい?」
「……」
これ以上の追求は無意味と悟ったのか、皇は静かになった。
晴樹としても、もう質問に答える必要性を感じていなかったのだろう。
幼い頃から見ている弟の性質からして、ここで共感の有効性を説いたところで彼自身変わるかと言ったら答えはノー。
昔から理屈っぽく無意味を嫌う彼の事だから、言ったところで何も変わらない。
つまり、会話の中で怒られるという問題の解決はおそらく無理。
この問題の解決方法は、そんな彼を包み込んでくれるような人と出会うか、彼自身がそんな自分に気づき変えていくか……そのどちらかだろう。
そして、手っ取り早いのはその前者……彼の発言はつまりそういう意味も含まれているのだろう。
諦めの意味合いの方が強いようだが。