16-2-1.生まれ持った超不器用属性
自分、不器用ですから……
手先も、その性格も。
とある休日の昼下がり。
神澤 秋水は姉、美露の部屋へ向かっていた。
大事そうに両手で抱えている丸いトレーの上には……ほんのり湯気が登る紅茶のカップと、大きめの皿にちょんちょんと品よく盛られたビスケット二つ。
部屋に篭り練習を続ける彼女をそろそろ休憩させるため、突然の来客で手いっぱいになってしまった家政婦の代わりに持ってきたのだった。
彼が一歩、また一歩と進むたびに眩しく光が点滅する。
鏡のように磨かれた銀色のトレーが、歩みに合わせてグラグラ揺れていて……どうやらそれが壁に映って、フラッシュのような光を発しているようだ。
本人としては溢さないようにと手元を凝視しながら必死に運んでいるつもりらしいが、危なっかしくて見れたもんじゃない……
バチャッと音を立てて溢した訳ではないが、もうすでにいくらか溢れているであろうことは容易に想像できてしまった。
部屋に近づいていくにつれ、バイオリンの音色がはっきりしてくる。
明日のコンサートのために念入りに調整しているようだ。
同じフレーズを何回も何回も……素人の耳には全く違いが感じられないほどの僅かな差だが、細かく細かく調整されどんどん磨きがかかっていく。
「……開けるよ?」
返事はなかったが、どのみち駄目とは言われないはず……そう判断した彼はさっさと中へ入っていく。
部屋の真ん中で、緑色の長い尻尾がゆさゆさと忙しなく揺れている。
部屋の入口であるこちらに背を向けた状態で、なにやら夢中で演奏しているようだ。
「……ここ、置いとくから」
独り言のようにそう言って、すぐ側にあったテーブルにトレーを置く。
演奏はまだまだ終わりそうにない。
緩急つけて忙しなく動き回る美露の腕、真剣だがどこか優しげな眼差し、そしてそんな彼女の腕の中で誇らしげに輝くバイオリン……
技術もかなり高レベルなのだが……それ以上に何かこちらを圧倒させるような何かがあった。
『上手い』とは別次元の何かが。
「……」
彼の表情がみるみる暗くなっていく。
「……」
彼はこの空間が嫌だった。
姉のこの空気感が嫌だった。
とんでもなく遥か高次元にいる存在と、対してちっぽけな自分。
それを嫌でも見せつけられる、この状況が昔から嫌だった。
周りは気にせず、自分らしくやると決めたのはいいが……それでも嫌なものが綺麗さっぱり消えてくれる訳ではない。
ここ最近外出が増えた姉。
彼女の姿を見なくなった事で、こうして比較して苦しむ事は減った。
減ったというより、ここ数ヶ月ほぼ無かった。
だから……こんな感情になるのはかなり久しぶりだった。
「……」
言葉が出ない。
さっきから鉤括弧の中、何か言うでもなくずっと同じ記号の羅列だが……それしか出ないのだ。
顔がゆっくりと歪んでいく。
泣きたいと言えば今すぐ泣きたいし、怒りたいかと言えば今すぐ怒り出したいくらい。
けれど、それ以上に……強大で化け物じみた何かに突き飛ばされたかのような、心臓を丸ごと強く押し出されるような絶望感があって……ただただ絶句するしかなかった。
「……」
そして、それから一時間ほど経った後。
バイオリンの音色がやっと止まった。
「……ふぅ。ちょっと休憩……」
「……」
「……って、あれ?いたの?」
「紅茶持ってきた」
彼の顔が、今の一瞬でいつもの仏頂面に。
だが、まるで威嚇でもしているかのような鋭い目つきに全く動じない姉。
きっと、いつもこうなのだろう。
「そうなの。ありがとう」
いざ飲もうと美露がカップを持ち上げると、底からソーサーに向かってスーッと雫が垂れていく。
やはり溢していた。予想通りではあるが。
「あらまぁ」
そう言う口調はとても軽かった。
そして、そのまま慣れた手つきでティッシュで拭う。
これもまた、おそらく日常茶飯事なのだろう。
「自分の分は?」
「もう飲んだ」
「そう」
一通り拭いてカップが綺麗になったところで、一口ごくり。
「……ん、おいしい。この紅茶、きっとイギリスにいる叔父様が送ってきてくれた物ね」
むすっとしたまま、彼は何も言わない。
でも、美露も美露でそれを気にせず勝手に喋る。
家族らしいある種の適当さが、なんとも言えない心地良い空間を生み出していた。
「元気にしてるかな?最後に会ったのは……ええと……」
「わ、もう半年近く前……!うわ〜、あっという間ね時間が経つのって!」
「また何かのついでに会いに行って、お礼言わなきゃ」
秋水が口を開いたのは、叔父の話をひとしきりし終わった後だった。
「……なぁ」
「うわぁっ?!」
それまで黙っていて、突然口を開いたものだから、驚かない訳がない。
突然の声に驚く姉と、それをジトーッと見つめる弟。
「び、びっくりした〜……」
「……あのさ」
普段より低いトーンの声、そして相変わらずのキツい目つき。
「な……どうしたの?」
いきなりの展開に、流石の美露も少し身構えている。
「今の……」
「うん」
「良かった」
「……はい?」
感想かよ!
彼女の心の中の突っ込みが聞こえてくる。
険しい表情でそんなこと言うもんだから、視覚と聴覚で情報が混乱しそうになるが……決して悪い感情を抱いている訳ではないらしい。
「え、えと……ありがとう?」
「やっぱり、すごいなアンタ。ただの練習なのにこんな夢中にさせられるなんて……」
言い方は乱暴だが、彼なりに称賛しているつもりらしかった。
「ふふ、そう?嬉しいわ」
「どうしてここまでできるんだ?」
「あら、やる気戻ってきた?」
意味ありげな姉の視線に、弟の瞳が大きく揺らぐ。
「ほら、前回のコンクールで……」
「何もあれはやる気がなかった訳じゃないっ!」
彼としてはその話を家族にされるのは、正直未だに駄目だった。
どうしてもどう頑張っても、心の中がじわじわとした痛みで埋め尽くされてしまう。
ましてや、この美露には特にその話題を振られたくなかった。
絶望感の上にさらに痛みが重ね塗りされる……そんな最悪の事態、できるなら極力避けたかった。
しかし、その希望は今こうして叶わなかった訳だが……
「あ、いや違うの。別にやる気がないとか言いたい訳じゃなくって……」
「じゃあ何だよ!」
声を荒げる彼を宥めるように、美露は優しく言葉を続ける。
「違うわ。別にあなたを責めるつもりはないし、失敗した事が駄目とは思ってない」
「……」
「でもあなたにしてはすごく大きな変化だったから、何かあったのかなって」
「……アンタには言いたくない」
それとなく理由を尋ねてきた美露を、彼は真っ向から拒否。キッパリと突っぱねた。
「……」
彼女の表情が僅かに曇る。
元々穏やかな性格らしく、これまでずっとにこやかな表情だったが……ここに来て急に真顔になっていった。
「……」
「……」
だがそれすら、今の彼には腹立たしいだけのようだった。意思は変わらず。
少し間を置いて、美露の顔に元の穏やかな表情が戻り、会話は再開した。
「いいわ、無理には聞かない。きっと、あなたなりになにか理由があったんでしょう……」
「……」
「それにしても……ちょっと意外だったな」
「何が?」
「今までずっと真面目に頑張ってきてたじゃない。一回も練習嫌がったことないし、文句も言ったことないし」
「拒否権なんて無かったじゃないか」
「でも、いくらでも逃げようと思えば逃げ出せたはずよ?」
下の部屋からドッと笑い声が聞こえた。
ちょうどこの部屋の真下に応接間があるのだ。
客と両親、そして家政婦の声。
なんの話をしているのかは分からないが、とても盛り上がっているようだ。
「だけど……あなたは絶対にしなかった」
「……」
「だから……とうとう、ここに来て燃え尽きちゃったのかなって思って」
「……」
「そしたら、少し……心配だなって……」
彼女はただ心配しているだけ。
真面目だった彼が、燃え尽き症候群で……やる気も気力も何もかもをすっかり失ってしまったんじゃないかと。
心配してくれているのはありがたい。それは彼自身なんとなく分かっていた。
しかし、頭ではそう分かっていても……なんとも受け入れ難いものがあった。
ましてや……何度も言うが、それを言ったのが姉の美露という事がネックで。
「別に燃え尽きた訳じゃないし」
「そう?」
「ただ、方向が定まってなかっただけ」
「……」
「演奏の目的が間違ってたから直した、それだけ」
「そうだったの」
声のボリュームは落ち着いたものの、キツい言い方はそのまま。
だが、姉の調子も変わらず。
あれほど怒りをあらわにされても気にせず、ゆっくりとした上品な口調を維持していた。
「ふ〜ん……目的、ねぇ……」
「その言い方。なんかある訳?」
「せっかくの良い機会だし……私の話、していい?」
「何?」
口調もその表情もこの上なく嫌そうだが……体は完全に姉の方を向き、目は爛々と輝いていた。
相変わらずのツンデレ。心と体が見事にチグハグである。
「いいから、そこ座って」
「あんまり長かったら部屋帰るよ?」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、手短に……」




